第49話降臨

 ミリエルは自分の目を疑っていた。最後に会ってからジンがどれほど成長したのかというのは気になっていた。だが彼の成長は想像以上だった。考えてみれば当然のことかもしれない。なぜならウィルとマリアという二人の使徒にまだ幼い頃から戦いの英才教育を施されているのだから。


 確かに神術を扱えばまだ圧倒的に彼女が有利だろう。だが体術、こと闘気の扱いに関しては、ジンの方が数段上である。何せハリマが認めたほどの体術の使い手であるウィルに肉薄する勢いだったからだ。まだチグハグなところもあるが、その動きには目を見張るものがあった。


 右拳に力を込めて高速の突きを放つ。当然ウィルはそれを容易く躱す。だがジンもそれを読んでいる。すぐさま右手を引き戻しつつ伸びてきたウィルの右手を左腕で弾く。ここで掴まれるとすぐに投げ飛ばされてしまう。そうされないように注意しつつ足に力を込めて後ろに飛び、距離を取ろうとした。


 だがウィルはそれを読んでいた。その『逃げ』を見てすぐさまタックル攻撃に切り替える。ジンは後ろに飛んでいる状態のために逃げ場がない。そのまま胴体にしがみ付かれ押し倒される。マウントポジションを取られたが、すぐさまそこから脱出を試みる。


 以前ウィルから教わった動きを真似て、彼の拘束から何とか抜け出すことに成功した。だが一気に体力を奪われた感じがするのは否めない。再び距離をとってウィルの出方を待つ。


「何だ、こねえのか。そんじゃあ行くぞ!」


そう言った瞬間にすでにウィルはジンの目の前にいた。殴られそうになるのを慌てて右に避けつつ、その流れでウィルの顔に蹴りを放つ。それをウィルは容易く掴むと、ジンを木の枝のように軽々と片手で持ち上げて振り回す。


「わっ、ちょっと、それ、やめて吐くから吐いちゃうからー」


その言葉を聞いてウィルは笑いながらジンを投げ飛ばす。


 空中で体を回転させて何とか着地しようとするも、ぐるぐると目が回ったせいで彼は足がもつれて倒れこんだ。


「情けねえなぁ。それにまたいつもの癖が出てたぜ?いつまでたっても治んねえなその癖」


「うえっ、な、なんか慌てるとつい右に行っちゃうんだよね。うっぷ…そ、それよりもう今のやつはやらないって前に言ってたじゃん!」


 口から出そうになる物を飲み込みながらジンが睨む。


「がはは、そんなこと言ったか?まあこれも修行だ修行!」


「む〜」


 ジンが不満気な顔をするのをニヤニヤ笑いながら言うウィルに別の意味でもムカムカしてくる。そんな彼らを眺めていたミリエルのところにマリアが歩み寄ってきた。どうやらひとしきり家事が終わったらしい。


「どうだい、ジンの様子は?」


「…なんて言うか…凄まじいわね。まだ10歳ほどなんでしょ?それなのにあの力は、末恐ろしいわ。体術ならもう完全に私より上でしょうね」


「そうでしょそうでしょ、あの子には体術ならもうあたしも勝てないからね!それにあの子はなんて言っても…」


 自慢気に語り続けるマリアを尻目に、組手を再開した彼らを眺めながら、唐突に空を見上げた。雨の降りそうな気配がしてきたからだ。そして彼女は『それ』を見つけた。


「う…嘘でしょ」


「ん?ミリエルどうしたんだい?」


ワナワナと震える指先でミリエルは『それ』を指差した。


 ウィルの前蹴りを両腕を交差して防ぐ。弾き飛ばされそうになるのを踏ん張って堪える。蹴りを放ってできたわずかな隙をついて懐に潜り込み殴りかかろうとする。だが紙一重の差でウィルが後方に体を倒しそのままバク転の要領で後ろに倒れこみながら蹴りを放ってくる。


 その予想外の動きにジンは慌てて回避しようとするも避けられず、顎下を蹴られそうになる。何とか片手を入れて防ぐことに成功したが、勢いを殺しきることができずに尻餅をついた。そして上を向いて『それ』に気がついた。


「何だ、あれ?」


「あん、何がだ?」


「ほらあれだよ」


そう言ってジンが『それ』を指差した。



 今にも雨が降り始めそうな曇天の中で黒い影が漂う。『それ』はバサッバサッと羽音を立てながら眼下を伺っていた。目的の獲物を探して、『それ』は道程で死を撒き散らしながら、ようやくそこにたどり着いたのだ。その手に持った『おやつ』を一飲みするとゆっくりと降りてきた。


 『それ』の視線の先には筋骨隆々の緑髮の男と黒髪の少年が組手をし、懐かしい匂いのする赤い髪の女と銀色の髪に褐色の肌の女がそれを眺めていた。その様を見て『それ』は鼻で笑う。なんの力も感じられないその少年は、『それ』が息を吹きかければ一瞬で燃え尽きてしまうだろう。そして、そんな少年と組手している男に強い不快感を感じる。その程度の相手に押されているとは、こんな男が、自分が探していた者なのか。あの時の力はどうしたのかと。


だが心の内から湧き出る興奮がそんな気持ちを隅に追いやる。何年も何年も何年も捜し求めてきた。大切な獲物をようやく見つけることができたのだ。この喜びを、この憎しみを、この怒りを、この気持ちを早く相手にぶつけたい、受けてめて欲しい、そして喰いたい。喰べたい。泣き叫ぶ様を見たい。真っ赤な血で喉を潤したい。筋肉質で筋張ってそうな肉に、柔らかそうな肉に齧り付きたい。あの女の前で男を喰い殺したい。あの男の前で女を喰い殺したい。二人の前でまた、あの子供を喰い散らかしてあげたい。そんな気持ちが『それ』の心を埋め尽くした。


 ふと、忘れられていないだろうかと言う不安がよぎる。それはダメだ。それは許せない。自分にあんなことまでした男が、自分にあんなことまでされた女が、自分のことを忘れるべきではない。それならば、彼らの笑顔は一体全体どう言うことだろうか。もしかして彼らは自分のことを本当に忘れてしまっているのではないか。


 それでも、もう覚悟を決めるしかない。それよりも、最初にかけるべき言葉は何だろうか。何を言うのが適切だろうか。そんなことを考えていると彼らの視線を感じた。


 それに気づくと同時に『それ』は空中で体を変化させていった。せっかく彼らに会うのだ。それにふさわしい姿を取るべきだろう。久しぶりの再会に胸が躍る。自分の姿を見て彼らは何と言ってくれるだろうか。どんな顔を浮かべてくれるだろうか。そしてどんな哀れな姿を晒してくれるだろうか。そう考えながらようやく最初に何を言うかを決めた。


 やがて12歳ほどの赤髪の黒い服を着た少年になった『それ』は、彼らの前にふわりと着地した。


「こんなところにいたんだ。やっと見つけたよ父さん、母さん」


 柔和な笑みを浮かべて、赤くて黒い、悪魔がそう言った。

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