投函

酒井小言

第1話


 規則的に並ぶ郵便ポストの前に立ち、拓郎が上から順にチラシを投函する(受ケ口ガ縦ダト入レニクイゼ。ッタクヨー、ナンデ、コンナ構造ノポストヲ作ルンダァ? チラシノ形状ヲ考エリャ、横向キノポストニスルベキダロォ?)。左手に持つチラシの束から一枚抜き、アルミの投函口に右手を押して入れる(コノ蓋、クソ邪魔ダ)。別段急ぐこともなく、慣れた調子でテンポよくチラシを投函していく(キット、縦ノポストヲ作ッタ奴ハ、奇抜ナデザインダト思ッタンダ。ッタク、何考エテンダァ? ポストナンテ、横ノママデ十分ダ! ワザワザ入レニククシテ、ドウスルンダョ)。


 一寸ばかり腰を屈めて投函していると、上から八段目、左から十一段目の、粕谷という名のポストに、分厚いA4の封筒がぞんざいに差し込まれていた。他のチラシが詰まっているせいか、これを投函した人は奥まで突っ込まなかったらしく、封筒がポストに突き刺さったままだ。アルミの蓋は中に折れたまま、投函口はわずかな隙間を開けていた。


 チラシを入れようと、分厚い封筒の脇から拓郎は無遠慮に手を突っ込んだ(ナンダヨコノ封筒、邪魔ダナ)。すると投函口と封筒の隙間に挟まってしまい、奥へ投函できない(ナンダヨ、オイ!)。仕方なく、チラシをポスト内に放してから手を引き抜くと、図体のある封筒が一緒に引き抜かれてしまい、地面に落ちてベチンと鈍い音を発した。


 ありありと眉間に肉を寄せて、拓郎が封筒を見下ろす(ウルセエナ、コノヤロウ)。蹴飛ばしたい衝動を転換して、素早い身のこなしで封筒を拾うと、粕谷のポスト目がけて力任せにぶち込んだ(ザマアミロ!)。封筒は奥まで入りきらず、交通事故でもあったように無残にひしげて投函口からはみ出ている。


 拓郎は速い動きでチラシを投函し終えると、人の気配のしない無機質なマンションを出た。


 脳に障害を起こしかねない暑さが外にある。スモッグに包まれた青のない真夏の都会の空は、眼のくらむほど発光して、連立するマンションを照りつける。四車線の国道から外れた小道にいるにもかかわらず、排気ガスの臭いが拓郎の鼻をつく。アスファルトや生ゴミの臭いが混じる、酸素の薄い不快な空気が漂う。拓郎は斜向かいに建つ色のぼけたマンションへ歩いた(コレジャァ、日陰ニ入ラナイト死ンジマウ)。


 建物同様に色ぼけする銀色のポストが階段の脇に据えられ、口を横に開いて整然と並んでいる。拓郎はすぐに投函を開始した(サッサト入レテ、エアコンノ効イタマンションヘ避難シヨウ)。口から色彩の泡をふかせているポストが点々としている。それらのポストを無視して(ダラシネエ住人ガ多イナ、雨ニ濡レタセイデ、溜マッタチラシガヘニャッヘニャジャネエカ)、ぽんぽんぽんと投函していく。横向きの投函口が拓郎のペースを乱さない。


 左隣のアパートにも速やかに投函してから、拓郎は正面のマンションの入り口に近づいた。厚いガラス戸が左右に開くと、古代から受け継がれてきた自然のままの肉体機能を狂わせる、無遠慮に冷やされた空気が吐き出された。体中を纏う玉の汗は急激に冷やされる。拓郎は一瞬間眼を閉じてから(アア、生キ返ル)管理人室の窓に眼をやった。


 耳の上に白髪を残す初老の男が拓郎を凝視している。フレームのない眼鏡の奥に鋭い眼光が控え、両腕を組んだまま獲物を狙う猛獣のごとく静かに座っている。拓郎は臆することなく管理人室に近づいた(ッタク、ナンテ眼ツキデ睨ンデンダァ)。


