第50話魔

 突然の登場に誰も反応できなかった。だが目の前にいる悪夢の塊のような存在を前に、すぐに脳が再稼働した。


「まさか、付けられていたのか?そんな馬鹿な!」


 ミリエルが愕然とする。自分たちは確かに奴から逃げ延びたはずだ。なぜなら逃げている最中に奴の気配は何もしなかったのだから。それについ先ほどまでも。


「はは、何を驚いているんだい?あいにく僕は君たちみたいな下等生物じゃないんでね。いくら逃げようが追うのは簡単なんだよ。そもそも君程度が僕を撒けるわけないだろ。ただ、父さんたちのところに連れて行ってくれるかと思ってね。母さんを連れて来てたから」


少年は蔑みの目を彼女に向けた。


「そんな…それじゃあなんで前の時は…」


「前?ああ、君、あの虎のおじさんと一緒だった人か。まあ彼に免じて見逃してあげただけだよ。それに食事中だったしね。」


「っ、ハリマは、ハリマはどうした!」


「へぇ、ハリマっていうんだ。でもそれって聞く必要あるの?」


その言葉にミリエルは涙を流しながらくずおれた。


「あらら、敵前で戦意喪失?ハリマだっけ?彼、腕を千切られても泣きもしなかったよ?」


馬鹿にしたような軽口を悪魔は言う。その言葉にミリエルはビクッと肩を揺らしはするが、立ち上がることができない。


「さてと…」


 そう言って少年はジンたちの方に目を向ける。ジンはその金色の瞳を向けられた瞬間に全身の毛が逆立ったように感じた。酷く恐ろしいのにその目から、その姿から目をそらすことができない。少しでも逸らそうものなら自分は死ぬだろうということを本能で理解した。


 いつの間にかウィルが彼の前に、守るように立ち塞がっていることに気がついた。その背中を見て少し安心する。


「よお、久しぶりだなクソガキ」


ウィルが少年を前に不敵に笑う。だがその額には先ほどまで流れていなかった大量の汗が浮かんでいた。


「本当に久しぶり、父さん」


「レ…ヴィ?」


「うん、そうだよ母さん」


 呆然とするマリアにニッコリと笑いながら、レヴィと呼ばれた少年が近づいてくる。それを見てウィルは目に見えて焦り出す。マリアは側から見ても状況を正しく認識できていないのがわかる。


「マリア、離れろ!クソッ!ジン、家から武器持ってこい!」


「で…でも…」


「早くしろ!!!」


「っつ!」


初めて聞くようなウィルの大声にジンは弾かれたように動き始める。


「マリア!逃げろ!」


 再度ウィルは大声で叫ぶ。そこにはいつもとは違って焦燥感に駆り立てられた男がいた。だがマリアにはその声が全く聞こえていなかった。よろよろと覚束ない足取りでレヴィに近づいていく。


「あぁレヴィ、レヴィ、会いたかった!」


 涙を流し、嗚咽しながら彼女はレヴィに抱きついた。十数年振りの、死んだと思っていた息子が目の前に現れたのだ。見違えるように大きくなってしまったがそれでもその自分と同じ赤い髪やウィルと同じ金色に近い琥珀色の瞳には確かに面影が残っていた。何年経とうと、何年会っていなくとも決して間違えるはずがない。目の前にいる少年は確かに自分の末の息子だった。


「レヴィ、レヴィ…」


 マリアは少年の額にキスをして再度きつく抱きしめる。実年齢と見た目の年齢がおかしいなどといった彼が抱える矛盾を一切気にしてはいなかった。ただ目の前にある奇跡に感謝をした。


「痛いし、苦しいよ母さん。それに…」


マリアの胸に顔を埋められながら苦しそうにしていたレヴィは何とか顔を離し、朗らかに笑った。


「汚いよ」


 周囲にグチャッという音がした。肉が抉れるようなそんな音だった。武器を持って走っていたジンは思わず足を止めた。その視線が自ずと音のなった方に向けられた。


 ジンは気がついた。マリアの背中から腕が飛び出していることに。そしてその腕が赤黒く、血を噴き出しながら、ビクンビクンと動いている物体を握りしめていることに。脳が目の前の現実を理解することを拒否する。


