第四十五話 真実、死の交錯
九月十四日
高遠頼継率いる高遠隊は、山中を進軍する。彼の隣を歩く男、名を
「ひひ、其方は二度も主君を裏切った罪人、此れには晴信もさぞ御怒りだろうなぁ」
「
「だが、所詮は口約束」
高遠は矢島を睨む。彼はいつも決まって、余計な一言を加える。
しかし、何時だろうとそれは核心をついていて、高遠には返す言葉も見つからない。
「あぁそうだ。暢気に騙された儂も、愚かだったことは十分承知の上じゃ。
だが誤算だった。あやつがしくじらねば、あの男が気付きさえせねば、全て巧く事が運んでいた筈なのに」
矢島は何も言わず、彼の心情を探ろうとする。其れは後悔の念か、怒り紛れの吐露か。
その時、高遠の許に一人の男が現れ、高遠はその姿を見るや否や立ち止まる。
草むらから突如出現した男は、彼に頭が上がらなかった。
「……何処に行っておった」
先程とは打って変わった、恐ろしいほどに低い声。男の身体は震えている。
「……寺に行き、己が身を清めて参りました、
此度の失態、全て私の不手際が招いた事、深く己を悔いて居ります」
男の俯きがちな語り口を、高遠は高みから見下ろす。矢島は高遠の表情を確認し、後方へと引いた。
男はすべてを語り終え、地に頭を付ける。
「どうか、どうか私めを御許しくだされ!頼継様!!」
其の瞬間、高遠は男を足で思い切り蹴り飛ばす。
「此のうつけが!御前がしくじらねばこんな事にはならなかった!!
今更不手際などと抜かしおって!!儂の目の届かぬ地で、大人しく死ねば良かったのじゃ!!」
高遠は彼の身体を何度も蹴り、男はその度にうめき声を上げ、終いには立ち上がることもままならなくなっていた。
「其処までにしておけ、高遠。其方も正体がばれたのではなかったか?」
高遠は地に唾を吐く。矢島は息を弾ませた彼の肩を掴み、耳元に囁く。
矢島は優しい男だ。俺とは違う。
高遠は俯いたまま、歯を食いしばる。
「やるしかないのだ……もはや後には引けん」
「そうかい」
矢島はにやりと笑い、再び歩き出す彼の後を付いて行く。彼は高遠に気付かれぬ様に、男に向け水を入れた瓢箪を投げた。
此れも矢島なりの優しさなのだろう。男は目に涙を浮かべ、徐々に遠くなる人影に、自分は捨てられたのだと悟る。
後に男は瓢箪の水を飲み干し、地に伏せたまま懐に忍ばせた短刀で自身の首を掻き斬り、自害したという。
晴信の許に上原城落城の知らせが届いたのは、出陣の日の朝。
出陣の義を行うべく、皆が集う場に舞い込んだ一報。
「藤沢めが、もう既に辿り着いておったか」
「いえ、それが」
晴信の言葉に、首を振る遣いの男。
「上原城を攻めて居たのは、高遠頼継殿にございます!」
その時、場が静まり返る。殆どの者は直ぐには理解できなかっただろう。
当然だ。裏切者の存在を知らぬ者は、高遠を仲間だと思って居る筈だから。
そこでようやく、高遠の姿が無いことを皆が悟るのである。
「もしや、高遠が再び裏切ったのか?」
「殿!まさか全て御存知で!?」
晴信は口を開かない。そんな中、晴信と虎胤の耳に入る一言。
「待て!!そもそも甲斐へ侵攻していたのは藤沢頼親ではなかったのか!?」
「分かりませぬ!しかし少なくとも、上原城に藤沢殿の姿は無いものと思われます!」
家臣の言葉の傍ら、虎胤は顎に手を当てる。
如何なる事だ?此の話が誠だとすれば、藤沢の甲斐侵攻の一報は、一体何だったというのか?
「其れは誠だな?」
晴信の一言に、場を静寂が包む。男の頷きに晴信は目を細め、男の肩を掴んだ。
「もし其方の言葉が偽りだと知れれば、其方の家族共々を地の果てまで追い掛け、
殺し、通りに祀り上げる所存だ」
それは、晴信にとっての最大の脅し。彼の睨みを見て、此の御方ならやりかねないと、その場にいる誰もが思った事だろう。
男は決意の目で頷く。晴信は息を吐いた。
「……信じよう。主犯、高遠頼継を討つ絶好の機会じゃ」
晴信は男の肩を叩き、家臣の方を向く。
風が吹く。これより向かう方角にとって見れば、追い風となる。
成程、天は我らを味方すると申すか。
「皆の者!此れより高遠頼継征伐へ向け出陣いたす!風は追い風、天は我らの味方じゃ!!各々、一所懸命な働き、期待しておる!!」
彼の言葉は、家臣団を再び一つにまとめ上げる。そして九月十三日早朝、晴信は上原城へ向け出立したのだった。
本隊を見送った後、遣いの男は城下の屋敷に向かう。
「な、何をするのです」
「許せ」
押し入った男は懐から短刀を取り出す。悲鳴を上げる二人を黙らせるかの如く、首を引き割く。辺りに血をまき散らし、甲高い叫びを挙げながら地に倒れた。
「偽りなど、申して居らぬ」
男は己を嘲笑うかのように刃先を腹に刺し、横に引き割き、その場に倒れる。
二人の後を追う様に、彼はそのまま、二度と動くことは無かった。
長く暗闇を彷徨っていた気がする。
男の目が開く。しかし、久方ぶりの日差しに思わず目を閉じてしまう。
ここは、俺の屋敷じゃない……?
「あ、あぁ!目が覚めたのですね!」
「菊……殿……?」
目前に人影が立っている。目をこすると、視界のぼやけが薄れてゆく。
菊は安堵の表情を浮かべている。俺は起き上がろうと力を入れるが、途端に横腹が痛んだ。
「っ!?」
「ま、まだ傷口が塞がって居ません!安静にして下さい!」
慌てるような口ぶりで諭された俺は、再び仰向けの姿勢を取る。
そうか、記憶の片隅にある光景。俺は裏切者に刺されたのだ。
「無理は為さらない方が良いです、三日も御眠りになって居ましたから」
三日だと、もうそんなに経っていたのか。となると、もしかして晴信たちは既に……
俺は菊によって晴信達が既に出陣したと知り、彼女へ何処へ向かったのかと訊ねる。
「確か、上原城にございます。その城に高遠殿が居ると、出陣の儀において御殿様が
「高遠……?」
其の瞬間、俺の頭に、ある言葉が過る。
〈武田は既に囲まれておる〉
「……いかん」
俺は思い立ったかのように床を出ようとするが、傷が痛み、立ち上がることが出来ない。
「晴幸様!?」
菊は俺の行動を抑えようと肩を掴むが、俺はその手を振りほどこうとする。
その理由は一つ。恐らくその城に居るのは、高遠隊だけではないのだ。
「やめろ……行ってはならぬ……晴信……っ」
三日間何も飲まず食わずで、喉が渇き声も掠れ、力も出ない。
気付け、気付いてくれ。
晴信、虎胤、板垣、誰か
此れは、高遠の仕組んだ罠だ。
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