七 激流


 その日、男は久しぶりに帰国し、家へ帰った。

 妻と、二人で食卓を囲む。土産話には困らない。

 妻にはさみしい思いをさせている、と男は思った。子供もいないのだ。

 もう何年かしたら、浮き島の仕事も下の者に譲っていいのかもしれない。


 妻と二人で、どこか静かなところに移って暮らすのだ。それなら、自分が作った浮き島がいい。


 ベッドに潜り込み、イヤホンを耳にはめた。それは携帯電話につながっている。いつも、夜でも音が出るようにしておく。

 隣のベッドでは、妻が眠っていた。

 心地良い柔らかさに包まれ、男は眠りに落ちた。




 聞き慣れた電子音で目を覚ます。

 起きながら、男は電話に出た。

 急いで支度をして、車に飛び乗った。妻はわざわざ起きて、家の外まで出て、見送ってくれた。

 西にある海岸の穴が、急に大きくなった。しかも流れの勢いは、施設を押し流すほどだという。

 なぜだ。


 三十年以上、何の変化もなかったものが、今になって。

 男はまっすぐに仕事場へ向かった。現場には、直属の部下が何人もいる。既に警察も消防も動いている。ここからでは、飛行機に乗っても三時間はかかる。


 何の変哲もないビルの、二階。会議室の扉を開ける。十人。スクリーンには、海岸の様子が映し出されていた。男は何も言わず、机に置かれていたイヤホンマイクを頭につけた。


「音声は?」

「つながっています」

 声が返ってきた。

「どうなっているんだ」


「ポンプも施設も流れに巻き込まれて、流されました。穴が大きくなったと報告しましたが、違いました。そばに、巨大な穴が」


 カメラが、切り替わる。

「直径は、約三十メートル。一つだけです」

「嘘だろ」


 思わず、男は呟いた。色。流れが見える。まるで、巨大な渦だ。

 幸いなことに、沖に向かって噴き出しているように見える。


 男は、音が鳴っていることに気がついた。現場の音声。


 地がふるえるような低い音だ。海面が映る。カメラは通常の映像に戻った。まだ、少し暗い。そこらの海が透明になっていた。全てが超安定物質。わずかに、海水が流れに巻き込まれ、浮いたように見える。


「穴は、動いていないのか」

 懸念は、勢いによる穴の後退。

「問題ありません」

 やはり、ただの穴なのだ。穴の向こうは、外。この空間の外だ。

「拡大は」


「それも、いまのところは」

 夜が明け始めた。


 近隣の住民は、ほとんど避難できた。被害は施設の倒壊だけだ。

 海は、人工的に作った湾のようになっている。施設の倒壊や、元々あった穴の拡大に備えた策だった。湾は、岸から沖まで、十キロメートル。沖の門は閉めてある。しかし、生じた超安定物質の波は、既に門を乗り越えてしまっている。


 会議室からは出ない。電話やメールで連絡を取る。食料の手配、工事の依頼。近隣の地域や他国への連絡。調査チームの人選と派遣。さらに、数十の組織が自分たちの指示で動くのだ。既に、表の人間の許可は得ている。あとはやるだけだ。


 イヤホンからは、低い音が聞こえ続けていた。

 完全に夜が明けた。日の光で、光景は鮮明になった。

 おぞましいと思った。背中に、いきなり冷たい汗を噴いた。電話をしている部下たちも、食い入るようにスクリーンを見ていた。


 穴の規模。

 よく、わかっていなかった。


 横だけでなく、縦にも。

「これが、直径三十メートルか」

 見やすいように、わずかに赤みをつけられた超安定物質の激流。見ているだけで、飲み込まれそうだ。


 海洋の汚染は、もはや避けられない。近隣の海だけで済むのか。この勢いでは、相当沖まで囲わなくては隔離できない。


「時間と金をかければ、隔離できないことはない」

 男は、つぶやいた。だが、不可能という言葉が頭をよぎる。

「百本でも、二百本でも使って、ポンプで吸い上げろ」


 男はイヤホンマイクを、机に叩きつけた。画面を見ていた部下たちが、弾かれたように驚き、再び仕事にとりかかる。

 今は、それしかできない。少しずつやっていくしかない。二度、男は頭を強く振った。


 俺たちが、やるしかない。

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