僕の先生は年齢不詳の悪い魔女
卯月
第1話 ファーストコンタクト
少年はその場にへたり込んで微動だに出来なかった。眼前では豚頭の巨漢、オークの死体が十体ばかり血だまりに転がっている。その内三体は少年自身が倒した死体だが、後の七体は理解不能な状況によって作り出された死体だった。
オークとは人間にとって不要な生き物だ。力は人より強いが頭が弱いが、困った事に食欲旺盛で繁殖力も強く、すぐに成長して群れを作っては家畜や、時には人を襲う。場合によっては小規模の村を襲って村人を全て腹の中に納めてしまう。その為、姿を見かけたら早急に殲滅しなければならないが、わざわざ軍隊を動かすほどではない。無論百も集まれば手に負えないので軍が出動するだろうが、小規模であれば領主の私兵か、冒険者ギルドに所属する冒険者が退治するのが辺境の常識だった。
だから冒険者になった少年は最初にオーク討伐の依頼を受けて、意気揚々と現地に向かった。ここから始まる胸躍らせる冒険者生活を夢見て―――――
「大丈夫かしら坊や。貴方、冒険者でしょうけど、仲間は居ないのかしら?」
オークの死体を背景に少年を見下ろす魔導師姿の妙齢の女性が声を掛ける。目元まで深々とフードを被り、全貌は窺い知れない。皺一つ無い肌と声の質から若いだろうが、その落ち着いた仕草はどこか時を経た重みを感じさせる。
「えっと、僕一人です。仲間はいません。その、貴女が助けてくれたんですか?」
「そんなところね。ただ、一人ね。ちょっと立ちなさい坊や」
黒いローブの女性は先端に極大のルビーを嵌め込み、魔法的装飾を随所に施した銀色の杖を向けて起立を促す。少年は命の危機に腰の抜けていた身体を叱咤して力を込めて起き上がる。
彼女は直立不動の身体を頭の天辺から足の爪先に至るまで注意深く観察してから特大の溜息を吐いた。そして呆れたように講釈を始める。
「その剣はミスリル銀を使ってるわね。それと軽鎧はオリハルコンかしら。どれも駆け出しのソロ冒険者が持っているような業物じゃない。仮に誰かからのお下がりでも、渡す時に間違ってもオークの集団に一人で突撃するような無謀な真似はしないように教え込む。 ――――貴方、実家から勝手に持ち出して家出でもしたんでしょ?」
少年はたった一度見ただけで来歴の半分を言い当ててしまった女性に畏怖を感じずにはいられない。彼女の言う通り、今装備している武具は実家から許可を得ずに勝手に持ち出した物ばかりだ。それを面と向かって指摘されると羞恥心と罪悪感で目をそむけてしまう。
「まったく、そういう考え無しの命知らずはどこにでもいるのよね。そのくせ勝手に死んで後始末は他人任せ。オークは馬鹿だけど力は人よりずっと強いのよ。その業物がオークの手に渡って、沢山の人を殺したらどう責任を取るつもりだったの?」
その叱責にぐうの音も出なかった。実際にオークと戦ったからこそ、彼女の言葉が全て正しいと分かる。
オークは力が強いが知能が低く、手先も不器用だ。だから人間や他の亜人のように道具を作る事は出来ない。しかし、作られた道具を使う事は出来た。そんな力の強いオークがミスリルの剣を使えば、並みの戦士ではとてもではないが歯が立たない。己の不注意で死ぬだけならそれっきりだけど、死んだ後に見知らぬ誰かに迷惑を掛けるのは申し訳なさで心が一杯になる。女性の言いたい事はそういう事だ。
「理解する頭はあるようね。それが分かったのなら馬鹿な夢なんて忘れて素直に家に帰りなさい。私はまだ仕事があるから」
女性はそう言って懐からナイフを取り出し、折り重なるように伏したオークの一体の股間に突き刺した。少年は反射的に内股になり、同じ部分を両手で隠してしまうが、彼女はお構いなしにそのままナイフを捻ってオークの性器を切り落とした。
それを何度も続けて全てのオークから性器を切り落とすと、皮袋に放り込んだ。両手とナイフが血塗れになったが、彼女は構わず何か呟くと、何も無い場所から水球を作り出して、血を洗い流した
