こころのわすれもの

月詠 キザシ

あの日のさくらの色は…

第1話


「クジラが空を泳いでいるみたい…」

暖かな春の風を感じながら、一条さくらは空を見上げ、いつもの道を歩いていた。

青く澄んだ空に大きな白い雲が浮かんでいる。

風に吹かれてゆったりと動く大きな雲は、確かにクジラが泳いでいるかのように見える。

そんな光景をぼーっと見ていると、目の前を桜の花びらが横切った。

「あ…そっか…もうそんな季節なんだね…」

独り言のように呟いた言葉は、誰にも届くことなく風と共に消える。

空に舞った桜のゆくえを見守るかのように目で追うと…。

「…………………………え?」

桜が着地したのはいつも通り、何の変哲もない道…ではなかった。

穴が、空いている。

いつもは無いはずの丸い穴が、ぽっかりと道の真ん中で口を開けている。

近くに行って中の様子を見てみるが真っ暗で何も見えない。

ただただ、そこには暗い空間だけが広がっていた。

「あ、でもこれ………もしかして、マンホール?」

確かにその穴の大きさはマンホールのそれと同じくらいだった。

しかし、マンホールの蓋が無いことなんてまずないし、五百歩くらい譲ってあったとしても、まだ真っ昼間で外の明かりがなんの役割も果たさない程中が全く見えないというのは有り得ないだろう。

