雪原に陽は燃える

夢空

第1話 序章

 雪が降る。山に、村に、曇天の空から音も無く、ただしんしんと。まるで空間が凍りついたかのように、空気が張り詰めている。

 そこに、一人の少女が林の獣道を走っていた。

 年の頃は十ほど。服装は赤いコートと、深々と被った白いニット帽。帽子からは真っ直ぐな長い金髪が、一歩進むごとに跳ねて踊る。

 白い息を切らせながら、木を編み込んで作ったバケットバッグを、大事そうに抱えて進んでいく。雪と同化してしまいそうな白磁の肌が、ほんのり赤く高揚していた。


 しばらくして少女は足を止めた。そこは赤レンガで出来た、小さな一軒の小屋だった。少女は、そこの多少古びた木製の戸に近付く。


「おじさん!」


 少女がそう呼びながら、戸をノックする。だが中からは返事が無い。

 少女は小屋から少し離れ、小屋の屋根を見上げた。小屋には煙突があったが、そこからは煙が出ていない。この寒い中、暖炉に火も入れず部屋の中にいるなど考えられなかった。


「家の中じゃないとすると……」


 少女は家の裏手に回る。そこは看板とロープで区画整備された場所だった。だがそこに何かあるわけでもなく、ただ一面に雪景色が広がっているだけだった。

 しかしとある一画に、少女は黒い塊が置いてあるのを見つけた。すると、それがもぞもぞと微かに動く。それだけで少女には、それが何なのかすぐに察しがついた。


「ルークおじさん!?」


 少女はそれに走り寄り、黒いものを引っ繰り返す。それは、少女がよく見知っている髭面をした男だった。



「っくしょう! さむ、死ぬ……」

 そこには毛布に包まりながら、がちがちと歯を打ち鳴らしている男が一人。暖炉のオレンジ色の火に、まるですがり付くように当たって体を温めている。それは先程少女が見つけた、ルークと呼ばれた男だった。

 年は三十後半から四十ぐらい。口元と顎には無精髭を生やし、見た目をさらに老けさせていた。くすんだグレーの髪をこれまた無造作に伸ばし、それが本人の性格の不精さを物語っている。


「そりゃ、あんなところで寝てたんだから当たり前。私が見つけなかったら死んでたよ?」

「別に寝たくて寝たわけじゃないがな」


 そこに先程の少女が部屋に入ってきた。両手で鈍色のトレイを運び、その上には白い湯気が昇っているカップが置かれていた。少女はルークの前に座ると、そのカップを差し出した。


「はい、台所にあった適当な野菜やお肉を使ってスープを作ってみたの。温まるよ」


 その匂いに刺激されたのか、ルークの腹が高らかになる。その音に、ミウはくすっと小さく笑った。


「ありがとう。ミウ」


 ルークは恭しくそのカップを受け取ると、三度ほど息を吹きかけて冷まし、スープをすする。その作業を何度か繰り返し、最後は搾り出すかのように大きく溜息を吐いた。その顔は赤く上気し、満たされたという充足感が広がっていた。


「どう、落ち着いた?」

「ああ、染み渡る。天にも昇る気持ちってのは、こういうのを言うんだろうな」

「やだ、お世辞にしたって大げさすぎるよ。でも、何であんな所に倒れてたの?」


 ミウの問い掛けに、ルークは目線を逸らしてきまりが悪そうにする。だがミウがその視線の先に回り込み、無言で答えを促した。ルークは諦めると、ぽつぽつと話し始める。


「んん……まあ、実はな。今日の朝からどうにも体の調子が悪かったんだが、多分平気だろうと、畑の観察と新しい種を蒔いてたんだ。だが、その時くらっと来てな。気がついたらその……倒れてた」


 それを聞いて、ミウは呆れたといったように、大きく溜息をついて首を横に振った。


「信じられない。倒れるほど具合が悪いのに外へ出るなんて」

「朝起きた時は大した事無かったんだ」


 ルークが少しすねたように口を尖らせる。


「どうせまた何時間もずっと外にいたんでしょ? そりゃ風邪も悪化するよ」

「まあ、今日はもう養生するさ。ところでミウ、もう夕方だってのに、今日はどうしたんだ?」

「あ、そうだった」


 ミウは自分が来た目的を思い出し、部屋の隅に置いておいたバケットバッグを取ってくると、その中身をルークに見せた。


「はい、お父さんから差し入れ」

「こいつは……ウイラーの八年物か!」


 そこから出てきた一本のビンを見て、不機嫌そうだった顔が途端に破顔する。

 それは琥珀色をしたカルフという種類の酒だった。舌が焼けるかと思うほどに度数が高く、寒い地方では体を温める定番として一般的なものである。

 そしてこの銘柄は、その中でも特に味と香りが良い事で評判だった。八年物なら、かなり良い値段がするはずだ。


「ミョルクの奴、気が利くじゃないか」

「そんなに良い物なの?」

「こいつさえあれば、風邪なんてあっという間だ。ミウ、父さんによろしく言っといてくれ」

「うん!」


 ルークの機嫌が治ったのがよほど嬉しかったのか、ルークに負けないほど良い笑顔で元気に返事をする。その顔を見て、さらにルークも嬉しくなる。笑顔という正の連鎖が、二人の心を、この上なく幸せにしてくれた。

