第19話
お嬢様を教室へ送り届けた後、殿下は手紙を2、3通
ガイの上着に私の化粧が移ってしまったので、洗剤を少量貰い、濡れたタオルで叩いて行きます。王族警護の騎士服はとにかく上等なので、気を使います。
……しかし、お嬢様を届け終えた時から、いいえ、その前からガイは一言も話しません。勿論、この上着を手渡すのも無言。そして、今は私のシミ取りをじっと見つめたままで、とても気不味い状況です。
「あの、ガイ? 怒ってますか? 」
「……あれで怒らない奴は世の中少ないと思うが」
思いの他声を低く答えられて、私は困ってしまいます。
「だってお嬢様にあんな言い掛かりを付けられて、とても腹が立ったんですもの。ちょっと一族郎等根絶やしにしようかと、誰だって思いますでしょう?」
「いや、せいぜいちょっと殴りたくなるだけだろうが。何だ、結婚出来ないって。今朝日取りを決めたのに、1時間も経たない内に反故するとか、流石にそれは無いだろう? 」
確かに、ガイの言う事も一理ありますね。
「ごめんなさい。軽率でしたわ。次はバレない内に処理致します」
「いやいやいや、いつからお前は暗殺部隊に所属したんだ? 違うな、それだけじゃない。腹が立ったのは否定しない。でも
「それは…すみません」
「俺が腹が立ってるのは、お前の頑張りが馬鹿にされた事だ」
「えっ? 」
私は思わず作業の手を止めました。目線を上げると、ガイは真剣な面持ちで、私を見つめています。
「……あの巻き髪、ラナが死に掛けたっていうのに、あんな言い方を……ラナが足止めしたから、あいつだって逃げられた。それを、踏み
「ジョセフィーネ様を巻き髪って……。まあ、解析魔法も掛けずに倒れたのは事実ですが……あれには私もむっとしましたよ? けれど、態々抗議文だなんて、大袈裟です」
「……妻が馬鹿にされて、心穏やかな奴は居ない。まあ、スチュワートが何か考えていたから、抗議文は要相談だが。庇ってやれなかった自分にも腹が立った」
そ……んな、そうですね。私もガイを馬鹿にされたらきっと腹が立ちます。……夫婦ってこういう事なのでしょうか。
「……ありがとうございます、私の為に怒って下さって。」
「当然だ。大事な伴侶だからな。誰かが傷付けて良いものじゃない」
「……あの、嬉しいですけれど、恥ずかしいのでそろそろ辞めて下さいまし」
そう言ってガイを伺えば、口元が意地悪げに片方だけ上がりました。
「嫌だ。ショックを受けた分は好きにさせて貰う。労って貰わないと割に合わないからな」
え。何をさせるつもりなのですか?!
「そんな酷いものじゃない。そう構えないでくれ。もっと意地悪したくなるだろう? 」
「心を読まないで下さいまし! 」
「顔に出ていたのだから、仕方ない」
そう言って楽しそうに笑うガイを見て、私は一先ず機嫌が直った様で安心致しました。化粧も無事取れましたので、上着をガイに渡します。
「この部分、少し水をお願いします」
下にタオルを敷き、その上に上着を乗せて、ガイに魔法で少しだけ水を出して貰います。氷魔法は水魔法の上位に当たる魔法です。このぐらい、容易いのです。
「このくらいか? 」
「はい、ありがとうございます」
次は私が手を
「……どうせ直ぐにまた化粧が付くのに」
「何か仰って? 」
「いいや? 妻が甲斐甲斐しくて、抱き締めたくて仕方ないなと」
「ま……た、そんな事を言って……私はガイと違って不慣れなのですから、あまりからかわないで下さい。直ぐ顔が赤くなるの、恥ずかしいんですから! 」
殿下の付き添いで様々な夜会に出席してるんです、お世辞がお手の物だからって、私は困るんですからね??
「俺と違って……って、俺は思った事しか言ってないだろうが! 」
「じゃあ今は何を考えてます? 」
「……早くラナが俺の妻にならないかと」
「な?!えっと……殿下の真似? 」
「ああはなりたく無い」
その神妙な面持ちに、私は思わず笑ってしまいます。
「……ラナは今何を思ってる? 」
「ふふ、ガイと夫婦になったら毎日こんなやり取りをするのかと思うと、何だかおかしくて」
ガイが天井を仰いでいるのですが……前から思っていたのですけれど、時折するその仕草、何の意思表示なのでしょうか?
「ああ、ここに居た」
突然声を掛けられ、私達は声のする方へ顔を向けました。
そこには、カップの乗ったトレーを片手に、もう片方の手を挙げている1人の男性の姿がありました。……そして何故か私達のテーブル……と言うより、私の真横にトレーを置きます。え、座る気ですか?
