【1-6話】

「悪を、憎む?」

「あなたは毎日こう思いながら過ごしているでしょう? 『どうしてこの程度の規則を守れない?』『人の迷惑をちゃんと考えろ』『うぜぇなこのルール違反者が』『秩序を乱すサル以下の下等種族なんていない方がマシだ』……と」


 例を挙げる度、彼女の言葉は過激になっていく。僕を代弁して、とのことだ。


「『悪など滅びてしまえ』。そう願うあなたの正義に、私の正義が共鳴したのですよ」

「確かに不満ばかり重ねている。自分と同じ人間なのに決まりごとを守れない人ばかりで、本当に嫌になる」

「でしょう? だから、あなたにこの話を提案したいのです」


 悪魔の誘いを行う天使に対して、僕は「けどな、」と否定で続けた。


「だからって本当に人を滅ぼしたり世界を壊したりなんか、するわけないだろ。自覚的に率先して違反する奴にイラッとくるのは否定しないけど、僕も同じ人間だ。不覚にも規則を違反してしまうことだってある。いちいちそれで殺人衝動に駆られてなんていたら、キリがない。それこそ社会は終わりだ」

「いいじゃないですか。終わらせれば」

「違う。ひとりひとりの意識を改善させることの方が大事だ。長い時間はかかるかもしれないけど、今までそうやって歩んできたからこそ、今の平和が実現している」


「だから僕は、無作為に人を憎んでは滅ぼそうなんて思わない」


 モラルのない人間が多いのは事実だが、過ちを繰り返してきたからこそ得られるものは多い。自身が間違い、その間違いに気づいたり痛い目を見たからこそ、人には優しくなれる。

 そうやって人と人が正の影響を与え合うことの方が、よっぽどこの世を変えると僕は思う。


「いいえ。あなたが持つ悪を憎む心は本物ですよ」

「しつこい。大体、さっき君は天使の権限と力を失ったと言ったよな? 仮に君が天使で、それこそ世界を変えてしまえるほどの力を持っていたのだとしても、今は使えないということだろう?」

「えぇ。その通りです。私には、少量の神通力じんつうりきしか残っていません」

「だったら、世界を滅ぼすなんていう馬鹿げたことはもうできないわけだ。残念だったな、妄想天使。早く家に帰って明日の予習でもするんだな」


 目の前の自称天使を論破し、冷静に戻る。気持ちを切り替え、この痛い女とさっさとおさらばしようと僕は再び彼女に背を向けた。無駄なことに時間を取られてしまった。



「『怪奇事件』のことは、ご存じですよね?」



 今度はなんだ……。まだ何かあるのか?

 いい加減イライラを募らせてきた僕だが、再び立ち止まって受け答える。


「知っているけど、それがどうかしたのか?」

「では、あの超常的な現象がどういう法則性を持って起こっているかも知っていることと思います。ニュースや街中などで、散々言われていますものねぇ?」


 法則性? あれのことか?

 すなわち、「規則を守らなかった者、モラルを持たない者に対して起こる」ということ。そのことを言っているのか?


「被害者は例外なく、『ルール違反者』。彼らは自然的とも人為的とも言えない謎の現象に巻き込まれています。一体、を使っているのでしょうか?」


 そこまで言われて、僕はハッと気づいた。

 まさかこいつ……!


「そうか……! お前があの怪奇事件の首謀者だったのか。道理でおかしいと思ったよ。突然起こる不可解な現象に、たった一つの理解不能な共通点。まるで天罰だ。人為的事件にしてはあまりにも不自然だし、やっぱり人智を超えた力が働いていたってことか」


 悔しいけど、やはりこの女は本当に人間ではないのだろう。迷宮入り必至の怪奇事件のことを持ち出されては、彼女が天使だということも信じざるを得まい。


「お前のやっていることは正義でも正当な裁きでも何でもない。ただの自己欲求を満たすための人殺しだ。何が神の裁きだ。ふざけるな。人の命ってのはそんなに軽いものじゃないんだよ!」


 天使? 超常的存在? やっていることはただの殺人じゃないか!

