Aの述懐

伊奈

Aの述懐

 兄が死んだのは、僕が小学三年生の夏休みの時だった。その日の昼間、僕は庭で遊んでいた。日差しが強くて首の後ろがヒリヒリするのに、僕は地面を覗き込んで這いまわるアリを潰すことに集中していた。

 干からびた土の上で、黒い点が連なってどこかへ流れている。そこに僕は何度も足を踏み下ろす。突然の災害に慌てるアリ達は、靴底の模様にならされた地面をもがき逃げ惑う。このくらいでアリは死なないみたいだ。だから今度は親指で一匹ずつ、確実に潰す。指先には土の感触しかしない。だけど指を上げてみれば、そこには確実にアリの死骸が残っていた。

 その時だった。勝手口から母が僕を呼んだ。手のひらを軽くはたいてから家の中に戻ると、母は真っ青な顔で兄が交通事故に遭ったと告げた。即死だった。

 それから我が家は大変だった。母は始終泣きっぱなしだし、陽気な父も妙に不愛想で怖くなった。告別式までの三日間は常に知らない人たちが家を出入りしていた。だけど僕はその間、子ども部屋で祖母と一緒に読書や宿題をしていた。今にして思えば、葬儀のゴタゴタにあまり触れさせない配慮だったのだろう。

 そのせいで僕は火葬の直前まで兄の棺を見なかった。あそこにお兄ちゃんが入っているのよ、と母は泣きながら白い棺を指さしていた。中身は見せてもらえなかった。だから僕は本当に兄が入っているのか疑問だった。その時なぜか思い出したのが、前にテレビで見たマジックだった。マジシャンが大きな箱に入り、そこに剣が何本も突き立てられる。しかし箱を開けてみればそこには誰もおらず、マジシャンは観客の後ろから急に現れて驚かす。そんなやつだ。

 やがて葬式が終わり、棺は霊柩車に運び込まれた。火葬場についてから炉に入るまで、僕は決して棺から目を離さなかった。炉に火が入れられると、僕の周りの人はみんなすすり泣いていた。僕はそっと後ろを振り向いて、様子をうかがっていた。だけどついに、兄は現れなかった。



 兄が死んだのは十七歳で、当時の僕とは八つも離れていた。そのせいか兄の印象は僕と同じ子どもと言うより、小さな大人と言った感じだった。

 兄は僕にいつも優しく、味方になってくれた。きっと、歳の離れた弟だったからだろう。おやつは多く分けてくれるし、宿題も教えてくれた。だから記憶の中の僕は、兄によく付きまとっていた。ひょっとしたら両親より、同じ血の流れる兄弟の方を慕っていたのかもしれない。今となっては、うまく思い出すことはできないのだけど。

 そして今年の七月、僕は兄と同じ十七歳を迎える。だから僕は往来を歩く時、車がこちらに来ないか心配してしまう。



 高校で学べるのは、僕が好きな数学を含む五教科七科目、そして世界の縮図だと思う。

 昼休みの時間は、それがはっきりわかると思う。女子は群れてどこぞの有名人の話。廊下では金髪の不良どもがたむろしている。不良のリーダーである野間という奴が、ヤニ臭い息と一緒に卑猥な言葉を吐いていた。おそらく、学校中で一番嫌われている奴だろう。こうやって一箇所に集められた様々な人々を観察することは勉強になる。常々僕はそう思っている。

 一方僕は、教室の隅で友人と一緒にゲーム実況動画を見ていた。どうやらゾンビを倒していく海外のゲームらしい。FPSと言うのだろうか。とにかく血のエフェクトがわざとらしくて、なんとなく白けてしまった。刺激的なだけで、現実を偽っている。歓声を上げる友人に合わせつつも、僕は直感的にそんなことを思った。こんなものよりも僕は、本当の死の方に興味があった。

 ゲーム画面を眺めていて僕は、先月、登校中に道路脇で猫の死骸を見つけたのを思い出す。どうやら猫は車にはねられたらしく、頭の右半分が潰れて平らになっていた。もう血は止まっていたけれど、蠅が二三匹たかる様と獣臭さが妙に生々しかった。こちらの方がゲームなんかより、よっぽど本当で意味がある。