その穴の淵にしゃがみこんで目を凝らして中を見てみるが、やはり何も見えない。

と、その時、突然の突風がさくらの背中を押した。

「うわぁっ!?」

さくらはバランスを崩してそのまま頭から吸い込まれるようにその暗い穴の中に落ちていった。


目を瞑っていたせいでどうなったのか全然分からなかったが落ちた衝撃も頭を打った感覚も痛みも何も無く、恐る恐る目を開けると目の前には一枚の扉があるだけだった。

その扉の横には、「佐藤」という文字の入った表札がついている。

随分とありふれた名前だ。

さくらは周りを見渡したがその扉と表札だけが真っ暗な空間の中にぽつんとあるだけでその他のものは何も見えない。

闇、闇、闇。

右も左も上も下も、扉と表札以外は黒で塗りつぶされているかの如く真っ暗だった。

「…………………」

もうこうなったら目の前の扉を開けるしかないだろう。

さくらは覚悟を決めた。

インターホンはついてなさそうなので、一応扉を軽くノックして中の様子を伺う。

コンコン。

無反応。

もう一度ノックしてからドアノブに手をかける。

すると丁度同じタイミングでドアノブが勝手に回り、扉が開いた。

中開きになっていたらしく、さくらは少しよろけて数歩前に進んだ。

ぽすん、と誰かにぶつかる。

「あ、あの、すみませ…………」

咄嗟に謝罪しようと顔を挙げたさくらの動きがピタリと止まった。

出迎えたのは二メートル程の大きなキツネだった。

二メートルあって、着物を着ているという点を除いたらただの普通のキツネ…。

「…いらっしゃい。」

前言撤回しよう。

喋るキツネなんて普通のキツネではない。

「あ、あ、あああの、えっと…その…」

余りにも異常な光景と出来事にさくらが何も喋れないでいると、キツネはさくらの腕を取って扉の中に入れた。

中には一面畳の部屋が広がっていた。

さくらの入ってきた扉の真向かいには大きなソファがこちらを向いて鎮座している。

両隣の壁にはそれぞれに一枚づつ違う装飾の施された扉がついていた。

ソファの横にサイドテーブルらしきものがあるがそれら以外の家具は無い。

とてもシンプルな部屋だ。

さくらが部屋の中をキョロキョロと見回していると、突然さくらから見て右の扉が勢いよく開いた。

転がるようにして出てきたのは、アルマジロだった。

しかもでかい。

一メートルはあるだろうか。

キツネの前まで転がってきてばっと立ち上がるとアルマジロは物凄い勢いで喋り始めた。

「お師匠さんっ!あんたもうなんべん言うたら分かるんや!!!靴下洗濯機に入れる時はちゃんと表に返して入れろて言うてますやろ!!」

裏返しの靴下をぴらぴらさせながらキツネに向かって大阪弁でまくし立てるその姿はまるで人間そのものだった。

そこまで言ってアルマジロは、ぽかんと口を開けたまま固まっているさくらに気がついたらしく、ハッとして片手に持っていた靴下を背中に隠した。

「おやおやおやおや〜、お客さん来とるならそう言って下さいよ!もう!恥かいてしもうたやん!」

そう言ってキツネのお腹をぽふんと一発叩いた。

「いや〜ほんますんませんねぇ〜全く、うちのお師匠さまときたらだらしがなくて。あっ!でも腕は一級品ですからね!どんと任せてください!で、どんなご要件でしょうか?」

大阪のおばちゃんの如く喋りまくるアルマジロを手で制して、キツネはさくらの方を向いて言った。

「…キミは何が何だか分からずにここに来てしまったみたいだね。それに見た所、以前は普通の人間のお嬢さんだったみたいだ。」

「えぇっ!?人間さまやったんですか!!こりゃ随分と珍しいお客様で…」

アルマジロは大袈裟に驚いてさくらのことを興味深そうに見つめている。

「あの…私………」

さくらは口を開いたが上手く言葉が出てこない。

そんなさくらを安心させるかのようにキツネはさくらの背中に手を回した。

「まぁ、立ち話もなんだし、お茶でも淹れてゆっくり話そうか。」



アルマジロが出てきた扉の向かい、つまりさくらから見て左の扉の部屋に通された。

先程の部屋と大きさはさ程変わらないが、真ん中に丸い机があり、向かい合うようにアンティーク調の椅子が二つ、並べられている。

床も先程は一面畳だったが、ここは椅子と机の部分だけ濃い茶色のフローリングのようになっていた。

ロの字型に畳が敷いてある、そんな具合だ。

しかし、そんな事よりもさくらが一番目を引かれたものがあった。

「………何これ」

部屋に入ってすぐ左の壁にくっつくようにして置いてある大きな水槽。

岩の様な物と水とが半分半分位で入っている。

そこに見たことのない大きくて黒い、少しグロテスクな見た目の生き物がいた。

顔を半分水から出してこちらをじっと見つめている。

その生き物と見つめあっていると、お茶を持ってきたアルマジロが、ああ!と言って説明してくれた。

「この子はオオサンショウウオっちゅう生き物でな、サンちゃんって呼んだって!かわええやろ〜」

そう言うとアルマジロは机にお茶を置き、水槽の前でそのオオサンショウウオとやらの生き物に話しかけ始めた。

「サンちゃ〜ん!新しいお客さんやで〜御挨拶してや〜」

アルマジロがそう言うとオオサンショウウオは水から先程よりも顔を出して「ヒョッ」っと鳴いた。

「おお〜お利口さんやな〜、うちのサンちゃんはちゃぁんと御挨拶出来るんやもんな〜」

「ヒョッ」

「でもこれからお師匠さんとのお話が始まるからすこ〜し静かにしとかなアカンよ〜?」

「ヒョ…」

謎のやり取りに目を取られていると、もう既に椅子に腰掛けたキツネがお茶を飲む音が耳に入る。

キツネに座るように促され、さくらは素直に従う。

「えっと…私…その…」

「分かっているよ。」

キツネは湯呑みを机に置いて言った。

「お嬢さんは、普通の人間の世界の者じゃないね。」

キツネの鋭く、しかしとても慈愛の満ちた綺麗な瞳に見つめられ、さくらもキツネから目が離せない。

「お嬢さんがいつ人間界の理から外れてしまったのかは分からないけれど、ここまで一人きりで、辛かっただろう?」

自然に涙が溢れてくる。

嗚咽もない。

ただただ流れ落ちる涙を、さくらは止めることが出来ないでいた。

その様子を見ていたアルマジロがそっと扉から出ていくと、キツネはふぅ、と一息ついて話を始めた。

「ここはね、人ならざる者の願いや、望みを叶える店なんだよ。お嬢さんは以前は人間だったけれど、今は人間ではない。つまり死んだ、ということだね。だからこの店に入ることが出来たんだ。先程アルマジロが言ったように、『元人間』のお客様というのは珍しいけれどね。」

さくらは手で涙を拭って口を開いた。

「私は、何故自分が成仏できないのかを分かっているつもりです。」

キツネは、スっと目を細めてさくらの話を聞く体制に入る。

「きっと、いえ、ほぼ間違いなくこれだろうなぁっていう理由があります。私が死んでからもう五年も経ってしまったけれど、まだ間に合うのなら…あの子に…『もも』に、ちゃんと謝りたい。」

さくらは目を閉じ呼吸を整えると、五年前、まださくらが生きていた頃の事を語り始めた。

さくらの話す声だけが、部屋の中で響いていた。

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