渓流釣りの怪

@wirako

一話完結

 ハクセキレイの鳴き声が渓流けいりゅうのせせらぎを切り裂いた。宙を跳ねる黒い尾は青葉を落とし、澄んだ川面をささやかにいろどる。僕は釣竿を軽くしならせ、くるりと踊る青葉のそばに小さな波紋を描いた。


 薫風くんぷうに鼻をくすぐられながら、すっと体の力を抜く。次第に、そよぐ新緑の一枚一枚が目に映るようになる。鳥のさえずりの機微を聞き分けられるようになる。五感で捉えるすべてが、自分の中に溶けこんでくる。


 やがて自然と一つになっていく。


 釣りとは、この神秘的な感覚を堪能たんのうするために存在している。そう表現しても大げさではないと僕は思う。



『若いくせに、年寄りくさい釣りだな』



 ふと、いつかのおきさんの言葉が脳裏をかすめた。


 かつて僕は、会社の先輩である沖さんと、何度か渓流釣りに出かけたことがあった。


 歳は二回りも違ったが、互いに大の釣り好きですぐに意気投合した。けれど沖さんは僕と違い、釣果ちょうかにこそ喜びを見出す人だった。そのためにはせわしく歩き回る手間と体力を惜しまない。中年にしてはたくましい体つきも、精力的な釣りを楽しみたいがこそだ。


 それゆえクラゲめいてゆったりした僕の釣りは、マグロのごとく活発な沖さんに幾度となくからかわれたものだ。


 ただ、沖さんは自身のスタイルを僕に押しつけたことはない。だからこちらも気楽でいられたし、泊りがけで渓流釣りに興じるまでの関係になったのだった。



 寒くなってきたな……。



 山から下りてくる冷たい風が、あたかも川面を身震いさせているようだ。僕は小さく首をすぼませ、視線を上流へさかのぼらせた。


 すると対岸のやや離れた場所にある、苔むした巨岩に目を引かれた。降り注ぐ木漏れ日により、岩肌にできたくぼみが人の泣き顔を浮かび上がらせていた。



「……あっ」



 思いがけず驚嘆の声が出た。



 あれが沖さんの言ってた人面岩じんめんいわなのかな。



 僕は水流に逆らって岩に近づいてみた。


 そばに寄ると、いっそうくぼみが人の顔に見えてくる。どうやら間違いなさそうだ。


 前に僕は、沖さんと行った渓流釣り旅行の宿泊先で、この山にまつわる怪談を聞いたことがあった。


 正確には、この山の渓流にまつわる怪談だ。


 沖さんは浴衣姿で名酒に顔を火照ほてらせながらも、理性を宿す眼差しで語ったのだ。


 僕は今一度、あの日の記憶をよみがえらせた——。







 ……そう、怪談だよ。釣り人の遊び場は大自然の中だからな。お前だって何年も釣りやってるなら、奇妙な体験の一つや二つあるだろ?


 なんだよ、ないのかよ。相変わらず川魚より淡白な奴だな。じゃあ俺のとっておきを語ってやる。


 お前、巳土山みつちさんって知ってるか? そうか、聞いたこともないか。


 青森にひっそりそびえる山でな。青森といえば津軽富士つがるふじ八甲田山はっこうださん白神山地しらかみさんちが有名だろ。巳土山はそういう名山の陰に隠れて登山客さえ滅多にいない、知る人ぞ知る釣りの穴場なんだ。聞き覚えがなくても無理はない。


 ……あれは忘れもしない、三年前のことだ。大きな商談を成功させた自分へのご褒美ってことで、俺は五月の終わりに巳土山へ日帰り旅行に出かけたんだ。釣り仲間から話を聞いて以来、ずっと気になってたんだよ。


 当日の巳土山は清々しい晴天。渓流釣りにはあまり向かない天気だが、それでも俺は川釣り用の服を着て、リュックを背負い、竿を引っ提げて意気揚々と山を登った。


 ただクーラーボックスを持って移動するには距離があったから、腰に巻けるクリールにした。娘に誕生日プレゼントでもらったから使ってみたんだが、小型のクーラーボックスとして活用できるからありがたかったな。さすがは俺の子だ。


