明日へ踏み出す一歩ずつ
阪木洋一
現在の位置
夏という季節は、昼間に太陽が熱を放つことで生じる暑さを、夜にまで持ち越すことも珍しくない。
今夜も、それに当たる日で、既に空はとっぷりと夜闇に沈んでいるというのに、漂う熱気は、昼に感じた時そのままのものだ。
「……暑い」
ついつい呟きが漏れた。
歩くだけで体中から汗が流れ、既に数十分も歩いたとなると、シャツはもう汗塗れだ。少しべたべたして気持ち悪い。
今、俺は人気のない暗い山道を、一人歩いている。
周囲に灯りはない。雲一つない夜空の月明かりと星明かり、手に持っている懐中電灯が照らしている光のみが、今ある俺の視界だ。
でも、そんな限定された視界でも不安はない。
この山道はそれほど険しくないし、子供の頃から何度も歩いてるので、夜闇という状況であっても、俺にとっては慣れ親しんだ光景だから。
『――あいー↑こーそー↓がー、すー↓べー↑てー♪』
「……母さん、相変わらず歌下手だよなぁ」
あと、向こうの高台で催されている祭りのささやかな賑わいが聞こえてきて、さりとて静かで不気味な雰囲気というわけでもない。
その祭りは、俺の家族や親戚、遠縁にあたる人達までの身内を集めて、年に一回、親睦を深めるために代々開かれている行事だ。
現在、自由参加の公開カラオケの時間というのもあって、わりと聞き慣れた調子外れな歌が聞こえてきて、俺は苦笑しつつ、山道をなおも歩く。
何故、今、俺は身内の輪から外れ、この山道を歩いているのかというと。
先ほどから姿を見ない、その身内の一人を探しているからだ。
年長の方々から捜索を頼まれたというのもあるし、俺自身、そいつのことが心配でもあるし。
何より、そいつの行方に心当たりがある。
「……着いた」
山道に備え付けられている木製の階段を登り終え、視界が開ける。そこは山間にある、ちょっとした広場。
俺の知る限りでは――数えるほどの人にしか知られていない秘密の場所。
祭りの打ち上げ花火を見るには絶好の穴場であり、花火大会など開かれる日には、俺のごく親しい友人間だけでこの場に移動して、ゆったりと花火を観賞したりもする。
あちこちに微量の雑草が生えているものの、その他には何もなく、ただ中央に、大きな岩が存在しているのみ。表面が少しごつごつしているものの、即席のベンチにはもってこいで、五、六人ほど座れるくらいの大きさがある。
「やはりここに居たか」
そして。
その岩には、紺と白の浴衣姿の小柄な少女が座って、一人ぽつんと夜空を見上げていた。
首筋あたりで切りそろえられている短い栗色の髪、同色の瞳には小さな丸眼鏡、朗らかに見える顔立ちは……一瞬だけ、俺の記憶に存在する、あの人の面影と重なる。
「今年の祭りには、花火の時間は組み込まれていないぞ」
「? ……あ、
ただ、その面影も一瞬のことで。
だからこそ、二年下の後輩であり、親しい友達でもある少女――
「いきなり居なくなるな。みんなが心配していたぞ」
「あー、それはですね」
頬を掻きつつ、梨津は視線を中空にさまよわせてから。
直後、パチンと何かを閃いたかのように両手を叩く。
「ちょっと一人で黄昏れてみたくなりまして。一度はやってみたかったクールな仕草のアレですよ、アレ」
「それは、皆に心配をかけてまで、するほどのことなのか?」
「少女の夜の失踪は一種のミステリーじゃないですか、ミステリー! 神秘性ってのは乙女の魅力に必須事項なのですよ」
「その必須事項は、年に一度の祭の時間を俺がフイにする理由に足るものなのか?」
「そこは、神秘性をプラスさせたわたしの魅力に江笊先輩がメロメロになるってことで一つ、どうですかよ! ……って、先輩、なんで無言で帰ろうとしてるんですか! しかもその手に持ってるの、わたしの懐中電灯!? それがないと、わたし今夜家に帰れません!」
「もう帰ってくるな。実河の御老体には、『あなたのお孫さんはきちんと居ますよ。俺達の、心の中に……』とでも言い含めておく」
「あの、それって死んでません!? わたし死んでませんから!」
とまあ、間抜けなやりとりを交わしつつ、本気で帰ろうとする俺を梨津が必死に引き留めるという攻防が約三分ほど続いてから、やっと一息。
わりと馴染みの場所であるだけに、俺も梨津も明かりなどなくとも帰れるはずなのだが。
梨津は基本的に運動音痴であり、なおかつ眼鏡娘特有の視力の弱さもあるためか、懐中電灯は必須道具であった。
……まあ、それはそれとして。
「さて、俺に何か言うことはないか」
「好きです付き合ってください」
「断る」
「コンマ六秒!?」
「反応速度など問題ではない。他に言うことは?」
「出迎えご苦労」
「…………」
「あの、先輩。固めた拳に笑顔で熱い吐息を吹きかけるのやめてくださいお願いします」
「その拳がおまえの頭に振りおろされる前に、もう一度チャンスをやろう」
「う、その……ごめんなさい」
さすがにもう冗談を言える空気ではないと察したのか、気まずそうにしながらも梨津は頭を下げる。
やれやれ、と俺は一息。
先ほどまで少しといわず結構心配していただけに、なんだか損した気分だ。
「何故最初からそう言えないんだ」
「いや……その、いろいろ沈んでた時期もあったことですし、その分を取り返しにいきたくて、こういう他愛もない会話をですね」