「こんにちわ、あの、すいませんが、このマンションにチラシを入れてもいいですか?」社交上必要なる笑みを浮かべて拓郎が話しかける。


「おまえはあの張り紙が見えんのか?」警戒を解くことなく変わらぬ眼光で男が答える。


「えっ? どれですか?」拓郎は笑みを残して(ナンテ無愛想ナ爺ダ、挨拶グライシロヨ)、窓の奥に座る管理人に顔を近づける。


「あれだ!」男が顎をしゃくって拓郎の背後を示す。


「あれって、どれですか?」拓郎はもう一度訊ねる(偉ソウニ顎ヲ出スナ、クソ爺)。


「間抜な男だな、あれだよ!」男が声を荒げて指で指す。


「あっ、うしろですか」拓郎はにやにやしながら後ろを振り返る(口ガアンナラ、喋リャイイダロォ、何気取ッテンダヨォ、クソ爺ガ!)。


『社会の害悪! チラシ広告断固として禁止! 無断で投函したもの即刻通報! 罰金請求! 鉄拳制裁!』張り紙には筆を使った旧い書体でこう書かれている。


「あっ、ちゃんと書いてありますね、すいません、気がつきませんでした。へへへへ」拓郎はへこへこした態度で男に話しかける。


「わかったか!」顔つきは変わらないが、少しばかり満足したような声で男が言う。


「はい、あっ、それで、あのー、チラシを配ってもいいでしょうか?」拓郎の笑みは変わらない(張リ紙ガドウシタッテンダ)。


「おまえは馬鹿者か! 今張り紙を見ただろ!」噴火したように男が声を張りあげる。


「えっ、はい、けど、ほかのマンションでは許可してくれる管理人様もいるので、念のために訊ねておこうかなと思って……」


「ほかのマンションなんぞ知らん! このマンションではチラシの投函を禁止していると、張り紙に書いてあったのを見ただろ! おまえは眼がないのか? さっさと出て行け!」


「いや、そうですが、ぼくとしても仕事がありますので、やはり管理人様に直接訊ねて……」


「おまえの仕事なんぞ知らん! ポストを汚してわしの仕事を増やす、おまえらの仕事なんぞ知るか! ダメなものはダメなんだよ。早く出て行け!」


「でも……」


「早く出て行きやがれ! なにへらへら笑いながら突っ立っているんだ、ぶん殴るぞクソガキが、おら! 出て行かねえと警察呼ぶぞ!」


 男はすさまじい剣幕でまくしたてると、席を立ち上がった。それを見て(オオオ、スゴイスゴイ、本当ニ殴ラレソウダ)拓郎は足早に外へ出た。


 冷水と温水に交互に入れ替えられる熱帯魚のごとく、発汗機能が馬鹿になりそうな温度差だ。太陽に照り付けられた拓郎は、先程の管理人への怒りが暑さと共に沸騰しはじめて、つい道路わきに転がる空のペットボトルを蹴り上げた(タカガ管理人ノ癖ニ、偉ソウニシヤガッテ、フザケンジャネエ!)。ぽこんぽこんと音を立てて前へ転がる。


 続けてコーヒーの空き缶を蹴り上げた(チラシヲ入レルグライ、別ニイイジャネエカ。ナンデコウ、マンションノ管理人ハ、心ノ狭イ禿タ爺バカリイルンダァ?)。炎天下にさらされた拓郎の神経が、やけに空き缶の音に触る(チクショウ! アノマンションナラ、チラシノ枚数ヲ大量ニ稼ゲタノニ……)。


 外部に郵便ポストを据えたアパートを数軒まわり、拓郎は信号のない交差点を横切って次の道へ進んだ。その間、すれ違う人はなく、熱された車が横切るだけだった。逃げ水が溢れそうな道には、遠くから聞こえる車のエンジン音と、そこらじゅうから響くエアコンの室外機の音が不気味に一致する。


 白いTシャツの袖を腕まくりして、チラシの束が重なる紙袋の紐を肩に掛け直した(クソォ、肩ニ食イ込ミヤガル)。部屋の玄関先ごとにポストが据えられたアパートは無視して、ポストの連なるアパートやマンションだけに投函し続けた。


 ようやく居住数百戸を越える大型マンションに着いた。中に入ると、これまた阿呆な程冷え込んだ空気に満たされている。拓郎の背中に張り付いたTシャツは、強烈な冷シップに様変わりした(アア、気持チイイ)。しかしゆっくり涼む暇もなく、すぐに管理人室へ足を運んだ。