 そうそう、誕生日には帽子もプレゼントしてくれたんだよ。懐かしいなあ。あの日はそれもかぶって山に行ったんだ。おかげで今は、あれがないとどうも落ち着かなくってな。釣果も他の帽子をかぶったときより恵まれてる感じがして……おい、露骨に興味ないって顔するのやめろよ。


 どこまで話したんだっけか。ああそうだ、山を登ったってところだな。


 渓流に到着した俺は、川幅六メートル程度の地点から始めることにした。綺麗な川だったよ。巨岩の陰や淵にある魚影もくっきり見えた。


 周囲に広がる広葉樹も、枝葉の影を岸にかぶせて綺麗な木漏れ日を作るんだ。密集した木々の奥が暗いだけに、ひときわ眩しく映ったっけな。


 しばし景色を楽しんだ俺は、白波をBGMにしつつ釣り餌を放ったんだ。


 ところが、そこじゃまったく釣れなかった。魚がやけに怯えた様子で出てこないんだ。気を取り直して場所を変えても、腰のクリールにはまったく獲物が入らない。丸ボウズだったわけだ。


 さすがにいやな汗がにじんだよ。家族やお隣さんに期待しておけと豪語した手前、これじゃ恥ずかしくて家に帰れない。なんとしてでも釣果は稼ぎたかった。とはいえ、空がうっすら朱色がかってきたもんだから、帰宅の二文字も頭をよぎる。


 釣り糸を垂らしながら、俺は二者択一に悩んだ。そのさなかにも時間と水は流れていく。なのに運だけは一向にめぐってこない。


 潮時だ。諦めて川を下り始めたときだった。



 おーい。



 不意に対岸から声をかけられた。驚いたよ。それまで人の気配なんてまったくなかったんだからな。


 声がしたのは、岩肌が人の泣き顔じみてくぼんだ巨岩のそばだ。いわゆる人面岩ってやつだな。はじめは岩が喋ったのかと思って驚いた、驚いた。


 よく見れば、そこには木々の間を通る、支流らしき水の流れがあったんだ。対岸で、しかも人面岩があったから見逃したんだろう。


 声の主は暗がりの支流に立って、俺に手招きしてたんだ。釣り人の男だった。



 こっちの方がよく釣れますよぉ。



 男は気さくな笑顔で誘ってくる。俺は対岸へ渡って話を聞いてみた。


 なんでも、男は地元民らしい。今日は入れ食いで気分がいいから、絶好の穴場を教えてくれるんだと。俺が庭園のコイよりどん欲に食らいついたのは語るまでもないだろ。こういう一期一会も釣りの醍醐味だいごみだよな。


 ただ、会話してるのに男が暗がりから出てこないのはどうかと思ったが、まあ些細なことだ。俺は諸手もろてを挙げて支流に踏みこんだ。


 途端、空気が一変した。茂った緑が日光を遮ってるせいか、やたらと肌寒いんだ。まるで自分がクリールに入れられた心地だった。奥へと走る水流も、黒い絵具を溶かしたみたいにくすんで見える。さっきまでの川面が急に恋しくなったのを今でも覚えてるよ。


 水底の岩を踏みしめて五分ほどで支流を脱すると、さっきと同じ川幅の渓流が姿を現した。ただこっちは大気がかすみがかっててな。あれは少し幻想的だった。


 釣り人の男はさっそく、水流が揉み合った箇所を指さした。俺はすがる思いで竿を振ってみた。


 そしたらものの数秒で釣れたんだよ、三十センチ超えのヤマメが! いわゆる尺ヤマメってやつだ。


 鮮度を保つために俺は手早くナイフで締めた。これがまた活きのいいヤマメで、取り除いた内臓はどれも岩の上でのたうち回ったんだ。あれを目にしたときは、大自然の力強さを改めて思い知らされたな。


