彼方へ
師匠は怒るなとは言わなかった。怒りに支配されるなと告げたのだ。
ならば、俺のやる事は分かっている。
避けたと思えた先程の斬撃で、胸元が薄皮一枚裂かれているのか、薄く血が滲んでいるのが分かった。そう言えば、ジンジンと痛む。
迫る人影が、上段に刀を振りかぶる。そして、電光の速さで打ち込むのと同時に、俺はカルラに向かって低い姿勢から駆け出した。
迫る刀を苦無で受け流そうと根元で受け止めて、滑らせた。刀の根元で受けたのに、指先が痺れるほどの衝撃。でも今は関係が無い。
苦無を振るう心算は元からなかったからだ。左拳を握り、一撃を逸らされて驚愕に歪むその顔に殴りかかった。
間近で見たカルラの顔だちは、当時と変わっていなかった。
エルフ特有の白い肌。切れ長で薄青の瞳が印象的なその双眸も。ツンと上向いた小高い鼻も。少女の様な淡い色合いの唇も。傷は増えていたが、当時のままの美しさを湛えていた。
だが……。
その瞳に宿る苦悩の、そして虚無の影を見て、俺は、カルラを殴れなかった。
殴れなかったが、許せなかった。
「俺を死に場所にするんじゃねぇ!」
革製の鎧に身を包んだ女サムライの襟首を掴んで、屋根の上に叩き付ける。
突進した勢いを利用した忍びの技の一つだ。
苦無の一撃、ないしは顔に一撃入れられると思っていたらしいカルラは、思わぬ攻撃に背中を強かに打ち付けて、激しく咳き込む。
俺はそのまま馬乗りになり、襟首を掴んだまま顔を引き寄せた。
「何故裏切った? お前はそんな女じゃなかったはずだ! 死んだと思っていた、もう会えないと! 何故生きているならば生きていると言わなかったんだ!」
怒りと寂しさと悲しみが綯い交ぜになったまま、言葉を叩き付ける。
階下がうるさいが今はそれ所じゃない。
「ごほっ……言えるか、馬鹿野郎……オレは裏切ったんだ」
「……何で俺だけ迷宮の外に出られたのか、今分かった。お前が俺を連れ出したな?」
「……殺せなかった、お前だけは」
ふざけるなよ、カルラ! 裏切るならしっかり裏切り通せ! そんな理不尽な思いを抱いたまま、俺はさらに言葉を紡ごうとした。そんな俺を何処か虚無的な瞳で見やって、カルラは刀を持つ手に力を込めた。
「オレは……お前を殺して……」
「虚勢を張るな、俺の勝ちは揺るがない」
「死んでもお前を殺さないと……妹が」
カルラの妹……まだ子供だった筈だ。エルフだから十年経とうがまだ……。ああ、アルバンの野郎はそういう趣味があったのか。十年前位からカルラの妹は囲われていたと? くそ、反吐が出る!
俺がアルバンに対する怒りに我を忘れた瞬間にそれは起きた。カルラが刀を手早く順手から逆手に持ち直し真横から俺を狙って突いてきた。俺の体が攻撃に反応して思わず回避行動に移ると同時に、あいつは微かな笑みを浮かべて……自分の首に刃を押し当てて引いた。
一瞬だけ噴き出た真っ赤な血液は、霧に紛れる。驚きに一瞬身を固くした俺にあいつは言った。
「……すまない、すまなかった……誰も殺したくなかった……だれも。頼む、助けてくれ、イーネス……妹を、ティセアを……」
「勝手にくたばるんじゃねぇ! ふざけろよ、カルラ!」
止血しようと頭巾をほどき、傷口に宛がう。階下で騒がしい住人に漸く意識が向き、俺は叫んだ。
「怪我人だ、医者を呼べ!」
四の五の言いかけた住人は俺の剣幕に押されたのか、血の匂いでも嗅いだか、慌てて医者を呼ばわる為に外に出た様だ。
「たの……」
「もう良い、喋るな」
もうすぐ、夜が明ける時刻。
俺はカルラを抱えて、屋根の下、二階の窓から民家に侵入を果たした。怯える家人に後を頼めば、俺はすぐさま外へと出た。
この一件がアルバンの耳に入る前に、やらなきゃならない。
薄明かるくなってきた霧中を駆けながら思う。オヤジ、すまねぇ。馬鹿な女に惚れた俺の弱みだ。昨日の会話が今生の別れとなるのは、ちと寂しいが達者でな。
俺はアルバンを殺る。
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