夜霧の彼方

キロール

夜の霧と共に

 深い霧が王都を包んでいる。


 こんな日の夜は、死霊が歩くと街の者は噂し合い、外を出歩く物は稀だ。


 酒豪も、性豪も歓楽街を出歩かないのだから、夜の盛り場は閑散としている。


 聖都に住んでる坊主達は情けないと嘆くかもしれないが、生憎と俺も出歩きたくはない。


 何せ十年前までは、王都から数キロしか離れていない場所にある、今は封鎖された迷宮から死霊がゾロゾロと這い出ていたのだから。


 十年前……。


 その辺の事を考えると何とも言えない心地を覚える。


 こいつを何と例えれば良いのか……癒え掛けた古傷が再び開く様な不快感と痛みとするか。いや、治りかけた傷の瘡蓋かさぶたを自ら剥がすかのようなちぐはぐな感覚か。


 どちらにせよ、痛みを伴う苦い経験が思い出される。


「イーネスっ! 怖い顔をさらに顰めてんじゃねェよ! 万が一客が来ても、そのつら見たら帰っちまうだろうが!」


 木製のカップを棚に並べていたオヤジが、いつもの調子で俺にそう声を掛ける。


「そもそも誰も来ないんだから帰るも何もねぇさ。で、閉めるのかい?」


「閉めるさ。油が勿体ねぇ」


 客が来ても良い様に店内のランプは灯されているが、誰も来ないんじゃ無駄だわな。 


 油も安くないんだ。


「しかし、魔獣油なんてもんが、こんなに重宝することになるとはなぁ」


「あの迷宮もそういう意味じゃ存在価値があったってことかな」


 迷宮を踏破するために必要な明かりを、迷宮に湧く魔物の死体から抽出した油を使ったランプを用いたのが始まりだった。


 ある種の魔物の油は臭みが少なく、煙も出ないとあって重宝されるようになった。


 今ではその魔物を狩るのが並みの冒険者の食い扶持になっている。


 だが、最近はその油の流通が良くない。


 一般にも広まった所為で需要はうなぎ登りだ。だが、幾ら魔物ったって狩り過ぎれば種として消えちまう。


 程ほどが良いって死んだ師匠が良く言っていたもんだが。


「迷宮か……。おめぇが迷宮近くでぶっ倒れているのを見た時は魂消たまげたもんだがな」


「今生きてるのはオヤジのおかげさ、有難すぎて後光が見える」


「アホ抜かせ」


 そっけないオヤジの返答だが、俺は半分以上は本気なんだがな。


 そうこうしている内に片づけも終わった。あとは二階の部屋に引っ込むだけか。


 別にやる事もない、とっとと寝ちまうか。


 そう考えている俺を見て、オヤジが何か口を開き掛けて止めた。


「何だよ?」


「いや……噂で聞いた話を思い出してな」


 歯切れの悪いオヤジを見ながら、珍しいと小首を傾げる。途端、その口から野郎の名前が飛び出してきた。


「アルバンが一部の冒険者を使って、油を独占しているとかなんとか。英雄様を悪く言うのは気が引けるんだがな」


「――野郎ならやりかねぇや」


 忘れる事のない名前。


 俺が死にかけ、俺の仲間が死んだ元凶。


 野郎の名前を聞くと腸が煮えくり返るが、表情に出さず言い捨てた。


「おめぇ、やっぱり何かあったんじゃねぇのか? アルバンと。拾った時だって奴さんの名前を呟いてたじゃねぇか」


「何にもねぇよ。奴が嫌いなだけさ」


 知らない方が良い。


 あのはた迷惑な迷宮の主を倒した英雄様が、同業者殺しのクズだってことは。


 実績を上げた所為で王の覚えも良い、庶民が下手な事を口にしたら首が飛んじまう。


 其れに野郎は無駄が嫌いだ。好き嫌いならば、まあ、目くじらを立てる事もないだろうが、悪評となれば……手を打ちかねない。


 今は貴族様だ、庶民じゃ手に負える訳がない。

 

 お姫様も野郎にはゾッコンらしいしな。


 俺の態度に何を感じたかは分からないが、オヤジはそうかと一言呟くだけだった。




 店を閉めてから、俺は自室で木板で作った簡易のベッドに横になり考え込んでいた。


 野郎に対して復讐する心算はあった。だが、怪我の完治に1年以上を費やした。


 鈍りに鈍った俺の技を取り戻すのに数年掛かりだった。


 何せ、半年は寝たきりだったし、動ける様になったらオヤジの店を手伝ったからな。


 ただ飯どころか、瀕死の俺を引き取って面倒見てくれたオヤジに恩返しするって言ったらこれしか思いつかなかった。


 三十路を超えた今でも、当時程度の動きは出来ると思うが……精々酔っ払いの喧嘩をあしらう程度の鉄火場しか体験しなくなった俺で、野郎が討てるのかは甚だ疑問だ。


 それに、オヤジへの恩は返し終わって居ない。


「くそ……。野郎の名前を聞くと今でも腹の虫がおさまらねぇ」


 腹立たしげに呟き、嘆息を吐き出す。


 このまま老いさらばえれば復讐などは夢のまた夢。


 負け犬みたいに尻尾を撒いて逃げ出すしかないのかと言う憤懣ふんまんはあるが、オヤジを捨て置けるわけもない。


 今年でもう60を超える。


 いつまでも重たいエール樽を運ばせる訳にもいかない。


 この間なんてよろけちまってた。


 そんなオヤジを捨てて、命を捨てる復讐に興じられるほど自分に酔っちゃいない。


 死んじまった連中には悪いが……。


 考えながら、俺は起き上がりざまに嘗ての得物を壁に投じた。


 タンッと小気味良い音を立てて、ダートの如き棒手裏剣が羽虫を壁に縫い付けた。


 嘗ての修練の様な事をして、今更何があるのかと息を吐き出す。と、階下で物音がする事に気付いた。


 誰かがドアを叩く音がする。


 こんな霧深い夜更けに何者だ?


 そのまま捨て置いて寝ちまっても良かった。


 オヤジの部屋からは高いびきが聞こえるし、木戸は閉じているから俺の部屋に明かりがついていたって外からじゃ分るまい。


 だが、常連だった場合、流石に居留守ははばかられたし、娼婦辺りが何かに襲われて逃げて来ていたとしたら……見捨てるのは忍びない。


 仕方なく、ランプ片手に階段を下りて扉に向かって声を掛けた。


「もう店じまいだよ、それとも何かあったのかい?」


 物取りだと面倒だから、とりあえず誰何の声を掛けると、懐かしい声が返ってきた。


「本当にここに居たのだな、イーネス。私だ、カルラだ」


 ああ、あの話は本当だったのだと実感した。


 こんな霧が深い夜には、死霊が出歩くと言うあの話は。

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