「そんな嫌そうな顔しないでよ、レイン女史……何、セレンディス殿凄い怖い顔なんだけど、辞めてよ」
ガイを見れば、物凄く眉間に皺が寄っています。
「軽々しく妻の隣に座るな。ラナ、此方へ」
妻って!? まだ正式じゃ……移動するのですか? 面倒なんですけれど……ガイの雰囲気が怖くなって来ましたので、渋々私はガイの隣へ移動しました。
移動して私がガイの隣に座っても、突然の来訪者は目を丸くしたまま、席にも着かず此方を見下ろしています。
「……あの、ミスター・ベガモット? 何かありまして? 」
「あの、君達いつ結婚したの?! って言うか、そんな仲だったっけ?? 」
「貴殿には関係ない。一体何の用件か伺っても? 」
ガイの機嫌が良くないです。でもね仕方ないですね、彼、トール・ベガモットはあの、ジョセフィーネ様の護衛でございますから。
「ああ、いや……そんなにつんけんしないでよ。先程うちのお嬢様が、大変失礼したから、ちょっと挨拶に伺っただけじゃないか」
そう言いながら、彼は席に着きました。長居する気満々ですか?しかし、私も思う所がございますから、これは好都合です。
「そう思うなら、初手の時点で説得するなり、何処かへ連れて行くなりして下されば良かったじゃないですか。主人を時に嗜めるのも大事な役目でしょう? 」
「だって、私が何を言っても聞きやしないんだよ。それに、取り巻きのあの2人の子も、何を考えてるんだか煽って来るし。男1人でお手上げ状態だよ」
「それを毅然と言ってやるのも、優しさでしてよ? 」
「相変わらずレイン女史は厳しい……」
相変わらずって、私達そう言葉を交わした覚えは無いのですが……彼の言葉に、ガイの方から冷気が放たれた気がするのは私だけでしょうか?
誤解を招きそうな面倒な言い回しをした当の御仁は、眉尻を下げ苦笑しています。
その姿は、本当に男性なのかと思う程弱々しいものです。おかしいですね、私より背も体格も良いのに。女性らしいのは長い髪のせいでしょうか?
「それにしても、朝のあれは行き過ぎだ。学園とはいえ、王太子と未来の王太子妃に向かってする言動じゃない。下手をすればいくらマーレイ家と言えども、身柄拘束ものだ」
「そうなんだよね……あれは、空気を変えたアリアナ嬢のお陰だと思ってるよ。王太子様笑顔怖かったし……」
あら、私以外でも殿下の胡散臭い笑顔を見破る方がいらしたとは……いいえ、あそこで気付かないのはジョセフィーネ様だけですわね。
「あんな規格外の
「………」
「……あの、ミスター・ベガモット、あの場にいらしたの? 」
座った状態で私達へ頭を下げていた彼は、即座に頭を上げました。が、此方を見るその目はとても驚愕している様子です。
「居たでしょ?! 居た居た! 君達は王太子様と未来の王太子妃の護衛だから
私、お嬢様の事ばかり考えていて、全く気付いていませんでした…。
「うちのお嬢様だって、あんな化け物見たから大変さは分かるだろうに、何であんな事を言ったのか……。最近様子がおかしいんだよ」
彼女は前からあんな感じだとお見受けしておりますけれど?
「あれでも、もう少しは公爵家の者らしく、まあ、ちょっと高飛車ではあるけれど、逸脱する事は無かったんだけどね。今年に入ってから……ここ最近はあからさまに変だ。特に王太子様への執着は凄いものだよ」
「確かに……失礼。」
「いや、良いんだ。本当の事だからね。……多分、補正が入ったんだ。」
「ほせい……? 何がですか? 」
「……ああ、いや何でも」
「あ! トール兄、何してるのこんな所で!! 」
私が追及しようと思った矢先、入り口付近で大きな声が上がりました。其方を確認すると、ミレニス嬢が教材を抱えて此方を見ています。一時限目が終わったのですね。次はお嬢様は…移動では無いので、ホムラ達に任せても大丈夫でしょう。
「あ、セレンディス様、レイン様申し訳ありません」
私達に気付いて、ミレニス嬢は深々頭を下げました。そう言えば、彼女はお嬢様を私の元へと連れて来て下さった謂わばもう1人の命の恩人です。それなのに、バタバタしていたとはいえ、私はお礼を伝えるのすら忘れていました。
「ミレニス嬢、移動教室でしょうか? 少し、お茶を一緒にしませんか? 」
「ええ?! いえいえ、私の様な者がとんでも無いです! 時間も迫ってますし、お気遣いありがとうございます! 」
「そうですか……では、改めて今度お礼に伺いますので、連絡を入れさせて頂きます。宜しくお願い致します」
「えええ?! 大丈夫ですから、お気になさらないで下さい!! あ、そろそろ行きます、失礼致しました! 」
そう言って彼女は走って行ってしまいました。急いでいる所、申し訳無かったかも知れません。しかし、
「何故ミスター・ベガモットとミレニス嬢がお知り合いなんですか? 」
私が思うに、寧ろ対極の位置に居ますよね、貴方方。主にジョセフィーネ様とか。
「ああ、私は元々セルーク神父の元に居たので、あの子とは兄妹の様に育ってね。腕を買われて子供のいないベガモット家に養子に入るまでは、良く遊んでやったんだ。では、うちのお嬢様が煩くなる前に、私は教室へ向かうとしますか。お二方のお時間を邪魔してすみません。でもまたこうやって一緒にお茶でも……怖い怖い、セレンディス殿目が怖いから! 」
そう言いながら、彼はカフェテリアから去って行きました。
「……あれでは、ジョセフィーネ様をお止めする事は難しいでしょうね」
「………」
ガイが先程から無言なのですが、どうしたのでしょう? 何だか室温も下がった気が致しますし。
「ガイ? 」
「何でも無い」
そう言っていても、何かありそうな感じですが……。ガイの顔を伺えば、急に手を取られました。
「どうしましたの? 」
「貴重なラナとの時間を邪魔されて、ちょっと拗ねている」
「子供ですか?! 」
大きな体をしているのに、困ったものです。けれど、何故か可愛いと思えるのですから、不思議ですね。私は自然と笑ってしまいます。
「そんなに笑うところか? 」
「ふふふ、だってガイが可愛いんですもの」
「可愛いのはお前だ。俺じゃない」
「なっ、そんな事言われても……ふふ、さっきのガイは可愛かったですよ? 」
私は笑いが治まらなくて、ガイはそんな私の手をずっと握っていたのでした。
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