 ふと、ルークがある事を思い出す。


「なあミウ、お前の好きな色って確か黄色だったよな?」

「うん、そうだよ。見るだけであったかくなるよね、黄色って。でも何で?」

「そうか。実はな、今日蒔いた種は黄色の花を咲かせるんだ。まあ、うまくいったらの話なんだが」

「ほんと!?」


 ミウはぱっと立ち上がると、あっという間に裏手の畑が見える窓に張り付いた。

 畑といっても、そこには真っ白な雪が降り積もっているだけだ。養分となる土はその遥か下。普通なら、花など咲くはずも無い。


 ルークは植物学者であり、小さいながら自分の研究所も持っている。だが今は研究所を研究員に任せてこのメルク村に住み、雪上でも咲く花を開発してきた。

 もちろん、ほとんどの人からは夢物語だと相手にされなかった。だが、ほんのわずかでも賛同者はいる。例えば研究所の研究員と、この村の人々。

 研究員達は研究所で様々な植物を交配させ、出来た品種の種をルークに送る。そして村の人々は、さっきみたいな差し入れなどで、ルークの生活を支えてくれていていた。


「今度は咲くかな?」


 ミウはわくわくと体を左右に動かして外を見ている。そのそばにルークは近付き、一緒に外を眺める。


「まずは発芽してくれない事には何とも言えないな。その後は厚い雪を突き破って、下の土に根を張ってくれる事だ」

「難しい事なんだよね?」

「発芽が一番難しいな。種の発芽は温度が関係する。こんな寒い地域の、しかも雪の上で発芽するなんて奇跡に近い。研究所でそんな環境が作れればいいんだがな、今の技術じゃそれが出来ない。だから俺がここで試すんだ。どんなに失敗したって、何度でも」

「お願い、今度こそ咲いて……」


 ミウが両手を組み、種を蒔いた場所へ祈る。

 その時、薄暗かった世界が緋色に染まった。雲の切れ間から、夕焼けが覗いたのだ。その真っ赤な光は、窓辺にいたミウに降り注ぐ。


「あう!」

「ミウ!」


 ルークはすぐに窓辺からミウを引き離す。ほんの僅かな時間しか当たっていなかったが、ミウの夕日が当たった部分が赤くはれ上がってしまっていた。

 ルークはすぐに外へ出ると雪を両手ですくい、ミウの元に戻ってきた。そしてミウの手と頬に雪を当てて冷やす。しかし進行を食い止める事は出来ず、右手と右の頬に赤い跡が残ってしまった。

 ルークは部屋の隅においてあるタンスから救急箱を持ってくると、まずは右手にガーゼを当てて包帯を巻き始める。


「痛いか?」

「うん、ちょっとだけ。でも平気」


 ミウはそう言うが、痛みで顔が歪んでいるのが分かる。こんなに腫れていて、痛くないはずが無い。ルークは包帯が擦れないように、なるべくゆっくりと優しく巻いていく。


 ミウは強い日の光に当たる事が出来ない。原因不明のそれは雪肌せっきと呼ばれ、生まれた時ごく稀に先天性の障害として現れる。そして人々の間では悪魔の子、日陰者などと揶揄され、迫害の対象となってしまう事がほとんどだった。

 だからミウは、普通なら簡単に外に出る事は出来ない。しかし、それを可能にしたのがこの地方の風土だった。


 一年中、空は厚い雲で覆われ、断続的に雪が降る。人々の間では、この辺りは常冬の地と呼ばれている。だから、空の様子にさえ気をつければ、気軽に外に出る事が出来た。

 さらに、村の中では絶対に迫害はされない。なぜなら、この村はミウのような障害を持って生まれてきた子供達が生活できるように、国が作った村だからだ。言うなれば、村全体が保護施設のようなもの。だから例え雪肌だろうと、村の人達は普通の子供と全く同じように接する。ミウは、村中から本当に愛されて育ってきたのだ。

 雪肌の子供達は年々減り、今この村ではミウ一人しかいない。だが、それは一概に喜べるものではないだろう。その事に対して、色々な黒い噂が流れているのも事実である。


 不恰好ながら右手の包帯が巻き終わり、今度は顔にガーゼを当てる。そこへ十字に紙テープを張って固定した。


「とりあえずはこんなところか。後でちゃんとセージュ先生に見せるんだぞ」

「うん。それじゃ今日はもう帰るね」


 窓の外はもう真っ暗だ。さっきの夕日は地平線ぎりぎりだったのだろう。今なら、ミウは安心して外に出る事が出来る。

 だが、雪の夜道は危険だ。村までの道はほとんど獣道に近く、滑りやすい上に足元が見難い。さらにこのあたりは、稀に野獣だって出る。


「送っていこう。準備するからちょっと待ってろ」

「大丈夫だって。それにおじさん、風邪引いてるし……」

「お前が無事に帰ったか分からなきゃ、心配で寝れやしない。風邪なら大丈夫だ。お前のスープのおかげで、大分良くなった」


 もちろん、そんなのは強がりに決まっている。風邪がそんな簡単に治るはずが無い。ミウもそれが分かっているはずだったが、それ以上拒みはしなかった。

 ルークは手早く着替えて暖炉の火を消した。そして夜道を照らすためのカンテラを取る。


「よし、行くぞ」

「うん。……けほ」


 微かにミウが手で口を押さえて咳をする。ルークはその様子を見て、心配そうにしゃがんだ。


「悪い、俺の風邪が移ったか?」

「ん、多分違うよ。ここ、ちょっと埃っぽかったからだと思う。ちゃんと掃除しないとダメだよ」

「む、まあ気が向いたらするさ」


 心配したつもりが逆に窘められてしまい、ルークはばつが悪そうに立ち上がる。

 玄関を開けると、そこは真っ暗闇だった。二人は雪に足を取られないよう、手を繋いでゆっくりと進んでいく。

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