 次々と体を吹き飛ばされていくゾンビを眺めながら、僕は頭の右半分が潰れた猫と、同じように頭の右半分が潰れた兄の姿を想像しようとした。



 世界では一日十五万人の人が死んでいるらしい。日本では三千人だそうだ。多いのか少ないのか分からないけど、十数年間生きてきた中で人間の死体を全く見たことが無いというのは、少しおかしい気もする。

 下校時間。猫の死骸があった場所で、僕は行き来する車を眺めていた。一か月前、登校時にあった猫の死骸は、下校する時間にはもうどこかへ持ち去られていた。近隣の人が猫をどこかに移したのだろう。仕方がないとはいえ、残った血の跡を眺めて残念に思ったものだ。今ではその血の跡さえ雨に洗われて消えてしまっている。

 こうしてぼうっとしている間にも十五万人の命が消えているのに、車は何事もないように走っている。空は青いし、子どもは脇道でボールを投げ合っている。僕はそのことが不思議でしょうがない。なんでみんな、死に無関心でいられるんだろう。つい先月、そこで猫も死んでいたのに。

 きっと隠されているんだ。兄も猫も、死に関係することのほとんどのことが隠されている。だから皆、何事も無かったかのように過ごしている。

 その時、強烈なクラクションの音が辺りに鳴り響く。ハッとして道路の方を見ると、急停車した車の前に子どもが立っていた。どうやらさっきの子がボールを拾おうとして、道の真ん中に飛び出してしまったらしい。子どもは逃げるように脇道へ駆け出すと、友達を連れてどこかへ行ってしまった。遠くなっていく後ろ姿を見て、轢かれれば良かったのにと僕は思った。



 誕生日を迎えた次の日の夕方、僕は川沿いの道を一人で散歩していた。十七歳になってしまった。兄が死んだ歳になって、まるで暗い影が忍び寄ってくるような気がした。

 このまま『死』というものを理解できずに、僕は死んでしまうのだろうか。歩くごとにそんな考えが頭で膨らんでいく。そんなことは嫌だった。何が何だかわからずに死の瞬間を迎える恐怖は、ちゃんと胸の内に存在している。これをどうにかして取り除かないと、自分は気が狂ってしまうと思った。

 今までネットで死体の画像を見たり、臨死体験のことを扱った本も読んで『死』については調べたことはある。でもそのどれもが大げさで嘘くさい感じがした。世の中の人はこうやって編集を加えたものに騙されて、そのまま死を迎えるのかと思うとゾッとした。こういうまがい物は少しつつけばいくらでも出てくるのに、肝心なものは全く出てこない。

 やっぱり、隠されているんだ。死体は墓に、記憶は時の彼方に葬られているんだ。そしてみんな、『死』から目をそらしながら、ごまかしながら生きている。そんなのは御免だった。僕は、本当の『死』を手に取りたかった。

 その時、目の前を一羽の鳩が歩いているのが見えた。僕が近くに寄っても気にせず、鳩はしきりに地面を突いている。その時、ほぼ反射で僕は鳩を蹴った。

 足に当たった瞬間、意外なくらいの質量を感じた。サッカーボールなんかとは違う、イキモノの質量だ。鳩は遠くの方まで転がると、体をわずかに痙攣させながら死んだ。ふとスニーカーを見ると、靴紐の間に柔らかそうな羽毛がついていた。

 その時僕は、やっぱり人を殺してみよう決めた。隠された世界の一端を見に行こうと思った。



 殺す相手は野間にすることにした。彼は生命力がありそうだから、鳩みたいに簡単に死なずに済む。それに不良の奴を殺して、歪んだ正義漢を装ってみるのも一興だと思ったのだ。

 殺害するタイミングは放課後に決めた。野間はその時間になると、校舎の隅の廃材置き場でよく煙草を吸っているという噂だ。僕は朝のうちに廃材置き場に行くと、体育倉庫の裏で拾った金属バットを目立たないところに置いておく。そのまま日中は授業に出て、五限までじっと過ごした。

