第2話神話と日常
この世界には二柱の善神がいた。女神「フィリア」と男神「オルフェ」。彼らは兄妹であり、夫婦であり二人で世界を作り上げたとされていた。
大地を創り、そこに降り立った彼らは、次に植物や獣といった生命を生み出し、最後に自らの姿を真似た、人という種を生み出した。創生の時代、神々と人間は近しい存在であり、常に傍にあった。人々は彼らを崇めながら、彼らの良き子供として、平穏な世界を創ろうと精進し、二人の期待に応えていった。「オルフェ」と「フィリア」はそんな人々を微笑ましく思い、彼らの発展をしばらく見守った後、天界へと帰っていった。
神々が大地から去った後、数千年が経過した。もはや人間たちにとって神話となった創世記に描かれた神達は信仰の対象として、人々の心の支えとして在り続けたものの、その神性は徐々に失われていった。いつの間にか神という存在は形骸化した概念に過ぎなくなっていった。
やがて人々の中から王と呼ばれる、広大な領土と配下を持った指導者たちが登場した。彼らは人々を支配するために、自らの覇を神により与えられた正当なものであると唱え、「オルフェ」と「フィリア」の名を利用し、勢力を拡大していった。その過程で多くの国同士が争い、滅び、長き歴史の中で、戦争により多くの無辜の民が命を落とした。
二人の神は人々のその様を天界から眺め、悲嘆にくれた。そして深い悲しみにより狂った男神は悪神となり、罪には罰を与えなければならないと思い至った。恐怖を等しく心の中に刻み込んであげようと考えたのだ。そうして彼は人々に1つの呪いを与えた。
魔物になる呪い。ある日唐突に人々の中から、魔物に変化するものが現れ始めたのだ。姿はまちまちではあったが、これらは強靭な肉体を持ち、人を喰うことで力を増すという特性をもっていた。さらには稀にオルフェの使徒と称される、通常の魔物とは異なる次元の強さを持った、魔人と呼ばれる存在も現れた。彼らはほぼ完全な人の姿を保ち、人語を解する知能を持ち、一人で一つの国を滅せると言われた。
またそれ以外にも人を餌としてみるゴブリンや、オークといった魔獣を数多く作り、それを使って人間たちにさらなる恐怖を与えた。これにより人々は互いに猜疑心が強くなった。いつ隣人が魔物に変化するかわからなかったからだ。だが彼らは協力し合わなければ、街の外から襲いかかる魔物や魔獣に対抗することはできない。その矛盾を人々は抱え続けることになった。結果、恐慌状態に陥った人々によってさらなる戦乱が引き起こされた。
一向に終わらない殺し合いを見たオルフェは、完全に人間を滅ぼして新たに平和を愛するものを創り出そうと決めた。彼はそれが、己が創り上げたものに対する責任であると考えたのだ。
一方で、魔獣に怯え、自分が化け物になることを恐れ、死への恐怖を常に持ち続ける人々を慮って女神フィリアは人々に法術を与えた。神の御技とも呼べるその力は人々に火、水、土、風の自然の力と光と闇という六つの属性からなる超常の力を与え、これにより人々は少なくとも魔物や魔獣に対抗する術を持った。さらには呪いの発動をある程度封じる法具を開発し、人々は恐怖から幾分か解放された。
やがては周囲と隔絶した力を持つ人間が、わずかに登場し始めた。彼らはフィリアの使徒と呼ばれ、その寵愛を受ける者として、人々の守護者となり、先導者となった。さらに女神はそんな彼らとともに、世界の果てにオルフェとその配下の魔物を封じ込めるための大結界を張ることに成功した。そこはいつしか魔界と呼ばれるようになり、魑魅魍魎が跋扈する、人の住むことができない世界となった。
だがオルフェの強大な力の前に、フィリアでも完全に世界を隔てることはできなかった。結界には各所に脆い箇所があり、ドラゴンといった一定のレベルの強力な魔獣や魔人以外は人間界に侵入することができた。その上増えすぎた魔獣を完全に消し去ることはできず、人間界には未だに人を食らう獣が闊歩している。また既に人々の魂に刻みつけられた呪いだけは、フィリアにもどうすることもできなかった。
フィリアによって魔界に封じられたオルフェはそこで新たにエルフやドワーフ、獣人といった亜人を生み出した。それがどんな世界であるかは、人々のあずかり知らぬことではあったが、未だに彼は人の世に混沌をもたらすために、虎視眈々と、結界の綻びを用いて、自らの配下を送り続けているという。
結界を維持しようとするフィリアと、それを破り今度こそ完全に人類を滅ぼそうとするオルフェの争いは未だに続けられており、世界に安寧が訪れるか、破滅が訪れるかは、その結果次第であると言われている。
