第94話「生涯の変人」

「やっぱこの時間はきついな~」

 来た時よりもいっそう身を切るような外の寒さに、思わず両腕をクロスさせて腕をさする。

「ルノアール行くか」

 光蟲も、寒さを紛らすために両手を合わせて摩擦している。

「今日はデザートあるといいな」

 先月のらんぶるでは、ベートーヴェンにしてやられた。

「ルノアールだから大丈夫っしょ」

「そうねー」

 互いに半笑いを見せながら、早足で癒やしの空間へと向かった。


「いらっしゃいませ。空いている席どうぞ」

 期待どおりに美脚店員が勤務しており、脳内でガッツポーズをとった。

 一番奥の席に座り、分厚いおしぼりで冷えた顔面をケアする。

「ケーキ全種類あったから安心ですな」 

「おぉ、さすがルノアール」

 ルノアールは、たいていの店舗で客の見える位置にケーキの入ったショーケースが置かれており、そこで在庫を確認できる。私は忘れていたが、光蟲は席につく前にしっかりチェックしていたようだ。


「ブレンド二つと、ガトーショコラにミルクレープ」

 光蟲が、美脚店員にオーダーを告げる。

 ここ最近お目にかかれずにいたが、濃艶のうえんとさえ言える太腿や、背を向けた際に見える肉感的なヒップは相変わらずで、後でおかずにいただこうと脳に刻む。

「やっぱ心のオアシスだなぁ」

 しみじみとつぶやいた直後、ポケットに入れた携帯電話のバイブが鳴り出したので、開いてメールを確認する。

「そのへんのクサレカフェとは安定感が違うよね」

「ははは」

 笑いながら、今来たメールに手早く返信する。

「珍しいね、誰から?」

「あぁ、浅井さんから。来週、時間あったら部室で打ってくれないかって」

 そういえば今年に入ってから、まだ囲碁部の人とは顔を合わせていなかったことに気付く。

「へぇー熱心だね。また大会とかあるんだっけ?」

 私が答える前に、美脚店員がコーヒーとケーキを運んできた。

「いやぁ、まだだいぶ先だね。五月の連休中だからね。部員が少ないから、打ちたい場合は事前に連絡とって時間決めないと、なかなか難しいことが多くて」

 返信を終えてブレンドに口をつけると、飲み慣れた程よい苦みが体内を潤す。

「なるほどなぁ。なんにしても、いい趣味を持ってて羨ましいよ」

 そう言って、光蟲もブレンドを飲み始めた。



「そうか。限界だったんだな」

 いつからか、途中になっていた小学時代の話が展開されていた。

 私の淡々とした語りに、光蟲は時折頷きながら、真剣な顔つきで耳を傾けている。


「普通に考えて、もっと早く、両親や他の先生に相談すべきだったんだろうね。変な意地張ってないで」

 二、三口分残っていたミルクレープを、まとめて口に入れる。

「非道な悪人相手に真っ向勝負のスタイルをとり続けたがために、キャパを超えて爆発してしまったわけか」

 そう言うと、光蟲は眼鏡をはずし、冷たくなったおしぼりでレンズを拭いた。

「あの頃はまだ幼くて単純だったから、そうするしかないと思っていたんだろうな。でも、自分の独りよがりな正義が、結果的に宮内さんや松田先生や両親に、多大な罪責感を与えてしまった」

「罪責感か」 

 眼鏡をかけ直し、天井を仰ぎながらつぶやく。


「あれだけ必死になって守っていたものは、いったい何だったんだろうね。結局、気力も情熱も、あの後にはもうなくなってしまった」

 時間が経って冷たくなったサービスのお茶を飲み干し、荒れ果てた教室で号泣していた宮内の顔を想起する。

「でも、最近の悦弥くん、なかなか情熱的なんじゃないのかな? 囲碁部や茶道部で精力的に動いてるし、春頃より、表情も明るくなった気がするよ」

「そうかな。ありがとう」

 笑顔が増えたよねと、以前この場所で浅井に言ったことを思い出した。


「でも、やっぱり時々思ってしまうんだよね。自分のこれまでの生き方は、間違っていたのかなと。もっと、周囲とうまくやっていくように努めなければいけなかったのかなと。これから先、どういうふうに生きていけばいいのかなと。こんなこと、言っても仕方ないかもしれないけど」

 半笑いに満たないぐらいの苦笑を浮かべ、これまでの人生を思い返しながら言った。


「そのままでいいんじゃないの?」

「えっ?」

 どのような返答を期待していたわけでもなかったが、意外なほどに穏やかな彼の声音に、思わず聞き返した。


「巡り巡ってきた偶然の幸福を、満足した豚のようにぬくぬく生きるより、自分で選んだ不幸を血みどろで満喫すべきだろうというサディズムを、俺だったらこれからも選び続けたいね。まあ、自己決定したという状況に満足しているだけに過ぎないという意味で、悪趣味な決断主義でしかないのかもしれないけどさ」


「なにそれ、満足した豚って」

 思わず噴き出し、私は破顔一笑する。


「周りのことを気にし過ぎず、悦弥くんの思ったように生きていけばいいと思うよ。何が良い選択かなんて、誰にもわかりようがないし」

 光蟲は、いつもの半笑いに戻っていた。

「ありがとう。なんかすっきりしたよ」

 この男とは、できることなら生涯付き合っていきたいと思った。



 店内を見渡すと、来た時に十数人はいたであろう客たちの姿はなくなっていた。 

 静寂を纏った椅子とテーブルの整然さに、私は慌てて携帯電話を開く。いつの間にか、閉店時間の二十二時を十分も過ぎていた。

 


「すみません、そろそろお会計をよろしいですか?」

 

 美脚店員が、申し訳なさと迷惑さを混在させたような笑みを湛えていた。(完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る