「あ…れ…レ…ヴィ、どう…し…?」


口から大量の血を吐きながら、マリアは彼に話しかけた。


 レヴィはクスクスと笑う。そしてマリアを貫通した右腕を引き抜いた。彼女の心臓とともに。ドサっという音ともにマリアはそのまま地面に倒れ伏した。それから彼はその口を大きく開けてマリアの心臓を貪り食った。


「ど…して…」


「あれ、まだ生きてるんだ。すごいな、心臓を抜き取ったのに。さすがは僕の母体に選ばれたことだけはあるね」


口をマリアの血で真っ赤に染め、その手についた血を舐めながら、軽い調子で喋った。


「マリア!」


 薄れゆく意識の中で遠くから、夫の声が響く。マリアはゆっくりと悟った。自分の生んだ子供が正真正銘の化け物であったことを。そして自分が息子を、ジンを残して、ウィルを残して死ぬことを。暗く、靄がかかっていく中で、最後に彼女は『ごめんね』と口を動かした。だがそれは誰にも気づかれることはなかった。彼女自身誰に向けて放った言葉かわからなかった。やがて彼女は意識を手放した。夥しい量の血液を周囲に撒き散らしながら。


「く、くそがぁ!!」


 ウィルの怒声にジンは体の自由を取り戻した。


「マリア!」


 心臓が痛いくらい早鐘を打つ。武器も何もかも放り出してマリアに駆け寄ろうとする。だがいつのまにか目の前に来ていたウィルに遮られる。


「ジン、ダメだ」


 静かな声がジンの耳に響く。先ほどの大声よりもなぜかはっきり聞こえた。


「でもマリアが!」


ジンはマリアに指を向ける。


「ダメだ。あれは助からねえ、もう遅い」


「そんなことない!まだ…まだ大丈夫だよ!どいて、どいてよウィル!これ!この剣を使えば!」


 そう言ってジンはティファニアにもらった短剣を取り出してウィルに向ける。だが、


「ダメだ」


 その静かな言葉を聞いたジンは全身に力を張り巡らせた。


「どかないなら!」


 だがその拳はウィルには届かなかった。彼はジンの腕を容易く掴んでいたからだ。


「いい加減にしろ」


「うるさい!」


 掴まれた腕を何とか引き離そうとする。しかし万力のように締め付けられた腕はビクともしなかった。それどころかウィル自身も気がついていないのか、徐々に握る力が強まっていく。体を強化しなければ骨は簡単に砕けていただろう。


 その時になって漸くジンは気がついた。唇から血が流れるほどに食い縛ってレヴィを睨んでいるウィルの形相に。その目は息子に向けるようなものではなく、ただただ深い怒りと憎しみのこもったものであった。ジンの体から力が抜ける。それに気がついたウィルも掴んでいた手を離す。


「悪いな。今お前にまで行かれたら本当にどうしようもねえんだよ」


「…うん」


 ウィルの言葉は本当に申し訳ない気持ちで溢れている。彼だって今すぐにでもマリアのもとに行きたいはずだ。むしろその気持ちはジンよりも強いだろう。だがそれでも現状を悪化させるべきではないと考えて行動しているのだ。


「あれ、もう終わり?」


 そんな二人を観察していたレヴィが話しかけてくる。母親を殺したばかりであるのにその態度は非常に軽い。まるで殺したのは虫か何かだとでも言わんばかりであった。


「それじゃあその子が武器も持って来てくれたことだし、始めようか、殺し合い」


 満面の笑みを浮かべた少年がゆっくりと歩き始める。ウィルはジンが持って来た大剣を構えてニヤリと笑う。その姿はいつものウィルに近い気がした。目の前の敵を倒すために、どうやら脳が戦闘態勢に切り替わったらしい。


「ああ、ぶっ殺してやるよ」


 両者は徐々に接近する。あと数メートル、あと数歩でウィルの間合いに入るというところで、


「死ねぇぇぇぇぇぇぇ!」


 ミリエルがジンから奪い取った自身の剣を振りかぶりながら飛びかかった。

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