第6話絶望
ジンが逃げ出したのでそれを追いかけようとしたナギは、突然強烈な眩暈に襲われた。心臓が早鐘を打ち、胃がひっくり返るような吐き気に襲われ、先ほどの夕食を全て戻した。喉がひどく乾く。割れるような頭痛が彼女の意識を朦朧とさせ、そのまま地面に倒れこみ蹲る。次第に途切れかける意識の中で何かが彼女に呼びかけてきた。
『さあ殺し狂え。憎い奴を殺せ。愛しい奴を引き裂け。愚か者は喰ってしまえ。思うがままに殺しなさい。楽しみながら殺しなさい。悲しみながら殺しなさい。君は何をしてもいい。君は完全に自由なのだから』
そんな声が頭の中で鳴り響き、どんどん強くなる。初めは抵抗感を覚えていたそれはどんどん甘美な声に、絶対的に逆らえない声のように聞こえてきた。だからナギはその声に従うことにした。
【だって、じぶんはなにをころしてもいいんだから……】
いつの間にか彼女の背中には天使の白い羽が生えていた。そしてゆっくり立ち上がると、帰途についた。
「よう、ナギちゃ……ん」
『いつもいやらしい目で私を見てくる男だ……』
ナギはそう思うとおもむろに彼に近づく。
「え、あ、あれ、その……は一体……。大……夫かナ……ん」
何か男が言っているがよくわからない。
『なんだかお腹が空いたな……』
そこでナギはふと気がついた。目の前にある肉団子に。
そして彼女の口が大きく横に裂けた。
「あ! ナギお姉ちゃんおかえ……」
ノックの音がしたのでミシェルがドアを開けると目の前にナギが立っていた。明るく迎え入れようとして、彼女の背中にある白い翼が目に入り言葉が引っ込んだ。
「ただいま、ミシェル」
ナギのいつものような穏やかな微笑みが目に入ったところで、ミシェルの意識は途絶えた。床には頭を引きちぎられた『もの』が転がり、ナギの右手はミシェルの頭を掴んでいた。
「ただいま、ザック、レイ」
そう言って、彼女はそれを掴んだまま、二階へと階段に足を向けた。
2時間ほど泣き続け、だんだん心が落ち着いてきたジンは家に帰ることにした。まだ割り切ることは全然できない。ナギの顔を見ればまた泣き出してしまうかもしれないし、怒鳴りつけてしまうかもしれない。それでも残り時間を有意義なものに、大切なものにしたいし、してあげたい。
『今すぐ帰ろう。それで姉ちゃんに謝ってから、ありがとうって言おう。恥ずかしいけど大好きだってちゃんと伝えよう。姉ちゃんが不安にならないように、これからもっと強くなろう』
そんなことを考えながら急いで家路につく。今すぐにでもナギに会いたかった。いつもの空き地を通り過ぎると唐突に異臭がした。どこかで嗅いだ匂いだが思い出せない。家に近づくにつれそれはだんだん酷くなり、ジンは気味が悪くなった。そしてようやくこれがなんの匂いか思い出した。
死臭だ。以前スラムで腹を割かれて夥しい量の血をながして死んでいた男からした匂いだ。ジンの目の前にいくつかのそれが転がっていた。そしてそれが自分の家の前まで続いていることに気がついた。一瞬、ジンの頭の中に最悪の予想がよぎる。心の中にある恐怖を押しつぶし、必死にその路を駆け抜ける。
家の前についた。勇気をだしてドアを開けると目の前には地獄が広がっていた。
ロウソクの火で照らされたその部屋の床一面にはドス黒い絨毯が広げられていた。
グチャッ、グチャッ、グチャッ……
どこかで何かが包丁で微塵切りにされている。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……
3つの椅子の上にそれぞれ丸いものが置かれ、それから何かが流れ、床に垂れ落ちている。
テーブルにはロウソクが置かれ、淡い光がその中央にあるお皿を照らしている。皿には少量の萎びた野菜に、シワがたくさん刻まれた赤白い球形のものが盛り付けられ、その上を蝿が飛び回っている。
その横に置かれている鍋には真っ黒なスープが入れられている。
何かの肉が焼けている音がする。
「ふふ〜、ふ〜んふ〜ふふ〜」
ナギがいつも歌う子守唄が聞こえる。そして台所の方から新しい『料理』を持って、ところどころにどす黒いシミをつけた翼を生やし、真っ赤な口紅をつけたナギが現れた。
「あっ、ジン! も〜どこに行ってたの? 料理が冷めちゃうじゃない。まあいいや。今日の料理はすごいよー。なんだと思う?」