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「これが今の世界の始まりなんだって。ジンはこの話どう思う?」
明るい声で15歳ほどの少女が、その膝に頭を乗せて自分に甘えてきた7歳ほどの男の子の黒髪を撫でながら話しかけた。しかしその男の子はいつの間にか眠ってしまっていた。遊び疲れていたのだろう。
「ふふっ、寝ちゃったか」
少女は自分の大切な弟であるジンを眺めながら優しく微笑み、指輪をはめた右手で頰を撫でながら、いつものように母親が歌っていた子守唄を口にする。だが突然彼女はゴホ、ゴホッと咳き込み始めた。
「ごめんね。お姉ちゃんを許してね」
これがジンの姉、ナギの最近の口癖であった。口を覆っていたその手には血がついていた。
しばらくしてジンが起きた。彼は眠たそうな目をこすりながら、
「姉ちゃん、晩御飯なに?」
と聞いてきた。ナギは呆れながら、満面の笑みを浮かべる。
「今日は奮発してうさぎのお肉を手に入れてきたよ。みんなと一緒にご飯ができるまで待っててね。腕によりをかけて美味しいのを準備してあげるから」
ジンはそれを聞いて大喜びした。いつも食べる肉はドブ臭いネズミの肉ばかりだった。つい先日にはネズミを食べていた、近くに住むおじさんが病気にかかり死んでしまったことも思い出した。それを考えるといったい姉がどのような手段で肉を手に入れたのか、少し気になりはしたが『まあ、どこかでもらったんだろう』と割り切った。スラムに暮らしているとはいえ、彼女の力を持ってすれば当たり前のことである。
彼らが住んでいるのはキール神聖王国という、フィリア教を国教に置く国のオリジンという都市の南端の一角にあるスラム街であった。キール神聖王国はアルケニア大陸の中央部に位置し、東側にはキール神聖王国と属国関係にあるリュカ王国、西側には複数の部族が集まってできているメザル共和国、北には広大な国土を有し、厳しい環境で屈強な軍隊をもったアルケニア王国、そして南には魔界との境界線である大結界が存在していた。
王国は温暖な気候と豊かな穀倉地帯を有していたが、数年前の天災により国力を落とし、その地を狙ってアルケニア帝国から度々の侵略を受けていた。その結果、治安が悪化したオリジンでは、スラムの住人が増加する傾向にあった。常に漂う異臭が鼻を麻痺させ、そこら中に病がはびこり、道の脇には屍体が転がり、それをネズミやら野犬やらがかじりついている。それが彼らの住処であった。
ジンはそんな中でも明るく、綺麗で、優しい自分の姉を誇りに思っていた。彼女は少々胸回りが寂しかった(というよりは絶壁である)が、綺麗なアッシュグレーの髪に、茶色の瞳、薄汚れてはいるがとても白い肌、そしてスラムにいるとは思えないほどのいい匂いをしていた。10人が見たら10人が振り返るような容姿の彼女を、しかし犯そうとする愚か者はこのスラムにはいなかった。なぜならナギは、法術の中でもごく少数の者しか扱うことができないとされる光法術の卓越した使い手だったからだ。たとえ致命傷であったとしても彼女の力であれば、生きている限り、病以外なら治癒できた。
そんな彼女は常に自分より年の低い子供達のために、自分の分の食料を分け与え、誰に対しても公平な態度を取り、スラムの人々に対して無償の治療を行っているのだ。国からも見放された人々にとっての聖女として誰からも慕われていた。手を出そうものなら周囲の人間に殺されるというのがスラムにおける暗黙の了解だった。ジンとしてはそれがとても誇らしくもあったが、自分の姉なのに他の人のために、構ってくれないことが多々あるので寂しくもあった。
姉の料理ができるまで、ジンは自分の住処である2階建ての廃墟に、一緒に住む友達のレイとザックを探しに行った。この住処はスラムの中でも一番綺麗で、1階は姉の治療院として解放され、また彼らの食堂も兼ねていた。ジンとナギ、そしてあと3人の子供が2階に住んでいた。レイはくすんだ金髪の少年である。年齢はジンの一つ上ではあるが、三人の中で一番身長が高く、落ち着いていて、常に微笑しながらいたずらの計画をよく考える、3人の中の参謀役だった。
一方でザックは12歳という最年長ながらも、身長はジンよりも少し高い程度である。しかし趣味が筋トレであるためか、その体はがっしりとしており、家ではいつも力仕事をして非常に頼りになるのだが、かなりのお調子者であった。そのため『こいつは多分俺より子供だよな』とジンは常々思っていた。二人はジンの親友で、彼にとってナギの次の次に大切な存在だった。
