第88話「無に帰した芸術」
図工の教員が体調を崩して欠勤していたため、この日は代わりに首藤が授業を受け持った。
絵の具を使って冬をテーマにした絵を描く、という内容だった。一学期末には夏、二学期中盤には秋をテーマとして同じ形式で行っていたので、担当が不在でも特に困ることはなかった。
冬をテーマに描くよう伝えられた時、すぐには手が動かなかった。
小学生の授業なのだから、雪だるまやサンタクロースなど可愛らしいものを適当に描いていればよかったのだろうが、そのようなありふれたものを描く気はなかった。
こうした、限られた範囲内とはいえ自由に個性を表出できる場面において、安易に妥協すべきではないと感じた。国数理社の主要科目とは異なり図工はそれほど得意ではなく、また絵も決して上手なほうではなかったが――図工の成績は、いつも五段階評定の中で真ん中だった――、私は真剣に考えた。
このような場合、まったく自身にゆかりのないものを取り上げるのではなく、何かしら自分が見聞きしたり、それについて何らか特別な感情を抱いたものを挙げることが自分らしく思えた。囲碁部や茶道部を通じて改めて実感した「私らしさ」という観念や「攻め」のスタイルは、当時から変わっていなかったのかもしれない。
私は、熟考の末に母の絵を描くことにした。
母には、冬になると葉巻を
喫う時期は決まって十二月後半の半月で、それを過ぎるとぴたりとやめて通常のタバコに戻った。ドミニカ産のダビドフを好んでいた。喫煙の際はベランダに出る、というマンション全体のルールを堂々と無視し、リビングのソファーにもたれて葉巻を喫う母の顔は、
テーマ決めに時間をかけたため、鉛筆での下書きを終えたところで十分間の休憩となった。早い生徒は一時間目でさっさと完成させ、次の時間で二枚目を描いているケースもあったが、最低一枚仕上げればよいことになっているので慌てる必要はない。残りの一時間で十分完成できる見通しがあった。
二時間目、同じテーブルのほかの三人よりも遅れて、私はようやく清書作業に入った。
高杉は、サンタクロースにトナカイという何のひねりも面白味もない絵を手早く描き終え、二枚目に取りかかっていた。上村は、スキー場でスキーをする親子やリフトの絵を描いており、こちらのほうがまだ多少のオリジナリティを感じる。宮内は、こたつに入ってお茶を飲んだりみかんを食べたりする家族の様子を描いている。三人とも、確かに冬らしいテーマで作成していた。
私の絵は彼らの絵と比べて、一見して冬を連想させるものではない。
しかし、図工の教員はいつも、芸術は必ずしも他者に理解されるものではなく、また理解される必要もないと話していた。たとえ大衆に受け入れられなくとも、自分がこうと思うアイデアや方法を大切にして欲しいとも言っていた。私の絵は、たぶん私や私の家族にしかわからないものだが、彼ならきっと、よく頑張って描いたなと褒めてくれるだろう。
母の姿よりも先に、自宅のリヴィングから、丁寧に筆で清書する。
水彩画は、水の量を誤って着手すると途端に作品の質を
パレットにあらかじめ出した複数の色の絵の具を使い分け、ゆっくりと筆を動かす。見慣れたリヴィング。白と黒の無機質な色合いのフラットキッチン、チーク材でできた赤茶色のダイニングテーブルと椅子、奥に置かれたダークグレイの横長のソファー、ソファーの正面にあるやや大きめのブラウン管テレビ。
母は、たいていソファーの肘かけにもたれて、正面のキッチンや左方のテレビ画面に適当に視線を向けながら葉巻を喫っていた。葉巻は、いかにも健康を阻害しそうな、扇情的で深みのある茶色だった。その色は、私の技量では正確に再現するのは困難だったが、どっぷりと感情を込めて色を作った。
授業終了まであと五分というところで、どうにか絵が完成した。
稚拙ながらも、ひと目見て女性がタバコのようなものを喫っているとわかる絵になっていた。ここ最近、心身の衰弱するようなことばかりに遭遇して疲弊していたが、久しぶりに多少の満足感を得られたような気がした。
「池原君、それ、何の絵なの?」
水を差すように、向かいに座る上村の声が届く。
「別に、何でもいいでしょ」
話したところで理解してもらえるはずもなく、また理解されたくもないので、にべもない返答をした。
「何だよそれ。タバコか? 小学生のくせにそんなものやってんのかよお前」
私の横に座る高杉が、いつものように介入してくる。彼は、二枚目は雪だるまと雪合戦する子どもたちを描いたらしく、相変わらず何の特徴もない――しかし、彼のつまらない人間性だけは全面に表出された――絵だと感じる。
「男の人に見える? 髪長いけど。それに、これタバコじゃないし」
「知らねえよバーカ。第一、これのどこが冬の絵なんだよ。意味わかんねえ」
「お前なんかにわかってもらう必要はないさ」
作品に視線を投じたまま、くだらないと思いつつもつい言い返してしまう。
「なんだとてめえ! ゴキブリのくせに生意気なんだよ!」
漢字テストの一件以来、高杉はすっかり私をゴキブリ呼ばわりする。
「池原ぁ、その絵は何だ?」
斜め後ろから、首藤の低く汚い声が耳に入った。
私は振り向きもせず、口を閉ざしていた。
「その絵は何だと言ってるのが聞こえないのか?」
先ほどよりもやや語勢が強まり、重々しい口調だった。
生徒たちも、動きを止めてこちらに注目する。
「母が、葉巻を喫っている絵ですよ」
背を向けたままで返答する。
「何だと?」
まるで解せない様子で、首藤は怒りを継続させていた。
「母はヘビースモーカーで年中タバコを喫っていますが、十二月後半の半月だけは葉巻になります。僕は、母が葉巻を喫うところを見るのが好きなんです」
首藤にではなく、その場にいない図工の教員に語るように、私は絵の意味を説明する。
「だからなんだ。それが冬をテーマにした絵だとでも言うつもりか?」
首藤は、いかにも馬鹿にしたような半笑いを浮かべている。
「あなたのような最低な人間にはわからないでしょうが、僕にとっては、母の喫う葉巻の甘い香りや、その時の母の淋しげな表情が、冬を象徴する一番大切なものなんですよ」
その場にいるのが、私の絵を理解できないであろう人間ばかりであったことが無念だった。
「小学生のくせに、葉巻を吸う絵なんか描いていいと思ってんのか? 教育上ふさわしくないんだよ!」
首藤が私の絵を取り上げ、中心から思いきり破る。
二度、三度と、画用紙が破れる絶望的な音だけが、室内に響き渡った。
ばらばらに破れた絵が、首藤の手から離れてひらひらとテーブルに落下する。
ソファーも母もダビドフもすべて粉々に砕け、私の二時間は無に帰した。
「先生、いくらなんでもそんな……」
私の斜め向かいに座る宮内が珍しく口を開いたので、首藤だけでなく生徒たちも意表を突かれた様子だった。私には、しかしもう聞こえてはいない。
「まともな絵を描いて、俺のところに持ってこい。俺がOKを出すまで、この先の授業に出ることは許さん」
宮内への返答はなく、大衆に理解され難い作品を描いた罰を私に与えたところで二時間目は終了した。
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