am05:15~
am05:15
秦港第十倉庫で、彼女は入り口付近のダンボールの箱に座り、呑気に朝食代わりのオレンジジュースを飲んでいた。
まだ二十歳程の年齢の彼女は、ジーンズにトレーナー、ナップサックを傍らに置いた姿で、それはこれから低予算の海外旅行に向かう、放浪学生のように見える。
いつもこの服装で仕事をする彼女は、だからバックパッカーと呼ばれる。
実際これから海外に向かうのだが、別に旅行に行くわけではない。
できれば旅行で行きたいとは思う。
気がつけば白んだ空の東に陽光が朧に見え始めていた。
潮の匂いの源泉である海からカモメの鳴き声に混じって、一部で作業が開始された機械の駆動音が聞こえてくる。
この周辺は業務の範囲に入っていないのか、まだ時間が早いのか、人の気配はない。
それらの音に、不意に自動車の音が加わった。それは徐々に近付き、やがてその姿を現し、倉庫の前に救急車が停車した。
到着した救急車に、彼女は怪訝な表情を向ける。
その中から現れたのは、救急隊員ではなく、待ち人である男と二人の子供だった。
以前にも会ったことのある男に関しては、仕事の説明を受けているので来るのは知っているし、二人の子供も護送対象者だというのはすぐに想像がつく。
理解できないのは、なぜ救急車で現れたのかだった。
バックパッカーは男が倉庫に入ってくると、気軽に挨拶した。
「おはよう」
「君が引き継ぎか」
護送者の男は護送対象者の二人を招いた。
少年は初対面の女性ということで多少警戒感があるようだが、しかし護送者の知人であることから、彼女も護送の人間だということはわかっているらしい。
「はい、二人を確認。引継ぎ終了」
バックパッカーは腕時計を確認すると、ナップサックを背負う。
「それじゃあ、出航にはちょっと早いけど、行きましょうか。あなたはどうする」
最後は男への質問だった。
事実上引き継ぎは完了し、男の護送の仕事は終了した。
ここから先は自分の仕事だ。
もっとも船に乗るだけで、明らかに戦闘を行った男と比べて労力は少ないが。
彼は少し考えて、答えた。
「見送ろう」
am05:18
「ああ、病院に行ったわけね。それで救急車に乗ってきたんだ」
船に向かう途中、バックパッカーは春日歩から交通事情を聞いた。
ことの経緯は古強者の男が組織に報告し、また仕事に関しては本人から受けた報告以外、必要以上に聞いてはいけないという暗黙の了解があるのだが、どうしても気になったのだ。
「それより、急いだほうが良いのではないか。船に乗れば、安易に手出しはできないだろう」
救急車ということで優先的に走れたためか、予想より十分ほど速く到着し、時間的に余裕を持って引継ぎができるが、問題があるとすれば追跡者にも余裕を与えてしまったことだ。
「そうね。でもこの子、疲れてるみたいだけど」
「大丈夫。それより、船に早く乗りたい」
春日歩は気丈に振舞うが、実際歩けないほど体力が落ちているわけではない。
寧ろ研究所を出た時より回復している。
薬物の副作用による症状があったが、結局薬の副作用が原因である以上、薬の効果がなくなったと同時に苦痛も消えたということなのだろう。
「あともう少しだ」
男の励ましの言葉に、春日歩と南条彩香が足を早めた。
もうすぐ追跡を振り切って自由になれる。
だが、男の方は不意に足を止めた。
まだ貨物船まで数区画分の距離がある。
バックパッカーはその様子に警戒感を強めたが、そもそも彼がなにに気付いたのか不明だ。
「中に入れ!」
男が叫ぶと同時に、三倉庫分離れた通路の陰へ発砲した。
そこで様子を窺っていた人物は、弾丸は命中しなかったようだが、先制攻撃に身を翻して消えた。
一瞬だが見えたその姿は、夜勤明けのビジネスマンのようにくたびれた黒いスーツを着用していた。
男はバックパッカーに倉庫を指差して叫ぶ。
「場所が悪い! 早く中へ!」
彼女は子供を連れて近くにあった第五倉庫の裏口へ向かったが、銃撃がバックパッカーを襲う。
彼女は子供を着弾の位置から方角に見当をつけて子供を庇う位置に立ち、手にしたナップサックで体を防護する。
護送者が第八倉庫の屋根に発砲。
屋根の上に立つ黒スーツの男の姿を視認するが、発砲する寸前に、その姿が消えた。
バックパッカーは拳銃を取り出して裏口の鍵を破壊すると、まず護送対象者の子供を第五倉庫に入れた。
同時に別方向から銃撃を受け、まだ入り口付近にいたバックパッカーは右足に衝撃を受けて転倒する。
「くう」
バックパッカーは痛みを堪えて立ち上がると、痺れて言うことを効かなくなった右足を無理やり動かして倉庫に入り込んだ。
護送者が方向から推測して発砲したが、反対方向から銃撃。
幸い弾丸は外れたようだ。
反撃しつつ、彼も第五倉庫の中に入った。
貨物の木箱に隠れて、バックパッカーの怪我を、男が診る。
右脹脛を損傷しているが、主要血管は幸い外れたようだ。
だが戦力としては使い物にならない。
「護送の仕事をもう少し続けよう」
バックパッカーに告げる護送者に、彼女はどこか自虐的に微笑んで感謝を述べた。
「ありがと」
そして護送者は二人の子供に端的に伝える。
「この中に隠れていろ」
了承の意を示して頷くと、護送者は入ってきた裏口から再び外へ向かった。
バックパッカーはナップサックからタオルを出して傷口を縛って止血し、それが終わると脇に置いた拳銃を改めて手にした。
もっともあの男が判断したように、今の自分は満足に戦うことができず、これを使う時は彼がやられた時だ。
「大丈夫かな?」
春日歩が心配そうに呟いて、護送者が消えた裏口を見つめる。
「大丈夫よ。彼が倒されるなんてことないわ」
バックパッカーは自分の言葉に確信を持っていた。
自分が拳銃を使う状況など、どう考えてもありえない。
彼は組織において最強と称される人物だ。
ベビーフェイスも自分も、組織の人間の誰もが彼を倒すことを考え続け、しかしどうしても倒す方法が思いつくことさえできないのだ。
だが春日歩はどこか不安でいる。
彼のことを知らないのだから当然なのだろうが、ここに来るまで彼の戦いを見たはずだ。
「彼に守られてここまで来たんでしょう。信頼しなさい」
春日歩は返事をしない。
その手を南条彩香が握り締め、少年の顔を見つめている。
二人が今どんな表情なのか、背後からは窺い知ることはできない。
バックパッカーはふと怪訝に感じた。
「ねえ、どうしたの?」
尋ねても少年は返事をしなかった。
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