 自分の力を振りかざして、弱いものを蹂躙する。人間の存在を軽んじてやがる!

 こいつは僕たちにとって敵以外の何者でもない。聖なる存在でも何でもない!


「決して人の存在を軽く見ているわけではありませんよ。私たち天使にとって人間は、導く対象であるんですから」

「嘘をつけ。これまでの三年間でどれだけの犠牲者が出ていると思っている? 全部お前の仕業じゃないか」

「……そうですね。一連の怪奇事件に私が関わっているというのは、間違っていませんので認めましょう」


 彼女は依然として変わらない余裕を見せる。超常的存在の余裕か。どこまでも人間を馬鹿にした女だ。


「……ですが、私が直接的に怪奇事件を引き起こしていたわけではないんですよ?」

「は?」


 何言ってやがるこいつ。さっき自分で自分の犯行を認めたばかりだろう。


「こんな奇妙な現象、お前みたいな超常的存在以外にどうやって起こせるって言うんだ」

「えぇ。ですから、私が『関わっている』というのは間違っていないんですよ」

「言っていることが矛盾してるぞ」

「先程言いましたよ? 私はもう、天使の権限もないし、天使の力もほぼないに等しいと」


 ……そういえば。

 この女の言う天使の権限やら力やらがどれくらいの規模を持つものなのかは全然検討がつかないが、あえてこう言うってことは、本当にもう、大したことはできないのだろう。


「他に実行犯がいるってことか」

「はい。実際に事件を引き起こしている人物は私ではありません」


 他にも関わっている奴がいるのか。そいつもこの女みたいな天使か?

 けど、天使は原則、人間に干渉できない……って言ってたはずだ。だとしたら……人間?


 プリファはクスクスと口に手を当てて、楽しそうに話を続ける。


「最近、怪奇事件がここT市で起きるようになってきたでしょう?」


 半年前くらいまでは、ここまでの頻発はなかったはずだ。


「あなたも最近、怪奇事件の現場に居合わせた。そうでしょう? 灰川真音はいかわまおんくん?」


 あぁ。嫌なことに二回もな。胸糞悪いったらない。


「真音くん。私がどうしてわざわざ、あなたの前に現れたと思いますか? ねぇ、灰川真音くん?」


 急に寒気がした。


 彼女の話し方は会った時から大して変わっていない。人を馬鹿にしているような、何がそんなに面白いのか、無駄に綺麗なその顔でクスクス笑って、終始冷静さを保っている。


 彼女の態度が変わったわけではない。なのに、なぜ急にこんな悪寒が走る?


 汗もかいている。心臓も早く打っている。さっきまでプリファに感じていた怒りとは別の感情によって、僕の心は支配されている。


「教えてあげましょう、真音くん。この怪奇事件を引き起こしていた真の実行犯」


 怯えている……? 何で?

 僕は、こいつの今から言う言葉を聞きたくないと思っている。


 どうしてこんなに、不安が渦巻くんだ?


「それはね、真音くん……」


 なんだ……? 何を言うつもりなんだ、この女は?


 息が荒くなりそうな程ドクドクと鼓動を打つ心臓の音が激しさを増す。目を見開いて彼女を見つめる僕に対してプリファは、それまでと変わらない、余裕のある笑顔を携えながら告げたのだった。




「あなたですよ。灰川真音くん」




 月が雲に隠れ、月明かりが遮られる。

 反射していた光の量が少なくなり、辺りの色合いを暗く染めた。

 河川敷の草花。流れる川。僕らが立つアスファルト。


 目の前に立つ一人の天使。


 芸術のような薄紫色のグラデーションで彩られた、白銀の髪の少女。その背中から生えた大きくて立派な白い翼も影に覆われていく。


 僕にはそれが……その白い天使のような翼の色自体が……


 黒く塗りつぶされていくように見えた。

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