第236話鏡

 口が乾く。心臓が早鐘を打つ。息が詰まる。汗が止まらない。


目の前の女が発する言葉の意味を理解し、俺の目の前は暗くなる。


「かはっ、はっ、はっ」


 自分の呼吸の音がやけに耳に残る。頭の隅で冷静な自分がまともに呼吸も出来ない自分に気づく。だけどそれ以上に、俺の頭の中を占めた思いは『どこまで行っても逃げられないのか』という絶望だった。


「それにしても、なんでここにいるんだい? 何か目的があってここに来たのかな? だがこの辺で何か君の使命に役立ちそうなものと言っても、特には思い当たらないのだけど。うーむ、それともあれを取りに来たのかい? いや、でもあれはなぁ」


 彼女もまた俺に役目を強要する。何も知らないくせに。俺がどんな思いでこれまで戦ってきたのかも。ラグナが本当は裏切り者であるという事も。俺達がくそったれな神達の道化であるという事実も。


 何も、何も知らないくせに。また俺を地獄へと導こうとするのか。何もかもが馬鹿らしくなって、俺は目の前の女にラグナから聞いた話をしようとする。だが口が開かない。いや口は開くのに言葉を吐き出すための呼吸が出来ない。突然、後ろから肩を組まれる。


『それはルール違反だよ』


 ひどく聞き覚えのある耳障りなおちゃらけた声。すぐに誰が横に立っているのか理解した。さらに、気づけばあたりは例の真っ白な世界になっていた。


「てめぇ!」


 俺は咄嗟に短剣を抜いて、振り向きざまに斬ろうとする。だが、それはラグナに届く事なく止まった。


『ははは、無駄無駄。何度も言っているだろう? この世界は僕のものだ。この世界のルールは全て僕が決める。誰もそれに逆らう事はできないさ』


「……今度は何が目的だ? これ以上俺に何を求めるんだ?」


『目的なんて、一つだけだよ。言わなくても君だって分かっているだろ?』


「………」


 ラグナとフィリアが俺に求めている事なんて、聞かなくても分かっている。俺がシオンを殺す事、そんな陳腐な悲劇が起こる事を望んでいるんだ。


『それにしても君、偶然にしては面白い所に来たね』


「どういう意味だ?」


『この砂漠にはさ、君が最も欲するであろう神器が封印されているんだよね。それも、フィリアおばさんがマタルデオスと共に持ち去った残り二つの神器の一つ。ラウフ・ソルブの鏡がね』


「なんだそれは?」


 俺は思わず聞いてしまう。くだらない戯言だと理解しているつもりなのに、まだ、心のどこかでラグナに期待してしまう。縋ってしまう。ある種の依存のようなものだ。これが、俺がこいつに創られた存在だという証拠なのかもしれない。たとえ俺の意識がこいつに逆らおうとしても、魂がこいつに従おうとしているような感覚を覚える。


『ラウフ・ソルブの鏡、それはこの世界でただ一つ、魂と肉体を分離し封印する事が出来る神器だ。僕が言いたい事、分かるかい?』


 ラグナが言っていることに混乱する。なぜそんな鏡があるのか。なぜそれが偶然立ち寄った場所にあるのか、なぜそれをこいつが知っているのか。なぜフィリアがそんなものをここに封印したのか。疑問が次々浮かんでくる。あまりにも仕組まれすぎている。


『この鏡も原初の神を倒す為に父さんとおばさんが生み出したものなんだけど、まあ性質的におばさんが盗むのもしょうがないよね。魂を封印されたら四魔なんて復活出来なくなるし』


「……なぜそれがこんな所に?」


『この砂漠ってさ、元々は木々が生い茂る見事な森だったんだ。だけどそれが今や砂漠だ。なんでだと思う?』


「その鏡が原因だというのか?」


『そう、正確には鏡の中に封じ込められた魂の断片が原因さ。原初にして混沌の神アスル。僕のおじいさんと言えばいいのかな。そいつを倒す時に、父さんとおばさんは力を削る為にラウフ・ソルブの鏡を使い、魂の一部を鏡に封じ込めた。その封印に閉じ込められた魂から漏れ出る力がこの砂漠を生み出したんだ。オアシスが出来たのは、偶然その力が溜まりにくい場所だったからさ。まあ、その魂も1万年以上の歳月を封印された結果擦り切れてしまったようだけどね。そんなこんなで残ったのはラウフ・ソルブの鏡一つ』