 俺は待ちに待った獲物を氷の入ったクリールにしまった。腰にかかる重みは、もうひとしおよ。


 この調子でもう一匹、と竿を構えたところで、男が他の穴場も案内するといって上流へ歩き出した。


 もちろん着いていったよ。ヤマメ一匹じゃお隣さんには配れないからな。俺は岩から岩へ飛び移って男の背中に続いた。


 倒木の目立つ場所では、東北だと珍しいアマゴがヒットした。体表を覆い尽くさんばかりの赤黒い斑点は、鮮血にも似て生々しいんだ。俺の手に派手な裂傷ができてるんじゃないかと何度も確認したよ。


 男が次に導いてくれたのは、巨岩の多い急流だった。捕らえたのはイワナとニジマスだ。


 でっぷり肥えたイワナは異様に生命力の強い個体で、黄ばんだ腹にナイフを入れる間も目玉をぎょろぎょろ動かすんだ。


 ニジマスも細身ながら、腹を裂いたときは甲高い鳴き声を発した。活きのいい魚が釣れて、俺は大満足だった。


 日没の兆しが表れた頃、男は次が最後の穴場だと言って先を行った。


 俺としては、ここらでお開きにすべきだと思った。上流に進んだだけ引き返すのも骨だし、危険も増す。日が暮れてきたなら余計にな。


 とはいえ、まだ釣り足りない気持ちはあった。それに、ここまで親身にしてくれた男の顔も立てないとだ。結局俺は先へ進むことにした。


 だが、さすがに足腰の疲労が溜まってきた。特に腰が、さびついた機械じみてきしんでな。俺はクリールを肩がけにするために一旦立ち止まった。


 その際、釣果を確かめようと思い立った。実は道中そわそわしてたんだよ。お前でも共感はできるだろ。自慢の手柄はつい眺めたくなるもんだ。


 いても立ってもいられなくなった俺は、蓋のロックをはずそうと手を伸ばした。


 そのときだ。クリールがぶるっと震えたんだ。


 まさか、と俺は目を疑った。だが手指に感じた振動は誤魔化せない。


 捕らえた四匹はしっかり殺したはずだ。おまけに氷漬けにもしてある。なのに、どうして中身が動くんだ。あり得ないだろ。


 とにもかくにも、俺は蓋をずらしてみることにした。


 ……そしたら、目が合ったんだ。隙間からなにかの黒目がこっちを覗いてたんだよ。


 とっさに俺はロックをかけた。それでも内部の臭気は漏れたらしく、腐ってるとしか思えない生臭さが鼻を突いた。


 反射的にのけ反ると、またしても目が合った。


 薄霧の向こうから、釣り人がぬらりとした瞳で俺を射抜いてたんだ。



 どうしましたか。



 岩を打つ水しぶきが騒がしいのに、その声は息を吹きかけられたかのごとく間近で感じられた。


 慌てて言いつくろった俺は、急いで腰にクリールを巻き直した。


 このときから俺は、なにかおかしいと遅まきながら気づいた。


 前を行く釣り人は一体何者なんだろうか。道中何度も会話を交えたのに、人相をまったく思い出せない自分がいたんだ。


 いや、その程度ならまだいい。問題は男が俺に釣らせた、異様な個体の魚たちだ。



 ヤマメから除いた内臓がのたうち回るか?


 アマゴの斑点は血と見紛うほど赤黒いか?


 イワナの目玉がぎょろぎょろ動き回るか?


 ニジマスは鳴き声を発する生物だったか?



