第175話エルマー

 洞窟は意外に深く、遠くから水の流れる音が聞こえてきた。さらにヒカリゴケに照らされて、想像以上に明るかった。


「天然の洞窟か」


 とりあえず奥に進むと、水が流れていた。ナギは服を脱ぐと、早速洗い始めた。水に赤い血がじわりと広がっていく。しばらくしてだいぶ薄くなったことを確認した彼女は、ふと水を覗き込んだ。そこにはいつもと変わらない姿の自分が映っていた。突然、水面が揺れ始め、次の瞬間、荒い息をついて泥だらけのエルマーの顔が現れた。


「エルマー!?」


『ナギ様!?』


 ナギの声に反応してエルマーが驚いた表情を浮かべた。


「一体どういうことなの?」


 これが遠距離連絡用の水法術の『水鏡』であることをナギはすぐに気がついた。しかしナギにもエルマーにも水法術は使えない。仮に使えたとしても、事前に相手に対して楔を打っておく必要があり、突然使うことは不可能だ。それなのに、今彼女の目の前にはエルマーの顔が映っている。


『よかった。とりあえず今どちらにいるのですか? すぐに向かいますので』


「えっと、ここは……」


 ナギは簡単に道順を説明する。エルマーは真剣な表情でそれを聞いて覚えた。


「あ、あとついでに服を買ってきてくれるかな? 雨で濡れちゃって」


『了解致しました』


 エルマーが頷くと、やがて水面から消えていった。


「エルマーの力なのかな?」


 ボソリと呟くも、それが違うことはなんとなく理解している。むしろ自分の内から、次から次へと膨大な力が溢れ出て、さらに知らないはずの法術に関する知識が刻み込まれていく。


「私、一体どうしちゃったんだろう?」


 口の端から溢れる唾液を拭いつつナギは呟いた。またしても微かな飢えを感じ始めていた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「いない、いないっ!」


 あちらこちらを駆け巡り、ついには疲れにより小石に躓き、大きく転ぶ。


「っと、大丈夫か、ひっ!?」


 目の前に手を差し伸べてくれた男の顔を茫然とした表情で見上げる。雨が降り始め、泥だらけになった顔の奥にある不気味な瞳に見つめられて、男は怯んだ。


 思わず男が手を引っ込めると、エルマーはまるで幽鬼の様にゆらゆらと立ち上がり、再び歩き始めた。


「いない………いない……いない…いない、いない、いない、いない、いない!」


 ぶつぶつと呟きながら、歩く速度を徐々に上げていき、また走り出す。それと同時に狂った様に叫びながら、泥だらけの少年が街の中を走り続け、向かいから歩いてくる人に何度もぶつかる。どの人も一瞬顔を顰めるが、自分にぶつかって来た相手が異常である事に気がつき、すぐに距離を取る。いつの間にか、エルマーの周囲には空間が広がり、彼の進む先には道ができていた。だが彼はそんな事に気がつきもしない。


 立ち止まっては荒い息をつき、エルマーは頭を両手でガリガリと掻き毟る。血が出てくるほどに掻いたせいで、徐々にその指が血に染まっていく。


「いないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいないいない……」


 僅かばかり回復したと感じたら、彼はまた走り始めた。だがナギの痕跡はなく、気がおかしくなりそうだった。


「あ、ああ、ああああああああああああああ!」


 自分の口から漏れている悲鳴の様な叫びに、彼は全く気がついていなかった。彼の胸の中にはただ喪失する恐怖しかなかった。それからしばらくの間、彼は狂った様に走り、探し続けた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「了解致しました」


 そうエルマーが言った途端、『水鏡』が解除された。ナギがこの術を使えるとは聞いた事が無かったので、多少面食らいはしたが、それは大した問題ではない。それよりも彼女の無事が確認できた方が彼にとって、よっぽど重要だった。もう2度と姉の様な存在を失いたくない。しかし、そんな思いとは裏腹に、彼の本質にあるのは、哀れなほどの他者に対する依存的な欲求だろうか。つまりナギは彼の姉であるサラの代替品でしかない。だが彼には精神を安定させるために、依存する対象が必要だった。


「本当に良かった」


 ボソリと呟いた彼は、自分が泥だらけである事に気がついた。


「うわっ、酷いな」


 記憶にはないが、頭を掻き毟ったらしく、ひどく痛む。転んだ時に破れたのか、ズボンには穴が開いていた。服も雨と泥でぐちゃぐちゃだ。この格好では、店に入ることもままならない。


「仕様が無いか」


 逸る気持ちを抑え、エルマーは泊まっている宿に戻る事にした。道を進んでいた彼を、人々が何故か避ける。歩き易いのだが、なぜ彼らが自分に対してその様な態度をとっているのか、彼には理解できなかった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 エルマーにとって、姉は神の様な存在だった。常に自分を暖かく包み込んでくれた。気弱で能力が乏しく、いつも優秀な姉と比較され、両親に期待されずに育った彼を、姉は彼の方が鬱陶しく思うほど深く愛してくれた。どんな時でも側にいてくれた。そんな姉だったからこそ、何があっても命をかけてでも護りたかった。そのための努力だってした。例え弱くても、才能が無くても、姉を護れる、そんな存在になりたかった。だからどんな痛みにも耐えて努力した。誰からも期待されなくても、姉が側にいてくれるだけで、いくらでも頑張れた。


