2001年・夏

小暑~大暑

第46話「水の魔物」

 状況が一変したのは七月だった。

 例年通りのスケジュールであれば、あと一ヶ月早くそうなっていただろう。通常六月のプール開きが、梅雨やそれに伴う寒さの影響で――そもそもそんな時期にプール開きをするのが阿呆としか思えないが――七月からとなったのだ。私は、しかしカナヅチだった。


 もともと運動が得意なほうではなかったが、かといって箸にも棒にもかからないわけではなく、体育の授業では他の生徒たちの真似をして適当にやり過ごせる程度の運動能力は有していた。

 それでも水泳だけはまるでセンスがなく、一年生の時から微塵も進歩がなかった。水の上で浮くことができないのはもちろん、ひとたび水中に身を投じれば、一人ではほぼ身動きがとれないのである。不用意に動こうものなら、その濁った水の塊に身体ごと呑み込まれてしまうのではないかという恐怖感があった。ビート板があればどうにか移動することはできたものの、足を浮かせて泳ぐには教師や他の生徒の補助なしには困難なほど、私は水に対して耐性がなかった。


 四年次までは、担任が比較的優しい人であったことと、高校時代に先行しての優等生の特権――小学校なので特待生などの待遇はなかったが、私が学力的に秀でていることは他のクラスの教員にも認知されていた――が功を奏し、かなり大目に見てもらっていた。担任や周囲の生徒たちは、苦手な私のことを気にかけてフォローしてくれたし、疲れたら気兼ねなく上がって休憩をとれた。

 首藤の前では、でもそんな特権などまるで意味を成さなかった。それどころか、普段の授業で揚げ足をとれないことが、余計に彼を刺激したに違いない。

 その年の水泳の初回授業日は、首藤が家庭都合で休暇を取っており、別のクラスの教員が担当した。昨年、一昨年と同じクラスだった男子生徒数名が私の出来なさ加減をその教員に説明してくれたので、それまでと同じような緩い取り組み方で容認された。


 首藤が担当した最初の日のことだ。

 クラスメイト数名に見守られながらビート板を使ってマイペースに練習をしていた最中、首藤がつかつかと歩み寄ってきた。動きに応じて、だらしない三段腹が振動している。


「お前ら、ちょっとどけ」

 そう言って見守り組みを排除し、ざばんと下品な音をさせて侵入する。

 視線が合うやいなや、首藤はビート板を手に取ってプールサイドに放り投げ、私の後頭部を掴み、顔を水中に思いきり押し込んだ。

 あまりに突然で、何が起きたのか、すぐには飲み込めなかった。ただ、呼吸がままならず身動きも取れないこの状況が、自分にとって危機的なものであることだけは分かった。


「俺は他の先生とは違うからな」


 顔を上げられて耳に入ったその言葉は、さほどの声量ではなかったものの、確かに敵意がこもっていた。

 首藤の敵意は認識できても、ではなぜ彼がそのようなことをするのかは理解できなかった。私がいったい、何をしたというのだろう。

 そんなことを考えて数秒経ったのち、再び水中に沈められた。息ができない中でどうにか意識を保ち、脳内でぴったり十秒カウントしたところで地上に戻った。見守り組みの生徒たちが、呼吸が荒くなった私を不安そうに覗き込んでいる。


「十秒十セットだ。それができなかったら欠席にする。五年生にもなって、水が怖いなどという甘えた言い分は認めない」

 首藤が、いかにも正しいことであるかのように口にする。

「息、辛いんですけど」

 でたらめな視線のまま、独り言のようにつぶやいた。

「なんか言ったか!?」

 語気を強めてそう言い放つと、周辺で無邪気に泳いでいた他生徒たちも動きを止めてこちらに注目する。

「別に」


 少しの沈黙を経て、見るからに不承不承ふしょうぶしょうな様子で呟くと、首藤は私を水に押し込んだ。

 呼吸がままならない辛さに加え、首藤の薄汚い手の感触が私をいっそう苦しめる。毎回十秒ほどの呼吸タイムが終わると、彼はまたがばりと頭を掴んで沈めた。


「ようし、今日はここまでだ」

 十セット終えると、私はすっかり困憊こんぱいしていた。

 クラスメイトの支えでプールサイドに上がり、腰かけてぼうっと辺りを見渡す。


 長方形の水の塊が、魔物のように目に映った。

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