 あり得ないよな。こんな当たり前の事実を見落としてた自分に愕然がくぜんとしたよ。いつの間にか頭の中まで霞がかってたらしい。いや、本当に周囲の霧が俺を狂わせてたのかもしれない。


 一刻も早く逃げるべきだと本能が叫んだ。だがそれには、頭蓋骨よりも大きい岩石がかれた道を戻る必要がある。服装だって、腰まである長靴を履いてるも同然だ。走るのには適さない。


 もし足をくじいて追いつかれでもしたら、俺はたちまち捕まるだろう。そしたらなにをされるか、想像したくもなかった。


 考えこむ間にも、時折クリールが生き物みたいにうごめきやがる。それが腰を叩くたびに肌が粟立あわだって、もう気が気じゃなかった。


 しばらくして、高さが三メートル程度の小滝に差しかかった。小滝が流れる岩場は急斜面で、登るのは不可能だ。山中から迂回することになった。


 激しい水音に急かされるようにして、俺は決意を固めた。


 まずは男に続いて深い木々の中へ入った。それから徐々に距離を取り、幹の陰に身を隠しつつ、機を見計らって川へ引き返したんだ。


 釣り用の装備はすべてその場に投げ捨てた。その際、パチン、という聞き覚えのある音が鳴ったが、そんなものに注意を払ってはいられない。俺は暴れ狂う心臓と共に下流へと逃げ出した。


