am06:05~

   am06:05


 突然の惨劇に作業していた従業員、見送りの人々は騒然となって逃げ出し、周囲は一分も立たず閑寂となる。

 男はその場に立ち、だが諦念などの表情はなく、酷く冷淡に状況を分析する。

 №32の強力な能力ならば船を撃沈し、二人の子供を奪回することが可能だ。

 しかし、研究所所員を全員処分したところを考察するに、実験体の奪回命令は中止、あるいは撤回され、完全証拠隠滅、全抹殺命令が下った可能性がある。

 男の仕事は引継ぎが行われた時点で終了している。

 彼女がどのような命令に基き、いかなる考えを持って行動しているのかは、彼には断定できないが、明確なのは彼が戦う必要がないもうないことだ。

 選択肢は全力逃走以外にない。

 だが男は懐から拳銃を抜いた。

 安全装置解除。

 脇を占めて左手で右手を添えて固定する。

 右足を半歩引き、反動に備え腰を軽く落とす。

 照準孔と照準点を合わせて照準線とし、狙いを定めた。

 銃の扱いの最も基本であり、崩す必要のない最終形。

 的は№32・仲峰美鶴。

 彼の視線と、彼女の視線が、交差した。



   am06:06


 海の鳥の声が青空に響き渡る。

 空を飛ぶ彼らは生来の自由を誇っているようで、いつも彼らのようになりたいと思っていた。

 血が止まらない。

 体が冷えていく。

 けれど朝日が暖かくて、とても心地が良い。

 名前の知らない男が傍らに立ち、仰向けに倒れている私を見下ろす。

「……なぜ、反撃しなかった?」

 疑念の言葉は淡々として、しかし冷酷でさえなく、寧ろ今まで一番、人間の声として耳に届く。

 彼の撃った弾丸を防ぐことは容易かった。

 そして彼に研究員たちと同じことをするのも。

 でも私はそうしなかった。

 兄は私を生きる理由にしていた。

 私は兄を生きる理由にしていた。

 二人で自由になるのが私たちの願いだった。

 それが失われた今、もう生きていくことはできない。

 理由もなく生きていけるほど私は強くないのだ。

 そしてほんの少しだけ、私は夢を見た。

「あなたの手にかかれば、兄さんと同じ場所に行けると思ったから」

 彼はどんな顔をしているのだろう。

 私を向こう側へ帰すこの人は。

 その顔は逆光で見えないけれど、そのほうが幕切れの今に相応しい気がする。

 死には顔も名前も存在しない。

 船の姿はもう見えない。

 あの少女は今、大切な人と一緒にいる。

 自分たちは結局本当の意味で自由を手にすることはできなかった。

 あの子達は自由になれるのだろうか。

 いや、きっとなれる。

 大切な人と一緒に歩き続け、私たちが願ってやまなかった夢を叶えるだろう。

「兄さん。私たちも、やっと自由になれるね」

 虚ろな視界の向こうで、愛しい人が微笑んだ。



   am05:08


 №13・荒城刑事は、乗船場の陰に隠れていた。

 仲峰美鶴が完全に動かないのを知ると、その場から慎重に離れようとした。

 しかし路面に転がっていた珈琲の空き缶を蹴ってしまい大きな音を立ててしまった。

「ひっ」

 自分で驚いて強く眼を閉じて首をすくめる。

 いったい誰がこんな場所に空き缶を捨てたのか。

 まったくマナーというものがなっていない。

 慎重に目を開く。

 その慎重な行動になんの意味があるのか、自分でもわからないが、少しでも慎重にするべきだという気がした。

 だが視界に入ったのは、目の前にある銃口。

 実験体を強奪した男が、無言で銃を突き付けていた。

 マナー知らずのせいで窮地に立たされた。

 荒城啓次は両手を上げて懇願する。

「ま、待ってくださいぃ。あ、あたしは戦う気なんてありません。ほんと、ほんとですっテェ」

 最後は悲鳴に近くなっていく荒城啓次に、男はしばらく銃口を向け続けていたが、やがて銃口を下ろして懐にしまう。

 そして倉庫区の向こうへ歩いて行った。

 男が遠ざかっていく姿を荒城啓次は見送り、安堵の息と一緒に手を下ろすと、周囲の惨状を見渡す。

 バンは破壊され、研究所の所員も、副所長も全員燃えカスとなっている。

 仲峰美鶴がまるで聖女のように、静かに横たわっている。

 彼女だけが、この汚物にまみれた世界で、静粛にして聖なる存在であるかのように。

 荒城啓次は、しばらくして全身の力が抜けて、その場で腰を下ろすと、誰ともなく呟いた。

「助かった」

 それは仲間や顔見知りに対する悲哀の欠片もなく、しかし楽しげでもなく、ただ自分の命が無事だという事実を淡々と告げた、いっそ清々しささえ感じ取れるほど、心の底からの、安堵の言葉だった。



   am06:15


 朝日が港を照らす。

 潮風が吹き抜ける。

 鳥の鳴き声が亘る。

 周囲に人の姿はなく、だから誰も男を気に留めることはない。

 しばらくすれば、乗船場の異常に警察が駆けつけるだろう。

 だが、男の体に染みついている血と硝煙の臭いは、潮風が吹き散らして誰も気付かない。

 男の存在を誰も気にとめない。

 彼はそういう男だ。

 男はしばらく歩いてから、仕事を請負った時に与えられた携帯電話を取り出すと、一つだけ登録されていた番号に掛けた。ワンコールで相手側が応答に出る。

「首尾は?」

 彼は端的に答えた。

任務終了ミッションコンプリート

 護送者。職業凶手。護衛者。暗殺者。便利屋。殺し屋。

 死神と呼んだ者もいる。手にかけた人間の魂がどこへ行くのか、彼は知らないが。

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