 管理人室の窓を覗くと、髪を刈り込んだ痩せ型の爺さんが安楽椅子に座り、呑気な笑い声をあげて大型の液晶テレビを見ている。拓郎は窓の前で立ち止まり(人ガクソ暑イ中チラシヲ配ッテイルノニ、マッタクイイ身分ダヨナァ)、窓をノックしようとすると、爺さんが背中をのけ反るほど大笑いをした。気になって拓郎がテレビに眼を向けると、座に着いた男が落語を語っている。拓郎は苦笑いをして爺さんを眺め続けた(ナンデコンナ時間ニ落語ガ放送サレテイルンダ? イヤ、俺ガ知ラナイダケカ。ソレニシテモ、馬鹿ニ平和ナ爺ダナ。ヨクマア、落語ナンカ見テ大笑イデキルモンダ。暑サデ頭ガオカシクナッチマッタノカァ?)。


 爺さんは拓郎に一向気がつくことなく、テレビと向き合い笑いつづけている。拓郎は声を掛けずにポストへ向かおうとしたが(コレナラ、声掛ケズニチラシヲ配ッテモ、気ヅカナソウダナ。ケド、後カラゴチャゴチャ言ワレテ、チラシヲ回収スル羽目ニナッタラ嫌ダナ)、念のために窓をノックすることした。


 窓を四回叩いて、大声で呼ぶと爺さんはやっと気がついた。爺さんは顔に落語の余韻を残したまま窓を開き、「はいはい、なんでしょうか?」軽快に話しかける。


「楽しんでいるところすいません、あの、チラシを入れてもいいでしょうか?」誠実さの欠片もない笑顔で拓郎が話す。


「ああ構わないよ。ただし、チラシお断りと張られたポストには入れないでくれ」爺さんはそう言ってすぐに安楽椅子に戻る。


「ありがとうございます」拍子抜けした拓郎は突っ立ったまま爺さんを眺めて(アッサリシタ爺ダ)、「何を見てるんですか?」つい声をかけてしまった。


「落語だよ。マンションの住人が引越しすると言うんでな、落語のDVDセットを置いていったんだよ、まあ、随分好い物を置いていってくれたね。それだけじゃない、この椅子も、テレビも、DVDデッキも、みんなその住人の物だったんだ。金持ちが住むマンションの管理人をしているとな、おこぼれ品でも使える物ばかりで、生活に必要な調度品が自然揃っちまうんだ。自宅にある物なんかほとんど上から転がってきた物だね。二ヶ月前なんざ、ホンダのモトクロスバイクまでもらっちまったさ」爺さんは両手を広げて愉快そうに話す。


「それはうらやましいですね、ぼくなんか、いくらチラシを配っても、管理人様からの酷い言葉以外もらえませんよ。だれかに感謝されるわけでもなく、時給も安いですからね、こんな仕事なんて、何も好い事なんてないですよ。バイクが手に入るなら、ぼくもマンションの管理人になろうかな」拓郎は笑みを浮かべて返事をする(オイオイ、バイクモ手ニ入ンノカヨ! ズリイヨ爺)。


「あはは、そのほうがいいぞ、しかし好いマンションにあたらないと大変だぞ。分別のない住民ばかりのマンションなんざ、神経質なくだらないクレームばかりでな、心の落ち着く暇がない。出て行く時なんざ、がらくたばかり置きっぱなしにして、反対に出費がかかるからな。わしの管理するマンションが特別だよ」爺さんは身振り手振りを加えて話す。


