第十五話 軍議、初陣

 忘れゆくのは、決まって己の過去である。

 己の記憶、そして己の存在も。

 俺の中の異物は語る。


 蹴られ殴られの過去に

 まだ縋り付いているのが馬鹿らしいと。

 〈忘却〉は、愚かな俺への救済であると、そう言わんばかりに、

 黒い墨で、記憶を隅から塗り潰して来る。


 其の方が、幸せなのだろう。

 何もかも、忘れてしまい、

 〈山本晴幸〉として生きる俺が、

 本当の俺なのだと。


 気付くのが遅すぎた。

 そのせいで、未だに

 脳裏に擦りついた〈穢れ〉を

 取り除くことが出来ずにいる。

 そんな俺に、異物は語り掛けるのだ。


 御前の過去の中で、生きる意味など無い。

 御前の過去に、価値など無いと。




 俺は目を覚ます。

 陽は既に、昇り始めている。

 動悸が治まるまで、幾らか時間が掛かった。


 厭な夢を見たものだ

 軽く息切れを起こし、汗が止まらない。

 俺は一度深呼吸し、胸に手を当てる。

 〈其の時〉までに、此の動揺を抑えねば。

 


 今はただ、やるべきことを一所懸命にするだけだと、

 そう自分に言い聞かせるのだった。

 


  

 「此れより、軍議を始める」

 「「「はっ!」」」


 大広間に集められたのは、約百人。

 彼らは皆、武田の礎となる者ばかりである。

 陽が真南に昇る頃、

 信濃侵攻前の軍議は、晴信の其の一言によって始まった。



 「此れより我らは信濃に侵攻する、

  さすれば、諏訪家と嫌でも相対する事になろう。

  よって先ずは、儂の考えに耳を貸して貰いたい」

 晴信が取り出したのは、信濃全土が描かれた地図。


 「我らは初めに上諏訪に攻め込み、御射山に陣を建てる」

 晴信は語りながら、扇で次々に位置を指し示す。

 彼の語る策は、完璧と言える程、手の込んだものであった。

 

 「御射山、其処は確か鬱蒼とした森が広がる地、

  気付かれず相対するには十分にございますな」

 甘利は顎を触る。

 すると、晴信は笑みを浮かべるのである。

 「左様、此度は如何に気付かれず

  攻めるかにかかっておるのだ」


 甲斐一国を収める武田と、信濃の一部分を収める諏訪では、

 戦力差を考えれば圧倒的に有利。

 しかし、晴信は慎重である。

 言葉を換えれば、諏訪家を侮っては居ないということ。

 何故なら、彼は諏訪家の〈実力〉を知っているからだ。


 晴信の其れは、諏訪氏が父や祖父の代より武田と抗争し、

 反武田の国衆達と甲斐へ侵攻していたという、過去からの教訓でもある。




 「諏訪家に忍ばせた間者の許から、文が届いております」

 次に口を開くのは、板垣信方。


 其の文によると、諏訪領内は近日の異常気象によって

 領内が連年風水害を受け疲弊した中であるにも関わらず、軍事行動を続けていた。

 しかし結果として、見返りとなる領地もさほど拡大しなかった為に、

 人心が離れつつあるという。

 甘利の言葉との共通点も多く、信用できる文面だと悟る。

 

 「信用が薄れて居る今、諏訪領民を味方に付けることは容易。

  故に先ずは内側、〈味方〉から崩すべきにございます」

 「あいわかった、其れに付いて頼重は勿論、

  民にも聞かれては居らぬな?」

 「はい、私の家臣を御付きに回しております故、

  間違いのうございます」


 俺は板垣の言葉によって、ようやく確信した。

 やはり、諏訪頼重は焦っている。

 多くの国衆に分裂している中で、

 一早く信濃統一を為そうと、必死なのだろう。


 ならば、この〈策〉は有効な筈だ。


 「晴信殿、私に考えがございます」

 同時に、全ての視線が俺の方へと向く。

 中には、彼の姿に奇怪な目を浮かべる者も居た。


 「何じゃ、晴幸」

 晴信は目線を移し、俺の方へ身体を向ける。

 俺は地に拳を付け、晴信の目を見つめる。


 「諏訪庶家の高遠頼継殿と、諏訪下社の金刺殿を、我等の味方に付けるのです」

 「高遠と金刺だと?

  共に諏訪家の家臣ではないか

  何故其の者等なんじゃ」


 甘利達は、其の言葉の真意を掴めず、黙り込む。

 その中で、板垣は目を細めていた。


 「成程、一理あるな」

 

 「委細を申せ、板垣」

 納得の反応を見せる板垣に対し、

 晴信は脇息に肘をついた。

 

 「間者によれば、高遠殿と金刺殿は共に諏訪家に対し、不満を抱いておりました。

  諏訪領民は其の二人を筆頭に、頼重殿から心を離した様にございます」

 「ほお、つまり此方側に引き入れる事は容易だと。何故其れを知って居った、晴幸」


 「私は此の十年、乱世を渡り歩いておりました、

  故に、情勢には少々知恵がございます」

 そう言いつつも実際は、日記の内容を語っただけなのだが。


 しかし、そんな事とはつゆ知らず、

 俺の言葉に、晴信ははっと笑う。


 「つまり、そやつらを此方に引き入れれば、

  其処等の民は自然と付いて来る訳だな。

  さすれば話は早い、板垣。

  如何なる手を使っても良い、

  誰に気付かれる事無く、そやつらを調略せよ」

 「はっ!」


 俺は一度礼をし、顔を上げる。

 此の時、俺を奇怪な目で見ていた者達は、唖然としていた。


 彼らは、俺が出した策に驚いたのではない。

 先程のやり取りの中で、気付かされたのだ。

 此の男こそ、牢人という立場から、知行二百貫で武田に仕えた男なのだと。

 




 「晴幸、其方は残れ」

 軍議の後、部屋を出ようとした俺は、晴信によって呼び止められる。

 「付いてこい、其方には渡す物がある」

 「殿、御供は」

 「かまうな、儂のみで良い」


 そのまま晴信と俺の二人でやって来たのは、

 いつかの整理に訪れた武庫。


 晴信は奥に在る木箱を指で指し示す。

 以前訪れた時には、此の木箱の存在には気づかなかった。


 「開けてみよ」

 晴信に言われ、俺は蓋をゆっくりと持ち上げる。

 其処に入っていたのは、一着の鎧。



 「其方の具足を見させて貰ったが、

  使い物にならぬほど、朽ち果てて居ったな。

  其方には此れをやる。

  古物で申し訳ないが、此れまでよりは幾分ましであろう。

  晴幸、此れからの働き、期待しておるぞ」


 其の鎧は、木箱の中で、赤く光っている。

 古物、しかし、上等な鎧だ。


 此れと同じ物を、何処かで見た覚えが有る。

 其の時、俺は思い出す。

 あの夢の中で、俺は同じ鎧を着ていた。



 やはり俺は、此の若い主君に仕え続け、

 策を見抜かれた間抜けな参謀として、

 この世を全うする事になるのだろう。



 俺は其の鎧を手に取り、頰を緩める。


 

 「晴信様、一つ御聞かせ頂きとうございます」

 「なんだ」

 俺はじっと、彼の目を見つめる。



 「殿は誠のところ、

  諏訪殿と刃を交えたく無いと

  そう御思いですか」

 

 

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