「なぜフィリアはこんな所に鏡を隠したんだ?」


『さあ? 狂った彼女の事なんか、僕に理解出来るわけないだろう。面白そうな人間がいたんじゃない?』


「……最後に、なんでこんな事を話すんだ? 俺がお前を信じるとでも?」


 俺はラグナを睨む。


『だって、今の話を知れば君、使いたくなるだろう? なぜって、君の大切な恋人を救えるかも知れないんだから。本当の意味で完全にさ』


 直感ではあるが、ラグナの話は真実であるような気がしていた。そもそも本当かどうかなど、俺には分からない。だがもし事実ならラグナの言う通り、シオンを救えるかも知れない。だがそうでないなら、俺はシオンの魂を封印する事になるかも知れない。


『信じてくれなくてもいいよ。決断は君に任せる。でも、このまま諦めるなんて下らない結末だけはやめてくれよ。介入して何もかも壊したくなっちゃうから。なんてね』


〜〜〜〜〜〜〜


「……あれはなぁ」


 気がつけばジンは白い空間から抜け出していた。彼の目の前にはソールが顎を弄りながら、遠い目をして何かを思い出しているようだった。


「あれってなんだ?」


 直前まで過呼吸になりかけていた事を思い出し、荒い息を吐きながらジンは尋ねる。


「ん? ああ、ラウフ・ソルブの鏡っていう神器だ。元々私はそれを見つけ出す事が使徒として命じられた仕事だったんだ。今は監視するのが仕事になっているけどね」


「監視? ならなぜこんな所にいるんだ?」


「超強力な結界を張ったからね。侵入者がどんな装備を纏っていようともひとたまりもない。それと鏡には近くにいるだけで魂を吸収するという呪いの力のような性質があってね。まともに近づく事も出来ないんだ。伝説だと真に選ばれた所有者以外は触れる事すら碌にできないものらしい。実際私の部下に触らせてみようとしたけど、10人中7人が鏡の3メートル手前で魂を抜き去られて即死。2人は鏡に触れたはいいがそのまま目を閉じて二度と開ける事はなかった。あとの1人は鏡を取り上げた後、突如奇声を発して笑い出し、残りの部下達から魂を搾取した後、同行していたもう1人の使徒と差し違えて死亡した」


 部下を10人も自分の命令で死なせたという事実を後悔など微塵も感じさせず、当たり前の様に言うソールの歪さに気づきつつも、ジンは尋ねる。


「つまり動かせないということか」


「そう。真に選ばれた者以外には無理。伝説通りだったわ」


「その伝説っていうのは一体?」


「あれ、知らない? デゼルト王国の話」


「いや、知らない」


「そうか。まあ簡単に言うと、この砂漠は昔デゼルト王国という国によって統治された緑豊かな土地だったんだけど、ある男がラウフ・ソルブの鏡を拾って、その真の力を解放した結果、たった1日で魂を抜かれた死者達の国へと変えたという話だ。その話を元にこの砂漠の中を探し続けて、ようやく50年ほど前に見つけたんだけどね。触れる事すらままならなかったから、封印する事にしたという事だよ」


 ラグナやソールの言う通り、その鏡には確かに魂を肉体から抜く力があるのならば、一つの肉体の中に二つの魂を持つシオンを救えるのではないか。そんな疑問が改めてジンの頭を過ぎる。しかし、すぐにその考えを否定する。もし、魂が共存の関係ではなく、融合の関係であるのだとしたら、彼女の中には魂が一つしかない事になる。つまり、魂を抜かれればそこにいるのはシオンではなく、シオンという殻を持った人形でしかないのだ。


 その事に気がついたジンは、だが簡単に諦める事が出来なかった。ラグナの言う通りだったのだ。簡単に諦められるならこれほどまでに苦しんではいない。可能性が少しでもあるのなら彼女を救いたかった。その決意の果てに、どれほどの人を傷つけようとも。どれほどの人に恨まれ忌み嫌われようとも。そして、どれほどの人が死んだとしても。


「でも、その様子だと鏡でもないみたいだね。じゃあ本当に一体何しに来たのかな? まさかとは思うけど、逃げたのかい?」


 目を細めながらソールが再度ジンに尋ねる。ジンは静かに口を開いた。


「いや、神を殺せる力を得る為にここに来た」


 訝しげな顔を浮かべていたソールはそれを聞いて満足そうに微笑んだ。

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