アクサイチン攻勢

#11 アクサイチン攻勢

 北方コマンド14軍団に所属する装甲歩兵大隊の中隊隊長の一人であるジェイコブ・ミラー大佐は、インド陸軍が保有する人型機動兵器ヒューマー『ハヌマーン』の、分厚く、曲面を描く胸部装甲とその内に秘めるコックピットカバーを開け、コックピットの外に出て、脚を伝い地面に降りた。


 肌の出ている顔と手が冷気に触れて悴む。夜空を見上げると雲が少なく星の瞬きを見ることができ、新月も近づいてきた下弦の月が、眼下で争う人間達を蔑み嗤っているように見えた。


 ジェイコブは左腕に付けた腕時計をちらりと見た。現在、時刻はインド標準時0時15分。45分後、『月の砂漠』とも呼ばれるラダックの地において、インド陸軍総勢20万人によるアクサイチン攻勢が行われようとしている。表面的な目標は、レアメタル採掘場の奪取。だがそれは、中国に対し短期決戦で勝負をつける『新たな日の出作戦』の前哨戦に過ぎない。北ベトナム戦線とインド東部アルナーチャル・プラデーシュ州から気を逸らさせるための大規模な陽動作戦、というわけだ。


 とはいえ、この戦いはインドうちの政治家たちにとっては、レアメタル採掘場を手に入れ、アクサイチン、いやカシミール地方全域を支配するための口実に過ぎないのだろうが。


 全く、醜いもんだろ?ジェイコブは再び空を見上げて月にむかって心の中で言ってやる。月は不気味なまでに嗤ったままこちらを見据えていた。


 さて、そろそろ行くか。ジェイコブは月から目を逸らし、進軍方向とは反対の方角にある指揮所に向けて歩き出した。


「中隊長!どこに行くんですか?」


 振り返ると、『ハヌマーン』のコックピットあたりから、若いインド人が顔を出していた。ジェイコブの中隊隷下の小隊長のアンシュが、コックピットカバーを開いて無線などを使わずに、ジェイコブの行き先を直接聞いてきたのだ。


「ちょっと指揮所に行ってくる」


 ジェイコブは、近くのコンビニに飲み物を買ってくるとでも言うくらい軽く返事をした。


「はい、わかりました。え、指揮所?」


 状況を理解しきれていないアンシュをよそに、ジェイコブは再び月の砂漠を歩きはじめた。


 5分後、彼は前線指揮所の前に来ていた。郊外にある古びたホテルに設営されたそれは、数十万の兵を指揮するにはみすぼらしく見え不釣り合いに思えた。


 彼は、はぁ、と溜息をひとつつき、生者たちがたむろする幽霊屋敷の中に入っていった。


「ここは一兵士が来るところではない」


 右へ左へと走り回る指揮所の濁流にのまれながらも司令官がいる部屋の前にたどり着くと、いかにも屈強そうな兵士に止められた。


「司令官殿に召喚されてまいりました」


「そうであろうな」


 ……ではなぜ聞いたのか。ジェイコブはふと思った。


「武器を持っているのなら私に渡せ。そうしてから中に入るんだ」


 持っていた拳銃を彼に渡して中に入ると、そこにはカシミール軍集団司令を兼ねる北方コマンド司令官ドゥルーブ中将と恐らくその副官であろう人物がいた。


 北方コマンドと西部コマンドを携えカシミール戦域を司るカシミール軍集団。そのトップがみすぼらしいホテルの一室に構えている。


「いいホテルだろう?私はここが好きだ」


 中将が口を開いた。どうやら気が合わなそうだ。


「それで、君を呼んだわけだが所属を言ってくれないかね」


 ジェイコブは少しの間ののちに姿勢を正し答えた。


「北方コマンド 14軍団 第8山岳師団 第1歩兵戦闘団 第24装甲歩兵連隊 第1大隊 第101中隊長。ジェイコブ・ミラー少佐であります」


 副官がそれをメモしているように見えた。


「そうか、“今は”第8山岳師団にいるのか……」


「中将殿、顔色が悪そうですが大丈夫ですか?」


 ジェイコブは態度を崩さず聞いた。


「そ、そうか?大丈夫だ……。まあ、そのあれだ。“悪魔”の名に恥じない活躍、期待しているよ……。くれぐれも頼むよ。ジェイコブ君」


 中将は内容をぶつぶつと切りながら、そして念を押すように語尾を強めた。


「わかりました。一中隊長への要件は以上でしょうか?」


「ああ。頑張ってくれたまえ」


「では失礼します」


 ジェイコブは回れ右をして退出しようとした。扉から出る直前、再び声をかけられた。


「若い小隊長がいたろう。彼によろしく伝えといてくれ」


 それが本命かもしれないな。ジェイコブは「わかりました」と言って今度こそ退出した。


 指揮所を出て時計を見る。0時40分。かなり時間を食われてしまった。急がなければ。


 ジェイコブは暗い月の砂漠を、死の匂いがする自分の持ち場へ向かい、走り去っていった。


 一度も振り返ることはなかった。

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