「そうですか、なかなかうまくいかないんですね」拓郎は溜め息をつく(チッ、ソウナノカ)。


「まあ、若い者はマンションの管理人なんぞするもんじゃない。体を動かして、もっと社会の為になる仕事をしたほうがいい」爺さんは年寄りらしい文句を言う。


「はあ、そうですね、では、チラシを入れさせてもらいます」拓郎は力なく声を出してその場を離れる(為ニナル仕事ッタッテヨォ、仕事自体ガネエンダヨ)。


「ああがんばって働いてくれ、それから、チラシ禁止のポストにはくれぐれも入れんようにな」爺さんが再びテレビ画面に眼を向けて適当な声をあげる。


 ベージュの壁面の上下左右には、銀色の郵便ポストが等間隔にびっしりと並ぶ。チラシの枚数を一気に稼げるが、自らの存在理由に疑問を持たせる、恐ろしいほど簡単で単調な作業が待っている。拓郎が投函の仕事を開始してから、すでに二時間が経過していた。紙袋からチラシの束を取り出すと(ハア、マダマダアルヨ)、おもむろに端から投函を始めた。


 投函口に手を差し込んで扉を押し開く。チラシを手から放して引き抜く。すると扉が閉まってカタンと音がする。拓郎は今日一日この作業を千回以上繰り返さなければならない。遠くから管理人の笑い声が聴こえる。拓郎の顔は映す鏡がはばかるほどの形相をしている。


 汗はすっかり乾いてしまい、湿ったTシャツが容赦なく体温を奪う。拓郎は作業をいったん止めると、右手を後ろに回して背中を触った(コノマンションノエアコンハ、馬鹿ジャネエカァ? 何ノ意味ガアッテ、コンナニ冷ヤスンダヨォ。馬鹿ダ! 電気ノ無駄使イダ! 少シハ地球ノ事ヲ考エテ、省エネシヤガレ! 外ノ気温ニ対抗シテ、長袖ヲ着ルホド寒クシテドウスルンダァ? アノ落語爺、笑ッテネエデ、エアコンノ温度ヲ上ゲヤガレ!)。


 上から二番目の段の半分が終わり、ゴシック体で和田と書かれた投函口に入れるところで、拓郎はまた動きを止めた(ソウダ! 昨日ミタイニ想像デモシテ、ノンビリヤルカ!)。それから数秒して動き出した拓郎は、先程の軽快な動きとうって変わり、鈍重な男になってしまった。


 和田のポストをじっと見つめると(昨日ハ苗字カラノ連想ヲシタカラナ、和田、和田、和田勉、和田アキ子、ソフトバンクノ和田、中日ノ和田、和田、和田、和田海水浴場、オイオイ、人名ジャネエゾ!)、顔をにたにたさせてチラシをゆっくり投函した。天狗の鼻と紛うほど隆起していた眉間は、すっかり平静を取り戻して、奇態な微笑みの一部に加わっている。


 拓郎は隣にある玉沢の投函口を見つめてから(イヤ、人名ハ昨日使ッタカラ止メヨウ。ジャアドウスル? ドウスル? 何ヲ想像ノネタニスル?)、そっとチラシを投函する。


 伊原の投函口を長々と見つめてから(伊原、伊原、伊原カ、伊原サンノ家族構成デモ想像スルカ? 伊原サンカ、夫ノ年齢四十歳、妻ノ年齢三十歳、娘、娘、娘ハ五歳、息子ハ三歳、ハニカミ屋、クックックッ、夫ハインターネット会社ニ勤務、趣味ハオフィスラブ、クックックッ、妻ハ一寸早イ更年期、趣味ハ育児ラブ、育児ラブッテナンダ? クックックッ、娘、髪ノ毛ガゲジゲジニ似テイル、息子、筋骨隆々、将来ノ夢ハ筋肉芸人、夫ハ息子ノ夢ニ猛反対、妻ハ大賛成、売リハ大腿二頭筋、ステロイド禁止、アアア、伊原家、伊原家ノ夢ハ、家族揃ッテ筋肉芸人! イヤイヤ、筋肉芸人ノ夢ヲ、イヤイヤ、筋肉芸人ハ止メヨウ、モット普通ノ家庭ノハズダ、妻ノ趣味ハ動画サイトニ投稿、テーマハ編ミ物ノ技、イヤイヤ、編ミ物ハ流行ラナイ、料理方法ノプロフェッショナル、有名ナ創作料理家、モシクハ野菜ソムリエ、ダケド激シイ更年期、クックックッ、夫ノ趣味ハラジコン、ダケド事故ヲ起コシテバカリ、人身事故、イヤ、虫身事故、蟻五万匹、ダンゴ虫一万匹、ミミズ五千匹、カメムシ千匹、ハンミョウ一匹を殺傷、凶暴ナドライバートシテ、昆虫界ニ名ヲ残ス、ツイデニ幼児三人ヲ怪我サセル、内一人ハ、筋肉芸人ヲ夢見ル息子……」、やはり奇態な笑みを浮かべたままチラシを投函する。