「あ、な、に?」
言葉を失い、目の前の現実を理解することをジンの脳は拒絶している。そしてナギが満面の笑みで言った。
「ザックのハンバーグと、レイの脳みそのサラダ、ミシェルのシチューだよ。ザックのお肉が固くて調理するのに手間取っちゃった。も〜、あの子筋トレばっかりしてるんだから。あっ、飴もあるんだけど、ジンも食べるよね? 少し大きいかもしれないから、喉に詰まらせないようにね。」
そう矢継ぎ早に言って自分の口に『丸い何か』を放り込みながら。ジンに近づき、強引に口の中に『それ』を詰め込んできた。その瞬間ジンはその生臭い『何か』を吐き出し、ついでに夕食に食べたものを吐いた。床を転がっているその『何か』は、彼を見つめている。
「もー、汚いなあ。晩御飯を食べたらちゃんと床を掃除しないとダメだよ。あっ、それからザックたちを呼んできてくれない? なんか見当たらなくて……冷めないうちに早く早く!」
ナギの顔は恍惚としており、目に生気がない。言っていることは支離滅裂だがそれに気づいていない。それに何より、自分が何をしているのかを理解していない。
ジンはおもわず腰をついた。お尻に冷たい液体の感触が広がる。それはついさっきまで親友たちと思い人が生きていた証である。ふと椅子の上にある丸いものが目に入る。ようやくそれが彼らの頭部であることがわかった。それぞれが瞳のない伽藍堂の目を彼に向けているように感じられた。
「あれ? ジンどうしたの? 大丈夫? 立てる?」
そう言ってドス黒い手をジンに伸ばしてくる。とっさに彼はそれを弾き、自分から立ち上がって、脚力だけを全力で強化し、家から飛び出る。
「痛っ! 何するのジン。血が出ちゃったじゃない。あれっ? ご飯だよ? どこ行くの?」
その手を染めるものが自分の血でないことにさえ気がついていないようだ。そしてそのまま彼の後についてくる。
家から転がり出たジンは思わず尻餅をつく。腰が抜けたのかすぐに立ち上がれず、手や肘を使って体を引きずるようにしてなんとか逃げようとする。皮膚が地面のせいでズルっと剥けるが痛みは全く感じなかった。するとそんな彼の腹の上にナギがのしかかってきた。ポツポツと降り始めた雨が二人の体に落ちる。
「つ〜かま〜えた! も〜、逃げるなんてひどいよぉ。そんな子はお仕置きしなきゃね♪」
ジンの首を万力のような力で締める。
「かっ、はっ」
ジンが苦しそうな声を上げる。
「本当に可愛いなぁジンは。食べちゃいたいくらい! そうだ、せっかくだし食べちゃお♪」
楽しげに笑うナギの表情は、時折ジンにじゃれついてくる時のそれであった。
そして、ナギの口がジンの右肩に噛みつき、食いちぎった。
「づっ、ガァァァァァ……」
彼の悲鳴が鳴り響く。
「ぁあ、美味しい。ジンのお肉すごく美味しいよ! ジンも食べてみる?」
おもむろに彼の頭を掴みキスをして、ジンの体の一部を口移しで流し込んでくる。
「えへへ、ジンとキスしちゃった♪」
恥じらいながら、笑っているナギを見てジンの脳はようやく姉の形を保ったそれが、魔物、それもその上位種とされる魔人と呼ばれる災厄の存在であることを、悪神オルフェの使徒になったことを理解した。
『なんで? どうして姉ちゃんが? ザックは? レイは? ミシェルは? それよりもこの状況をどうにかしないと、死んじゃう……』
一層混沌とする思考の中で、何が悪かったのかを考える。
結論は出ない。
どうすればよかったのかを考える。
結論は出ない。
今どうすればいいのかを考える。
結論は、出ない。
ただ明確に分かるのは、自分が今から敬愛する姉に食い殺されるということだけだった。
そんな思考の渦の中から再び抜け出し、意識を目の前に集中するとジンは異変に気がついた。ナギが苦しそうに頭を抱えだしたからだ。
「グッ、ガァァァア……」
そのままジン体から転げ落ち、のたうちまわった。
「ジン、ジン、ジンジンジンジンジン、食べたくない食べたくない食べたくない。イヤだイヤだイヤだヤだヤだヤだヤだヤだ、ヤだよぅ。助けて誰か助けてよぅ。あぁジンころして、あたしを殺して!!」