「水魔法ウォータードロップ」
「詳しいわね。飲み水にも困らないから結構便利よ」
魔法としては初級だ。女性のような魔導師なら習得していてもおかしくない。ただし、大抵は敵にぶつけるように使う魔法で、彼女の言うように飲み水として使う人を少年は聞いた事が無い。
そもそも魔法は多大な精神力を消費するので、頻繁に使える魔導師は一流と言って差し支えない。それこそ駆け出しなら五回使えれば十分と言われている。だがらホイホイ気軽に使う人は少ないのに、女性は水筒代わりに使っている。それだけで実力の程が窺い知れる。
何より驚くべきは女性が行使する魔法だ。オーク七体を殺すのは一流の魔導師でも至難の業だ。魔法の殺傷力より、詠唱時間と隙の大きさから一、二体を倒している間に接近を許して攻撃を受ける魔導師は一定数居る。だから魔導師が戦う時は重装甲の戦士が盾役や囮役を引き受ける。
しかし彼女もまた少年同様に一人で戦っていた。それも極めて異質な魔法を使ってだ。その魔法の特性なら一対多数でもどうにかなるかもしれないが、まともな感性ならあのような魔法を使う気すら起きない。
流石に少年も命の恩人に失礼な事を言う気は無いので、何か別の話題を考えて話しかけた。
「あ、あの、魔導師さんは冒険者なんですか?」
「本業は研究者だけど一応籍は置いているわ。薬の材料を採集とかするから、冒険者ギルドに籍を置いていた方が密猟を疑われずに済むのよ」
「じゃあ、オークの体の一部も薬の材料?」
「ええ、そうよ。もっとも、坊やには不要な薬よ。世の中馬鹿な事を考える人間はどこにでもいるのよね。まあ、お金が良いから作る私も大概だけど」
どんな薬か気になったが、嘲笑する女性の態度から聞いただけで馬鹿にされそうな気がした少年は口を噤んだ。
そして女性は用が済んだとばかりにその場を離れようとする。少年はオークの死体をどうするのか尋ねたが、彼女はそのままで構わないと冷たく言い放つ。
「あそこに森があるでしょ。あそこは狼の縄張りよ。夜になれば腹を空かせた狼が喜んで食べてくれるわ」
「魔導師さん物知りですね。さすが学者の先生です」
「おだてたって何もあげないわよ。それと、坊やが世の中を知らなさ過ぎるだけ。私は世界の事なんて大して知らないわ。だから研究者なんてやってるのよ」
自嘲するように笑みを浮かべる。その時、不意に風が風向きを変えて、女性のフードをめくり上げて素顔を晒す。
女性は二十歳前後。艶のある黒髪に鳶色の瞳、化粧をしていなくとも血色の良い頬と赤い唇。そして最も目を引く左目の下にある泣き黒子が他者の目を惹き、厭世的で謎めいた魅惑が不思議な色気を生み出している。
視線に気付いた女性はフードを被り直して少年を嗜める。曰く、女の顔をまじまじと見るな。だそうだ。
咳払いをして、気を取りなおした女性は懐から何か白くて尖った物を地面に放り投げて、聞き取れないほど早い言葉を紡ぐ。すると白い物は見る見るうちに巨大化して骨だけの鳥に変化した。翼の部分に相当する骨を一杯に広げると、その両端は5メード(5メートル)に届く。
「え?え?なにこれ、骸骨兵?竜牙兵じゃないよね?いや、魔法生物の召喚でもないし」
「驚いたわ、結構詳しいじゃない。これは竜牙兵創造を応用した飛行生物の創造よ。移動には空が一番楽でしょ?ついでだから街まで乗せて行ってあげるわ」
「あ、うん。ありがとう魔導師さん」
「いつまでも魔導師は止めなさい。私はメルで良いわよ。勿論本名じゃないわ」
「じゃあ僕はレーベで良いですよ。当然本名じゃないけど」
「全く、年寄りをからかう物じゃないわよ。さあ、乗りなさい」
先に骨の鳥に乗った魔導師改めメルが差し出した手を取り、少年レーベは背骨に乗る。
骨の鳥はメルの言葉に従い、骨の翼を羽ばたかせ、空へと舞い上がった。
これが家出少年レーベと悪の魔女メルの最初の出会いだった。
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