【1-3話】
最寄りの駅に着く頃には、すでに時刻は五時を超えていた。秋の日の入りは早い。辺りを街灯の光が照らしていた。
「早く買い物して帰るか」
材料もちょうど切れていたし。野菜と牛乳と肉。調味料はまだ大丈夫だったはず。
そうだ。明日の朝の卵が一つしかない。これも買っていかないと。
駅の近くにあるスーパーに向かって歩く。家の近くにコンビニはあるけど、出来るだけ安く仕入れるにはスーパーが一番だ。経済的に余裕があるわけでもない。節約が欠かせない。
スーパーの前にある交差点で赤信号が青に変わるのを待つ。駅前ではあるが、ここより大きな主要道路が近くにあるため、車通りは多くない。
だから必ずいる。赤でもお構いなしに渡る人が、必ずいる。
そう思っていると、案の定、三十代の女性がスマホを片手に通話しながら、平気な顔して道路を渡り始めた。
「(……小さい子供だって見ているのに)」
歩行者の信号が赤だからと言っても、車通りの多くない道だ。轢かれることはない。今だって、車のライトはかなり遠くに見えるだけ。のんびり歩いても危険はない。
だが、違反していい理由にはならないだろ。
「(あんたの違反が一人、また一人と違反者を増やしていくんだ。そして、それが当然のようになっていく……)」
今、信号の前で立ち止まっている母親と一緒にいる五歳くらいの子供。不本意なことにこの子供も、この女の行っている違反行為を人生の経験値として蓄えるんだ。反面教師、悪い例と認識して育ってくれればいいが、これが「みんなやっている普通のこと」と学習したらどうする。将来的にモラルの欠如した人が増えるだけだ。
こうして、人間にモラルが不足していくんだ!
それでもこんな街中で、知らない相手にいきなり指摘することもできない。風紀委員長という肩書きを持つ学校の中ならいざ知らず、この女性は知らない人で、周りから見てもこの信号無視は「取るに足りない程度のこと」だからだ。
そうしてまた悪者扱いされるのは、正しいことを行った方なんだ……。
「(ルール違反者ばかりの理不尽な社会だな……本当に)」
こうして小さな一歩だけど、人は地道にモラルを失っていく。社会はダメになっていく。
僕はいつものように、この世の不条理を心の中で嘆く。
「ちょっと何よ! これ!」
突然、道路の真ん中で女性が立ち止まり、一人、騒ぎ始めた。僕を含む信号待ちをしていた者たちはそれを不思議そうに見ている。
「どういうことなの!? 足が動かないんだけど!」
信号の前にいる人たちもその女性の不可思議な言動に、次第にざわつき始める。
足が動かない? 一体何を……。
「……まさか!」
ある考えが頭に浮かぶ。一見あり得ない現象だけど、これが、「怪奇事件」だとしたら……!
クラクションの大きな音が右手から鳴り響いた。一台の乗用車がスピードを緩める様子もなく走ってくる。
「うわあああああああああああああああああああああ! 止まらない止まらない止まらない止まらない止まらないーーーーーーーーー!! どいてくれーーーーーーーーーーーーーー!!」
運転手の悲痛な叫び声が聞こえた。
この女性だけじゃない!? 運転手にも怪奇現象が起きている! ブレーキもハンドル操作も効いていない!
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
女性は車の方向を向いて悲鳴を上げる。女性の様子がおかしいことに気づいて、信号待ちをしていた人の中には、女性を救おうと動き出す者もいた。
……が、時は遅かった。
車はスピードを緩めることなく真っ直ぐに進み、女性を跳ね飛ばした。車の一部には赤い液体が飛び散り、女性は十メートル先に倒れた。
一瞬の静寂の後、辺りは絶叫に包まれた。子供は怖さのあまり泣きじゃくり、大人の中にもパニックを起こしている人がいる。僕自身も気が気でなかった。
女性の頭からはここからでも見えるくらい大量に血が出ており、手や脚も不自然に曲がっている。まるで、生気がない人形のようにその場に倒れている。
――これでまた一人。
「……?」
不気味な声が聞こえた気がした。遠くから呼びかけるような、あるいは近くから囁くような。奇妙な声。声とも言えない声。
辺りをキョロキョロ見回したが、怪しい人物はどこにもいない。僕の気のせいか? それとも、やっぱりどこかにこの事件を起こした犯人が……?
結局答えは出ないまま、現場には救急車と警察がやってきた。その場にいた者に対して軽い事情聴取を行い、あまり時間を取られずに解放となった。
「……まさか、この一ヶ月で二回も怪奇事件の現場に居合わせるなんて」
なんて運の悪い。また死体を見てしまった。思い出すだけでも吐き気がする。
今回のこの事件、間違いなく怪奇事件だよな。被害者は信号無視という、規則を破った行いをしていたし、何よりあの怪現象……。道の途中で金縛りに遭うなんて、普通じゃ考えられない。ましてや、運転手も同様だなんて。
「やっぱり怪奇事件は、霊的な力が働いているっていうのか?」
神様や悪霊だなんて信じるタチじゃないけど、二回も現場に居合わせてしまったらそう思っても仕方ない。
それに、最後に聞こえたあの声……。
――これでまた一人。
「何が……『また一人』なんだ?」
いや、聞き違いだったのかもしれないな。あれだけパニックの起きた現場だったんだ。誰かの声を聞き違えてもおかしくない。はっきりと聞こえたわけでもないし、気にしない方がいいか。
駅から家までの帰途を歩く。そういえば、あんなことがあったせいで買い物を忘れていた。しまったな。妹に怒られる。
仕方ないから、後でコンビニで買うか。
「ちょっとよろしいでしょうか?」
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