狂ったようにナギは泣き叫び続ける。ジンは痛む肩を抑えながらそれを呆然と見ていた。殺すわけがない。殺せるわけがない。彼にとってナギは姉であり、親であり、憧れであり、命をかけてでも守りたい存在だった。しかしそれをナギは許さない。いや、許してくれない。
彼女は苦痛からの、苦しみからの解放を求めている。姉を救うには、優しかったナギの心を守るには、もう遅いかもしれないが、殺すしかなかった。
「はやくはやくはやくはやくはやく、こ、ころして、ころしてっ! ジィンンン!」
ナギの悲痛な叫びを聞き、ジンは、覚悟を決めた。
そして仰向けになっている彼女の腹の上に跨り。その細く柔らかい首に手をかけ、痛む肩を我慢しながら徐々に力をかけていく。腕を強化すればすぐに殺すこともできたが、混乱していて集中できない。
「クゥ、フッ」
小さなうめき声が聞こえる。それを耳の奥に、脳に刻みながら、それでも彼は手を緩めない。
「グギィィィ」
突然ナギが暴れ出した。どうやら元のナギの意識が薄れてきているようだ。先ほど噛まれた右肩が痛い。もがいている手が髪の毛を掴み、引き千切ろうとしてミチミチと音がする。振り回した手が右目の当たりにぶつかり、メキッという音がした。視界が赤く染まる。腕に立てられた爪が皮膚を切り裂く。それでもジンは首を絞めるのをやめない。
やがてそういった攻撃が弱弱しくなり、遂にはそれも止んだ。疲れたような笑みを浮かべているナギを見て、彼女が正気に戻っている事にジンは気づいた。そして彼女が何かを言いたそうな顔をしていたので、首から手を離した。
「ゴメ……ンね。お姉ちゃ……ひどい事しちゃった……」
「いいよ……気にしてないよ」
ナギが震える右手を持ち上げてジンの頰を撫でる。
「……も……時間がない……や。ジン、もっといっしょにいてあげられなくてゴメ……ね」
ジンの目から涙が溢れ出す。
「おっ、俺の方こそ姉ちゃんの、力になってあげられなくて、ごめん。何もできなくてごめん」
ポロポロと涙を流しながら、ナギの左手を握る。
「そんな、ことないよ。ジンがうまれ……てきて……くれたから、いっぱい幸せだったよ……」
「そんなわけない! 俺がいなければ姉ちゃんはもっと自分の人生を過ごせたはずだ! こんなにひどいことにはきっとならなかった!」
それを聞いたナギは柔らかく微笑む。
「それでも、だよジン。嬉しいことも、悲しい、ことも全部ジンと一緒だったか、らなんだよ……」
「でも!」
ジンはナギの手を強く握るが、その手を握り返す力はとても弱い。
「は、は、もう、時間切れみた……い。またわるいやつが、出てきそう。だから、さいごにおねえちゃん、とやくそくして」
「何? なんでもするよ! 何でも言って!」
「じゃ、あ……ぜったいに……どんなことが、あっても……まけないこと。どんな時でも、笑顔を忘れない……こと。これだけやく、そくして……」
「わかったぜったいに守る。絶対に幸せになる。絶対どんな時も笑ってみせる!」
「よか……た。じゃあ、ごめんだ、けど。今度こそ、わたしを、ころし……つくして。わたし、が、またこわれる……まえに……」
「……わかったよ、姉ちゃん」
そうしてジンから表情が消える。再び姉の首に手をかけ、力を入れていく。今度は全力でやる。誤って殺しきれなければ、今度こそ本当にナギが化物になってしまうから。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
ジンはずっと小さくつぶやき続ける。雨が徐々に強くなっていく。
ナギが小さく口を開けて囁く。
「愛してるよ。ジン」
だが雨の音が、その声をジンに聞かせなかった。ナギの口がわずかに動いているのに気付き、慌てて手を離し、ジンは彼女の顔に耳を近づけるが、ナギはすでに事切れていた。諦めた彼はナギを殺しつくすという約束を守るために、彼女を守るために鍛えた腕に力を入れた。「ふぅ」と一呼吸置いて、精神を集中させて腕を闘気で覆った。
やがてボキッと鈍い音がなった。
完全に死んだナギを上から見下ろし、微笑を浮かべながらジンは言った。
「姉ちゃん。やくそくはぜったいに、まもるよ」
そして体が姉の上から崩れ落ち、途切れつつある意識の中で彼女の最後の安らかな微笑みを見つめていた。
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