 空が逢魔おうまときを色濃く反映した頃、俺は握り拳を作った。支流の入り口が薄霧の先に顔を見せたんだ。


 息も切れ切れの胸に希望が満ちてきた。足腰もなんとか持ちそうだし、あとはひたすら体を動かすだけだ。


 俺は後方を確認してみた。くまなく視線を滑らせたが、木陰にも岩陰にもあの男の姿はない。


 完全に逃げおおせた。俺は信じて疑わなかった。だから霧の立ちこめた上流へ目を走らせる余裕も生まれた。


 上流には、なにか黒っぽいものが浮かんでいた。


 あれはなんだと疑問に思う前に、その黒いものは、すぅっと沈んだように見えた。


 最初は見間違いだと思ったよ。遠く離れてたし、霧でぼやけてたんだから。


 だが……黒いものはまた現れた。数分前に俺が通り過ぎた巨岩のそばで。


 と思いきや、また沈んで、また現れた。今度はついさっき乗り越えた倒木の近くだった。


 ああ、その通りだ。


 黒いものは俺を追いかけてきたんだ。


 悟った瞬間、さっき耳にした音の正体に気づいた。


 あれはクリールのロックがはずれた音だ、と。


 俺は死に物狂いで支流をさかのぼった。


 支流は、夕方とは思えない暗さだった。満足に前が見えないんだ。突然大小の岩石が飛び出してくるし、水底は段差が多いから気を抜くと足をすくわれかねない。


 だから足元に全神経を傾けないといけないのは、理屈では分かってた。だが頭は疑心暗鬼で押しつぶされそうだった。


 今、後方で白波の音が乱れなかったか……あの生臭さが漂ってきたような……水中でなにかが揺らめいた気がする……岩陰からひょこっと黒い影が——


 と油断した途端、俺は派手に水しぶきを立てて転んだ。しかも足首をひねる最低なおまけつきだ。


 それでも歯を食いしばって、足を引きずりながら先を急いだ。


 すると、ついに見えてきたんだ。暗闇のずっと先でかすかに輝く、夕焼け色の水の流れが。


 あそこまで辿り着ければ逃げ切れる。根拠はあいまいだが、確かな直感があった。口からは安堵あんどの溜め息が漏れた。


 その溜め息が、ぬちっ……と暗闇に響いた。


 いや、そうじゃなかった。立ち止まって耳を澄ませてみると、水音に混じって、泥を踏みつけたような粘っこい音がはるか後方で鳴ったんだ。


 ぬちゃっ、ぬちゃっ、ぬちゃっ……


 音は遠くからやってくる。


 ずっちゃ、ずっちゃ、ずっちゃ、ずっちゃ、ずっちゃ……


 森を騒がす勢いで大きくなる。


 ずっちゃずっちゃずっちゃずっちゃずっちゃずっちゃずっちゃ——


 迫りくる異音はまるで、無数の魚が泥の上で飛び跳ねるかのようなおぞましさだった。


 俺は死力の限りを尽くして走った。


 どちゃどちゃどちゃどちゃどちゃどちゃどちゃどちゃどちゃどちゃ——


 脅威の間隔が狭まる。背中が絶え間ない振動にさらされる。


 強烈な生臭さが鼻腔びくうをつねる。涙で視界がにじむ。


 死が肉薄する。


 もう駄目だ。すべてを諦めたときだった。


 一気に視界が開けて赤い光に目を刺された。直後、俺は鼻や喉から大量に水を吸いこんだ。


 溺れる顔を水から出して周囲を見回す。


 そこは、夕日の残光を反射する川のただ中だった。


 不気味な音はもう聞こえない。川のせせらぎと中年男の咳こみだけが鼓膜を叩いた。


 ひとしきり落ち着いた俺は、おそるおそる、支流へ振り返ってみた。


 …………。


 いたよ、化け物が。草木に紛れた入り口で俺を、よどんだ黒目で見つめてたんだ。


 どんな姿だったかって?


 …………。


 ……。


 聞かない方がいい。俺もそこまで話すつもりはないしな。


 ただ、一つ言えるのは……。


 …………。


 もし五匹目まで釣ってたら、俺はネギトロよりも悲惨な運命を辿ってたってことだろうな。はっはっはっ——。







 この怪談を語ってくれた旅行先での渓流釣りが、沖さんとの最後の釣りになった。


 沖さんは転勤で家族と東北へ引っ越して以来、行方知れずとなってしまったのだ。


 家族の証言によれば、真夜中に突然釣りの準備をし始めたらしい。娘さんが問いただすと、「呼ばれてるんだ」と一言だけ告げて出て行ってしまったという。


 警察の捜索の結果、巳土山付近の駐車場で沖さんの車が見つかった。しかし沖さんは発見されなかった。


 あの人はどこへ消えてしまったのだろう。僕がそう考えたとき、真っ先に浮かんだのがくだんの怪談だったのは当然といえた。


 僕は静かな釣りが好きだ。けれど沖さんと行く釣りも、どうやら好きだったらしい。だから彼の手がかりを得るべく、こうして巳土山に足を運んだのだ。


 そして釣りがてら、目印の人面岩は発見できた。ところが、肝心の支流はどこを探しても見つからない。



 まあ、そうだよな。



 元々怪談を真に受けていたわけではない。沖さんは冗談好きだったため、若造の僕をおどかすつもりで語ったのだろう。釣りは引き際が肝心だという教訓をこめて。


 なんにせよ、これで手がかりはなくなってしまった。いや、そもそも警察や巳土山の関係者が探しても見つからなかったのだ、無駄骨になることくらい分かってはいた。それでも体が動いてしまったのだから仕方ない。


 僕は巨岩の隣で釣り竿を振った。もう一度自然の営みに身をゆだねる。気持ちを整理するには釣りが最適だ。



 引き際が肝心なのは、なにも釣りだけに限らない。そうですよね、沖さん。



 爽やかな風が渓流を吹き抜けた。木の葉たちがその身をこすり合わせ、耳触りのいい音色を奏でる。僕は山の息吹いぶきに心を溶かしてしまおうと、静かに目を閉じた。


 直後、釣り竿に手ごたえを感じた。とっさに思考を固め直し、手元を中心に神経を張りめぐらせる。


 獲物は大して抵抗もなく釣れた。しかし魚ではなかった。ゴミだ。おそらくは釣り人の帽子。水底の岩に引っかかっていたのかもしれない。



「あれ……」



 ふと既視感を覚えた僕は、妙に生臭いそれを針から取って検めてみた。



「これって……」



 間違いない。


 沖さんが娘さんにもらった、あの帽子だ。


 帽子は長らく水流にさらされていたためか、くたくたになっていた。にもかかわらず、至るところに黒っぽい泥がこびりついている。


 泥は、ぬちっ……と指に粘りついた。気持ち悪い感触にぞっとした僕は、帽子を川面へ落としてしまう。


 その帽子が川下ではなく、股下を通り抜けていった。


 足元には、いつの間にか新たな水流が生まれていた。



 おーい。



 背後で、聞き覚えのある声がした。

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