弱々しく笑う梨津。
初めて出会った頃は、それこそ太陽のように笑っていたというのに、今は、先ほど感じたように小さな影を残している。
この間抜けなやり取りだって、一見そうは見えないだろうが、実はほとんど一杯一杯。
いわゆる、空元気、というやつだ。
おそらくは、あの時からずっと引きずっている影なのだろう。
それもこれも――
「どしたの、先輩?」
「む……」
と、聞こえてきた声に、俺は、ふと現実に呼び戻される。
正面には『?』と首を傾げるも……たった今、『はうぁっ!?』と大きく仰け反った我が後輩の姿。
「もしかして先輩、わたしの魅力に、本当にメロメロに!?」
「……一応、その根拠を聞いておこうか」
「だって、わたしのことじっと見てたじゃないですか」
「それは否定できないな。しょうがない、おまえの言うとおりということにしておいてやろうか。うわぁぼくリッちゃんの魅力にめろんめろん~……と、これでいいか?」
「なんかすごいムカつく!? なんですか、今わたしの中で渦巻くこの言いようのないこの気持ちはっ!?」
「まさしく愛だ」
「ものすごく歪んでる!?」
「さて、帰るか」
「しかもスルーで物事が運んでるっ!? って、待ってください先輩、懐中電灯! わたしの懐中電灯ーっ!?」
投げやりな気分で後輩を置いて帰ろうとする俺を、またしても梨津が引き留めるという攻防がさらに三分続いて、また一息。
「いちいち締まらない空気にしたがるよな、おまえ」
「いや、今のは江笊先輩にも原因があるような……」
「なんのことだ」
「それ天然で言ってるなら、先輩も、お爺様のような変人になれる素質が十分にありますよ」
不名誉な素質だった。
俺が半眼になるにも構わず、梨津は長く息を吐いてから。
フッと、先ほどから何度も見せている影のある笑顔を見せた。
「まあ、さっき先輩が何を考えてたかは、おおよそ察しが付いてるんですけどね」
「当てて見ろ」
「お姉ちゃんのことでしょ?」
「…………」
ご名答。
まあ、こいつだったらすぐにわかることか。
それに……やっぱり姉妹だからなのだろう。こいつのことを見てると、どうしてもあの人のことを思いだしてしまう。
名前は、
尊敬すべき先輩だった人。
太陽のように明るく、風のように気ままだった人。
誰からも親しまれていた人。
俺の、初恋の人。
「先輩、お姉ちゃんにゾッコンでしたもんねー」
「うるさい」
「でもお姉ちゃんは昔っからモテモテでしたから、先輩がアタックしても、おそらく実らなかったかもですなー」
「……………………」
「あの、先輩、なにもそんなにもダメージ受けなくても」
「いや……こればかりは、如何ともしがたい事実だから仕方がない」
ちなみに、当時あの人には既に想い人が居たことから、どう考えてもあの人の気持ちが俺に傾くってことはあり得ないことだし。
何より。
――あの人はもう、この世には居ない。
だから、未来永劫、この気持ちが成就されることはおろか、あの人に気持ちを伝える機会すらも、俺には存在していない。
そういう事実を思い返す度に、俺は……。
「先輩、どうしちゃいましたか。辛気くさい顔しちゃってますよ」
「今のおまえほどでもない」
「う……」
そして、あの人をとても慕っていた者の一人であるこいつも、また。
実際、あの人を一番に慕っていたのはこいつだ。
姉妹という最も近しい位置にいたし、あの人もこいつのことをとても可愛がっていた。
それくらい、仲が良かったということか。
「……そりゃ、辛くないはずがないですよ」
「そうだ。そして風吹先輩が亡くなった直後のおまえときたら、目も当てられない状態だった」
「それは……まあ、本当にごめんなさい」
梨津は苦笑を返す。
今こうやってこいつが笑えるほどになるまで、実際とても大変だった。
あの人が亡くなったことを知らされた時は、文字通り半狂乱になったし。
それから一週間ほどは茫然自失になっていたし。
その自失が治ったかと思ったら、次は引きこもりを始めたし。
無理に説得しようと歩み寄ろうとする者は、殴るわ蹴るわ噛みつくわ引っ掻くわで。
先述の通りの運動音痴で、腕っ節が弱かったというのに、どこからそんな力が出てきたのかと思わされるほどの大荒れ状態だったのだ。
「それを無理矢理にでも引っ張りだしたのが、先輩だったんですよねー……」
「実際あの時の俺は、周りと同じく十五割ほど諦めていたんだがな」
「先輩、五割ほど上限を突き破ってます」
「それくらい絶望的だったということだ」
本当にどうしようもないと思っていたのだ、その時は。
では何故、俺はこいつのことを無理矢理にでも引っ張りあげるに至ったのか。
初恋の人の妹だから?
違う。
友達という義理があったから?
違う。
荒んだこいつを見たくなかったから?
それも違う。
『どうでもいい』と片付けられる理由ではないのだが、当てはまりもしない。
もっと、シンプルな理由だ。
少し、思い返してみる。
実河の御老体や他の親戚の年長の方々に頼まれ、彼女の説得に行った日のこと。
あの人の通夜や葬式の時ですら面を会わせられず、結構な時間が経った後での、再会となった日のこと――
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