第十八話 裏切と、訝しさ

 「武田め、やはり攻めて来おったか」

 其の日の朝、山中で骨を休めるのは諏訪頼重。

 息吐く彼の目前には、川が流れている。

 川のせせらぎといい、泳ぐ魚といい、やはり趣深いものだ。

 

 

 「只今参上致しました」

 声の方を見ると、其処には一人の男。

 様子は如何どうだと訊ねても、男は俯いたまま動かない。


 「武田は、御射山に陣を立てて居ります」


 その返答に、頼重は笑う。

 「そうか、大儀であった。やはり持つべきは有能な家臣じゃな。

  其方が居らねば、殺されておる所であった。

  此れで分かった。儂には、其方が必要なのじゃ」


 頼重は男の手を取り、ぐっと握る。

 「此れからも、どうか頼むぞ」


 男は黙ったまま、頷く。

 その目は何処か、哀し気な様子を浮かび上がらせている。




 「宗秀殿、いかがした……?」

 

 宗秀は少し考えこむ素振りを見せ、報告へ来た男に訊ねる。

 「先陣やつら(伏兵)は何処へ向かった」

 「は、諏訪家の支城、上原城にございます」

 「未だに其処に居るのか」

 「は、その支城に敵は一人として残って居らず、

  我らが占めております」


 俺は此の時、妙な違和感を感じていた。

 宗秀の額に、汗が流れる。

 其れは暑さのせいか、其れとも


 「引き返させよ」


 雰囲気を一掃する、低い声。

 其の発言の主は、武田晴信。


 「南部、気付いたか。

  此の状況が、如何にまずいものかを」

 南部は振り返り、晴信を見る。

 熱風に近い風が陣中を吹き抜ける。


 

 何故だ?城は取ったもの勝ちではないのか?

 無知識の俺はそう思い込んでいた。しかし、後になって気付く。


 《上手く出来過ぎている》



 相手が我らの動きに気付き逃げた事に、焦点を当て過ぎていた。

 城持ちが、そう易々と自分の支城を譲るだろうか。

 よく考えれば分かる事だ。

 嫌な予感がするのも頷ける。


 晴信は早速、城に籠る者達に声を掛ける役目を誰に担わせるかを考えていた。

 名乗りを上げたのは、南部の家臣である藤三郎。

 「南部殿、この藤三郎にお任せ下さりませ」

 藤三郎の声に、南部は念を押す。


 「藤三郎、其方は敵に姿を見られずに、

  上原城に向かわねばならぬ。やれるか」

 南部の言葉に、大きな頷きを見せる。

 其れを見て、南部もふと笑みを浮かべるのであった。


 南部は藤三郎に向かわせたいと晴信に説き、晴信は其れを了承、

 藤三郎は上原城へと向かった。


 此れで良かったのだろう、しかし何だ、この胸騒ぎは。

 俺は終始、不安の種を撒かれた様に、

 俺の心を襲う胸騒ぎの正体について、深く考え込む。



 「其処の者、其の上原城とやらに居る者達を

  率いておるのは誰じゃ」

 其の時、誰かがした何気ない問いかけの、意外な答えが耳に入ってきた。

 俺は再び、其の名に驚くことになるのである。



 「は、はら虎胤とらたね殿にございます」







 〈信濃諏訪領内 上原城〉


 「我らの動きが知られたやも知れぬな」

 上原城の広間に集う二十人ほどの男。

 原虎胤は其の中央に座り、腕を組む。

 

 (暑い……)

 陽が昇り、気温は徐々に上がる。

 斯ういう時に限って、頭というのは回らなくなるものだ。


 「如何いたすか、

  此のままじっとして居る訳にもいくまい」

 「先程儂の使いを陣に向かわせた、

  今は晴信様の御指示を待つのみじゃ」


 虎胤の頬を垂れ、滴り落ちる汗が、畳を濡らす。

 彼も心の中では分かっていたのだ。

 此れ程簡単に、城一つが奪えて良いものかと。


 (何だ、此の胸騒ぎは)

 此の時、〈誰か〉と同じ感情を、彼自身も感じていた。

 


 そんな彼らを餌として狙う者達が、

 静かに息を潜ませていた事に気付くはずも無く、

 虎胤は唯、晴信から寄越されるだろう返答を

 じっと待っているのだった。




 其の夜、南部は砦(陣)の外へ向かっていた。

 何処からか鈴虫の音が聞こえる。

 彼は川に辿り着き、その傍に座り込む。


 川に映える満月の美しさに、思わず見惚れる。

 同時に、そこはかとなく孤独を感じてしまう。

 そんな彼の目前を、ひとつの光が横切るのが見えた。


 (蛍……)

 南部はふと天を見上げる。

 満月の傍を飛ぶ、無数の蛍。

 何故だろうか、此の蛍は集って居る筈なのに、

 各々が思い思いの動きをするのは。


 南部は手を伸ばす。

 直ぐに一匹の蛍が指に留まり、光の点滅を見せる。


 「此処に居ましたか、南部殿」

 突然の声に南部は驚き、同時に蛍は宙に逃げてしまう。

 「晴幸……殿か」

 其処に立っていたのは、俺である。

 昼間に異変を感じてからというもの、彼の行動を逐一観察していた


 俺は彼の隣に座る。

 南部は俺と目を合わせようとはしない。

 「美しい、此の辺りは蛍が多いのだな」

 「そうだな」


 南部の見せる不愛想な態度に、少し気まずさを感じる。

 そう言えば俺も、初めて話し掛けられた時、同じような態度を取っていたな。



 「南部殿、一つ訊ねても宜しいか」

 「何じゃ」

 「何か気掛かりな事でもおありか?

  あぁ、昼間に見せた其方の様子が少し気になったものでな」


 南部はふうと息を吐き、立ち上がる。


 「あっても其方には言わぬ」

 そう言って、元来た道を引き返し始める。


 

 南部の背中を見て、俺は思う。

 あの男は、俺に似ているなと。

 自ずと孤独を選び、襲い来る孤独を恐れている。

 俺は流れる川の水を救い上げ、飲む。


 原虎胤殿、どうか無事であれば良いものだが。

 冷たい無味の液体が、喉を通り越した。


 蛍はまだ、俺の頭上を飛んでいる。

 鈴虫の鳴く静かな夜に、ふと平和を感じてしまっていた。

 上原城に、恐るべき事態が迫って居ることも知らずに。


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