 だがそれも結局無駄だった。化物の姿になった姉が、自分の目の前で友人に殺された。それも、信じていた友人にだ。悪いのは彼ではないということを、エルマー自身も心のどこかで理解はしていた。だが誰かを恨まなければ狂うしかなかった。それに、もしナギに出会わなければ、とうにのたれ死んでいただろう。彼女が彼という存在を優しく包み込んでくれた事が、彼の精神をなんとか保たせたのだ。だからエルマーは決してナギから離れられなかった。例え、彼女が化物になったとしても、彼はきっとそれを受け入れるだろうね。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 薄暗い森の中を歩いていると、前方に何かに集っているフォレストウルフの群れを発見した。エルマーはそれを確認すると、迂回する事に決めた。2、3匹ならなんとかなるが、前方にいる群れはどう考えても5匹以上いる。彼では確実に敵わない。幸運な事に雨が彼の匂いを消しているので、大きな音を立てなければ、見つかる事はないだろう。そう考えて、なるべく音を立てずに道を迂回した。


 そんなこんなで、最初に想定していた時間よりもかなり遅くなったが、漸くナギが雨宿りしている場所まで辿り着いた。中を覗き、恐る恐る踏み入れた。中の洞窟は想像よりも奥深くまで続いており、日が落ち、雨のせいもあってだいぶ暗くなって来ていたが、洞窟の中はヒカリゴケのおかげで、ある程度明るい。


「ナギ様!」


 エルマーが叫ぶと、すぐに返事があり、少し先で明るく小さい光球が浮かんだ。それがナギによるものだとすぐに分かったのでエルマーは駆け寄った。ナギは岩陰に隠れつつ、少しだけ顔を出して、エルマーの方を見ていた。


「こちら、ご要望の衣類です」


 そう言って、エルマーは少し近づき、彼女が取れる様に地面において、後ろを向いた。


「ありがとう」


 後ろでガサガサと音がして、ついで衣服を着る様な音が聞こえてくる。エルマーは少し顔を赤らめた。


「い、いえ。それよりも、なぜこの様な場に来られたのでしょうか?」


 この森には魔獣も多く生息しており、非常に危険だ。それは彼女も理解しているはずである。それなのに彼女がこの森に来た事がエルマーには不思議だった。だがその答えは返ってこなかった。否、返っては来たが、それは彼の意図するものではなかった。


「いただきます」


「え?」


 次の瞬間、エルマーの腹部から腕が飛び出た。驚き、意識を失うエルマーが最後に見たのは白い羽だった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。


 闇の中で生々しい音が響く。ナギはエルマーだった肉塊を貪り喰っていた。もはやエルマーの瞳からは生気が感じられず、ただ茫然と宙空を見つめていた。


「何をしているんだ?」


 突然、背後から声をかけられて、ナギが振り向いた。そこには最近知り合った青年が立っていた。否、正確に言えば、自分の最愛の弟だ。10年前に別れ、ずっと夢の中に出てきたジンだ。


「あー、ジンだぁ」


「何をしているんだ!」


 だが彼の声は彼女には届かない。


「ふふ、そんなに怒らなくても、ちゃんと残してあるよ」


 そう言うと、ナギはエルマーの目に指を立てて、眼球をくり抜き、それをジンに差し出した。それを見て、ジンは吐き気を催す。口の中に『あの時』の味と感触が蘇った。


「あれ、どうしたの? 体調悪い?」


 ナギは立ち上がると、心配そうな顔を浮かべてジンに近寄る。彼女の背にある純白の翼が揺れた。ジンはこみ上げてくる物をなんとか飲み込んで睨みつける。


「そうだ、ジン。ザックとレイとミシェルを知らない? もうご飯の時間なのにどこにもいないの」


 彼らは既に死んでいる。しかもナギに喰われたのだ。10年前と同じく現実を認識出来ていない。そこまで考えてジンは自分の考えに驚愕した。彼女が記憶を、本当のナギの記憶を持っている事に気がついたからだ。


「な……んで、その名前を?」


「なんでって、私があの子たちの名前を忘れる訳ないじゃない」


「そうじゃなくて!」


「そうだ、それとエルマーも探して来てくれるかな?」


 やはり現実の状況をまともに認識出来ていない。その様が全て、ジンにあの時の光景を思い出させる。


「あんたは、姉ちゃん……なのか?」


「え? 当たり前でしょ?」


 おそらく姉が創った光球で薄らと照らされた洞窟の中でも分かるぐらい、口元を血で汚しながら、かつての慈愛に溢れた笑顔で彼女がジンを見つめてくる。


「う、うう、うわあああああああああ!」


 そんな彼女にジンは空中にナイフを創り出し、それを掴んで投げ放った。

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