 大塚の投函口を見つめてから(ダメダ! 家族構成ハ効率ガ悪イ! 時間ガ掛カリスギル!)、すっとチラシを投函する。


 川鍋の投函口を見つめて(モット早ク想像出来テ、尚且ツ直グニ終ワレルノハ?)チラシを投函する。


 青津を見つめて(ナンダロウ、他ニ何カネエカ?)投函する。


 河野を見つめて(人ハ止メテ、モット違ウ物ニスルカ?)投函する。


 佐藤を見つめて(ソウナルト、ポストカ、ポストヲ使ウカ?)投函する。


 端まで投函し終えたので、拓郎は一段下の高見澤を見つめると(ポスト、ポスト、ポストガ火ヲ吹イタ!)、「ふっふっふっふっ」思わず微かな笑い声を漏らして、火を避けるように後ずさりする。直ぐに口を噤むと、うれしそうにチラシを投函した(コイツハイイ!)。


 右隣の堀内のポストに眼を移し(オット危ナイ、堀内ガクシャミシヤガッタ)、一呼吸置いてからチラシを投函する。


 飯島の前に立ち(オイオイ、物凄イ出ッ歯ガ突キ出テルゾ、触ッタラ怪我シチマイソウダ)、投函口に刺さる新聞に注意して投函する。


 赤染を見ると突然険しい顔をして(オイマジカヨ、赤染、煙ヲ噴イテイヤガル!)、勢いよく投函口に手を突っ込む。


 蟹歩きする拓郎が辻野のポスト前に立つと、“チラシ類お断り”と書かれたラミネートシールが眼につき(“チラシ投函禁止・爆発致シマス”ダッテヨ! スゲエ、地雷タイプノポストダ、コイツハ危ネエナ)、小馬鹿にしたような顔を浮かべて通り過ぎた。


 名無しのポストの前に立ち(ヒデエ、ヨダレヲ垂ラシテヤガル)、チラシを投函する。


 パーブロビッチの前に立ち(コイツ、凍リツイテヤガル。氷点ガ狂ッテンノカ?)、物をかすめ取るような早さで投函する。


 山本の前に立ち(カレー臭エ!)、腕で鼻の辺りを覆いながら投函する。


 肥田のポストに張られている注意書きを読むと(“ボク、ビックリ箱、チラシ入レルト楽シイヨ!”ジャネエヨ! ナンテ気味悪イポストダ)、チラシを入れずに素通りした。


 佐藤の前に立ち(オワッ! 樹液ガ垂レテ、カナブンガ集マッテイヤガル)、眼を見開いたままチラシを投函する。


 芹沢の前を横切る(トンデモネエ! 口カラゴキブリガ溢レ出テイヤガル!)。


 ティモシーの前に立つと(ヒン曲ガッタポストダナ)、口を開けたままチラシを入れる。


 森松の前に立つと(ナンデ、パイナップルガ挟マッテイルンダ?)、開いたままの投函口にそっと入れる。


 石橋の投函口に顔を近づけて細かい字の注意書きを読むと(“チラシ投函者、クソ食ラエ!”ダト!)、ポストを軽く殴った。ひんやりと静かな空間に、ばんっという中身のない乾いた音が響く。