いつものように家から少し離れた空き地で、騎士になるための修行をしているのだろう。そう思い、ジンは家の外に出て、空き地に向かい歩を進めた。都に住むほとんどの男の子たちにとって、騎士は憧れの職業だった。法術と剣術を巧みに用い、魔物や魔獣から人々を守る彼らは、英雄として讃えられていた。
目的地に近づくと気合の入った声と、木の棒がぶつかる音、そして法術のぶつかり合う音が聞こえてきた。そっと様子を伺うと、案の定二人は向かい合って剣を模した木の棒で戦っていた。
『そういえば、危ないことしちゃダメだって、前に姉ちゃんに怒られたっけ。修行すれば姉ちゃんを守れるようになるのにどうしてダメなんだろう?』
そんなことをぼんやりと考えながら、レイとザックに声をかけようとしたところであと一人、女の子がいることに気がついた。もう一人の同居人、同い年のミシェルだ。煤けた赤い髪に、少し汚れてはいるが小麦色に日焼けした肌、鼻にはそばかすがあり、笑顔はヒマワリの花のようだ。多分このスラムでナギの次に可愛い子だとジンはいつも思っていた。
彼女こそ、彼にとってナギの次に大切な存在だった。彼は彼女の前では素直になれず、どうしてもカッコつけてしまうのだ。はにかんだ笑顔を向けられると、顔が熱くなり、よくそれをザックにからかわれた。ジンはその度に思いっきりすねを蹴り上げている。それなのに執拗に言ってくるザックはやはり頭が悪いのだろう。
ジンは急いで髪と服を整え、流れるようにその手をズボンのポケットに突っ込んだ。そして3人に声をかけた。
「よっ、みんな、俺も修行に混ぜてよ。っていうより、なんで声かけてくれなかったんだよ」
レイとザックは手を止めてジンを見て微笑みながらレイが、
「お前、ナギ姉さんに甘えて寝たじゃん」
と言うと、続いてザックはニンマリといやらしい顔を浮かべる。
「そうだよ羨ましい。むしろ代われよ。このシスコンが」
ザックはナギとも歳が近いためか、彼女に惚れているらしかった。だがジンはこいつに姉ちゃんは渡さないと密かに思っていた。彼は自分より1歳上のレイにも、5歳上のザックにも一度も(法術を抜きにすれば)喧嘩でも剣術でも負けたことがなかったからだ。
自分よりも弱い相手に大切な姉を任せることはできない。というよりも、よりにもよって、ミシェルの前で人のことをシスコンと言うとは何事だとジンは思う。彼はシスコンと呼ばれるのが心底嫌いなのだ。
「姉ちゃんはお前にはもったいない。そこらの女の子で満足しとけ」
そこからはいつものように売り言葉に買い言葉で、殴りあいに発展するのだが、今日はそうしようとした直前にミシェルがジト目をしながらからかうように声をかけてきた。
「ふふっ。ジンはナギお姉ちゃんが大好きだもんねー。いっつもお姉ちゃんにべったりしてるし。甘えん坊だもんね」
この援護射撃にはジンはたまらず、舌打ちをしながら顔を真っ赤にしながら心にもない悪口を言ってしまう。
「っ、そんなことねーし。お、お前馬鹿じゃないの。ちゃんと目えついてんのかよ。頭おかしいんじゃね!?」
「なによ、事実じゃない」
しかしミシェルはニヤニヤ笑いながら言い返してくる。カッとなったジンはつい彼女がいつも気にしていることを言ってしまう。
「ばーか! このそばかすおばけ!!」
ジンにはよくわからないが、ミシェルはシミひとつないナギの顔と、そばかすのある自分の顔とを比べてコンプレックスを抱いているようなのだ。それを指摘されるとひどく傷ついて、いつも泣いてしまう。案の定、ミシェルの目にみるみる涙が溜まっていき、顔を赤くしていく。
「ジンのばかー!!」
そう言って彼女は走り去ってしまった。そんな後ろ姿を見て、『やってしまった』という後悔を顔ににじませて渋い顔をしているジンの肩を組んで、ザックがいやらしい笑みを浮かべながら、話しかけてくる。
「ジンくん、ミシェルに『そばかす』は禁句だよ。帰ったらお前、ナギさんのスペシャル折檻コースだな」
ジンは憂鬱な表情を浮かべる。
「姉ちゃんと絡む絶好の機会だよ? 変わってあげようか?」
一応聞いてはみたが、当然のようにザックは断ってきた。レイはそんなジンたちを見ながら二人を諌める。
「今のはジンが悪いよ。女の子にはもっと優しくしないと。それと、ザックはジンをあんまりからかうなよ。ナギ姉さんの印象が悪くなるかもよ?」
ジンはもう修行する気分でもなくなり、さっさと切り上げて家に帰ることにした。そんなジンに付いて2人も帰ることにしたらしく、片付け始めた。
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