 昼休み中、たまたま野間と廊下ですれ違うことがあった。階段の方へ去っていく野間の背中を見つめながら、僕は生きている姿を目に焼き付けようとした。

 放課後。真っ直ぐに廃材置き場に行くと、僕は金属バットを抱えて廃材の裏に隠れていた。湿った匂いを嗅ぎながら息をひそめていると、やがて足音が近づいてくるのがわかった。

 物陰から見た野間は当たり前のように壁際に腰を下ろすと、ゴソゴソと煙草を取り出し始める。僕はバットを握り直すと、一歩でその距離を詰める。野間が僕に気がついて振り返ろうとするより先に、前に出た勢いのまま僕はバットを打ち込む。鈍くて重い音がした。

 殴ってすぐに、指先まで痺れるような衝撃が上ってきた。バットも大きくへこんでしまった。よく考えれば当たり前だ。バットは人を殴るようできてないのだから、ボールより硬いものを殴ればへこんでしまう。ただもう一つ言えることは、普段打っているボールより人の頭の方が脆いということだ。

 野間は短いうめき声を上げながら、衝撃で前のめりに倒れこんだ。しかしさすがと言うべきか、すぐに上半身を起こして僕の方に顔を向ける。野間の両目はてんでバラバラな方向を向いており、焦点も合っていなかった。そして殴った頭ではなく、鼻から一筋の血が流れた。僕はバットを構えつつ、その様子を見守る。

 おま、お前、ふざざけんな。野間の口から言葉と同時に血の混じった唾が飛び散る。鼻血が逆流したのか、息もしづらそうだった。僕はとりあえず第二撃を野間の顔面に見舞う。仰向けに吹き飛んだ野間は脳しんとうを起こしたのか、ふにゃふにゃと意味の分からないことを言い出す。僕は手のひらに残った衝撃を繰り返し確かめる。

ずっとこの感覚が知りたかった。アリを潰すことと猫が轢かれること、鳩を蹴り殺すことと、人が死ぬこと。どこまで一緒でどこから違うのか。

 そこから先はかなり機械的に野間を殴り続けた。もともと抵抗される前に殺す予定だったし、誰かが来ないとも限らないので手早くやらなければならない。ただ、金属バットが思いの外ベコベコにへこんでしまったのは困った。仕方がないので打つ場所を小まめに変えながら工夫しながらやった。

 その時だった。目の前の人間が恐怖に怯えた目が僕を見ているのに気がついた。でも、それは野間ではなかった。兄の顔をしていた。

 思わず僕は手を止めた。八年前に死んだはずの兄が、なぜかこの場所で、頭から血を流して、僕を見つめている。これは幻なのだろうか。でも次の瞬間、僕は兄に向ってバットを振り下ろした。

 嬉しかった。僕はずっと、あなたの死をどう受け止めたらいいのか、それを考えていた。それが今、少し分かりそうだ。だから、あなたはここで死んでもらわなくちゃならない。

 バットを持つ腕が熱を持ち始める。喉の奥から唸り声がこぼれる。その声がかすれて途切れる頃、僕はバットで殴るのを止めた。気がつくと、血まみれの野間が足元に横たわっていた。

 僕はバットを捨てて、野間の頭から爪先までじっくり観察した。長い金髪は血に染まってまだらに染まっており、失禁したのか制服の股の部分が黒く濡れていた。念のために首筋の脈を取ってみたが、生温い温度しか返ってこなかった。その時急に全身の疲労に気がついて、僕はその場に膝をつく。特に腕の筋肉がしびれて力が入らなかった。

 目の前の全てが、本当の死を物語ってくれた。達成感とも満足感とも、罪悪感とも違う。強いて言うなら安心感のような、不思議な感覚に包まれながら僕は『死』を眺めていた。

 ふと視界の隅で、地面をアリが這っているのに気がついた。その瞬間に、八年前のあの夏の日まで遡っていけるような、そんな気がして僕は少し目を閉じた。良かった。僕はやっと、世界の一端に触れられたのだ。

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Aの述懐 伊奈 @ina_speller

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