 金の前に立つと(眼ガ焼ケルホド赤イポストダ。毒デモ持ッテソウナ鮮ヤカサダナ)、おそるおそるチラシを入れる。


 右端にある乾のポストの前に立ち(ナンデ、トコロテンガ食ミ出シテイルンダヨ)、苦笑いを浮かべて投函口に手を入れる。


 拓郎は視線を落とし(ヤット三段目カ、想像ニ夢中ニナッテイタカラ退屈シナイケド、ヤッパリペースガ遅イナ)、横田のポストにチラシを投函する。


 封筒の刺さった大倉の前に立ち(舌ヲ出シテイル)、少しだけ投函動作を速める。


 神長の前に立ち(毛ガ生エテイル)、チラシを入れる。


 青津の前に立ち(汗臭イ)、チラシを入れる。


 牧山の前に立ち(小サイ羊ガ、顔ヲ出シテイル)チラシを入れる。


 山口の前に立ち(刀傷ガアル)、チラシを入れる。


 足立の前を通り過ぎる(“チラシ、替エ玉無料”)。


 ダニエルの前に立ち(ジャック! ジャック!)、笑いながらチラシを入れる。


 木村の前に立ち(歯並ビガ好イナ)、チラシを入れる。


 名無しの前に立ち(表札ヲクレ! 表札ヲクレ!)、真面目な顔つきでチラシを入れる。


 ムシャラフの前に立ち(湯気ガ出テイル)、チラシを入れる。


 押切の前に立ち(ピンクノ口紅塗ッテイル)、口を尖らせてチラシを入れる。


 拓郎が蟹歩きすると、黄色いビニールテープに口を塞がれたポストが眼に入り、「ふっふっふっ」鼻にかかる笑い声がこぼれた(拉致、監禁、郵便ポスト北朝鮮トラワレル! 名前ヲ消サレル!)。


 徳永の前に立つと(ワタシポスト、テポドン大好キ!)、鼻息を荒くしてチラシを投函する。


 沖の前に立つと(ワタシ、社会主義! 革命大好キ!)、チラシを入れる。


 左端の須藤の前に立つと(ワタシ、独裁モ大好キ!)、鈍くさくチラシを投函する(コレデ三段目ガ終了ダ)。


 カタンと音を立てて投函口の扉が閉まると同時に、遠く自動扉の開く音が拓郎の耳に入り、糸に釣られたように体を激しく震わせた(ウオッ!)。石質の床の上にコッコッと、堅く細い靴底がぶつかる音がする。狭い頭の中に注意を合わせて活動していた拓郎は、突然現実世界に引き上げられてしまい、防波堤の上で飛び跳ねる魚のごとく、郵便ポストが連なる狭い空間内をうろうろした(オオ、オオ)。きびきびとした足早な音が拓郎に近づいてくる。


 冷えた体内を血が上へと巡り、頭で考えるより先に、チラシを持った手が郵便ポストに飛び込んだ。拓郎は徳永のポストから手を抜き(ココハサッキモ入レタ!)、須藤の下段にある岡崎にチラシを入れる(ヨシ、普通ニ投函シヨウ)。


 へばりついた蜘蛛のように正面だけを向いたまま、拓郎は蟹歩きを続ける(普通ヲ装エバ大丈夫ダロウ)。すると音が拓郎の独占していた場に入ってきた。拓郎は顔を動かさない(無視ダ)。


「こんにちわ、ご苦労様です」水のせせらぎに通じる女性の声がする。


 思わぬ挨拶に反応した拓郎は声の出所に顔を向けて、「どうも、こんにちわ」体の向きを変えずに頭を下げる(ナンテヒデエ顔ダ!)。袖の無い黒いワンピースを着る大柄の女性が、愛想好く笑っている。しかし、女性が愛想好く笑っていると思い込んでいるだけであって、実際の顔は眠りにつく前の蛙のようだ。


 女性は伊原の郵便ポストを開きながら、「今日はほんと暑いですね」拓郎に話しかける。


 拓郎は動作を止めたまま(アア、コノオバサンガ伊原サンカ)、爆発しかねない笑いを堪えて(激シイ更年期ドコロカ、マサカ、身体能力ノ全テヲ声ニ吸イ尽クサレタ、顔ノ潰レタオバサントハ。コレハサスガニ、思イモシナカッタ!)、「ひどい暑さですよね」やはり愛想好く返事をする。


「やっぱり異常気象のせいかしらね?」女性は郵便受けの中身を取り出す。


「そうですね」拓郎は女性の動きに眼を配る(異常ハ、アンタノ外見ニ見合ワナイ声ダヨ)。


 女性の顔には今さっき水面からあがったばかりのように、おびただしい汗が滴っている。白く太く弛んだ女性の二の腕に、判子を押された升目の注射痕が残っている。それをじっと拓郎が見つめている。

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投函 酒井小言 @moopy3000

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