【書籍版】和桜国のレディ ~淑女は一日にしてならず~
冬村蜜柑/ビーズログ文庫
一 はじまりの話①
ここは
浪漫の花咲き乱れるところ
ここは和桜国
桜女神の血を継ぐ女王の治める場所
ここは和桜国
魔法革命により開花した東洋の大いなる花
ここは和桜国――
恋の花もあでやかに咲き誇り――
◆
和桜国
「それじゃあ、行ってくるね」
それは朝早くのこと。
誰もいない部屋の中に声をかけて、長屋の木戸を閉めるのは、ぼさぼさ髪の小さな女の子。
どこもかしこも痩せた貧相な体をしており、瞳ばかりが大きい様はまるで野の獣のようでもある。粗末な着物の帯に、手入れの行き届いたしっかりした拵えの小刀を挟んでいるのが不似合いだった。
田原いろは、十四歳。彼女がこの小さく粗末な部屋の、現在唯一の住人。
「おや、いろはちゃん。随分早いんだね、今日もお寺の手伝いに?」
いろはの住まいの向かいにある長屋のおかみさんも、水桶を手にちょうど出てきたところだった。これから水汲みにかこつけた井戸端会議に向かうらしい。仲間内のお喋りも、貧民地区で生きていくための大切な情報源。だから、このあたりの住人は皆水汲みの時間をだいたい同じぐらいにしている。
「おはよう、おかみさん。お寺の尼ばあさまのお手伝いは休みをもらったの。今日はお父さんとお母さんのお墓参りをしようと思って」
いろはの両親は冬の終わり頃、流行病で揃って亡くなった。
彼らのための墓を用意してくれたのが、街外れにある山の小さなお寺にいる『尼ばあさま』だ。もともとはとても大きなお寺にいた徳の高いお方だという噂もあるが、そんなことは関係なく貧民地区の住人たちに慕われ、拝まれている人だ。
両親亡き今は、いろはが目の不自由な尼ばあさまの世話や手伝いをして、食事と長屋の家賃が払える程度のお金をもらっている。
……目が不自由で高齢でも、尼ばあさまはいろはの手伝いがいらないぐらいにしっかりしているし、お寺には他に手伝いに来てくれる人もいる。そのため、お寺でもらうご飯とお金は完全に尼ばあさまのご厚意だった。
「墓参りに行くにしちゃ、また随分早くに出るんだね」
「うん。せっかくだし、たまにはちゃんとしたお花をお供えしたいから、お城の公園に行こうと思って」
いつも供えているような、山や野原で摘んでくる野草ではなく、街のお店で売っているようなちゃんとした花が欲しくなったのだ。ちょうどいい具合に、今の季節、お城の公園は立派な花でいっぱいだ。いろはが少しもらったって誰も何も言わないだろう。たくさん咲いているのだから。
「……お城の公園かい? あんな賑やかなところ大丈夫かね」
だが、そんなおかみさんの心配をよそに、いろはは元気に応える。
「花を手に入れたら、すぐに帰ってくるから大丈夫だよ! それじゃあ!」
からりと明るくそう言って、彼女は貧民地区を後にする。
――けれど、痩せ細った粗末な着物の少女は、二度と帰ってくることはなかった。
◆
和桜国 大晶五年・春 桜都のとある邸にて――
「…………朝か?」
カーテンの隙間から差し込む、朝の光。それが顔にあたったことで、この邸の若き主である紫乃宮圭人は覚醒する。
だが、いかにも男らしく整った顔に浮かべる表情は、気持ちいい目覚めを得られたそれではなかった。
「夢占を失敗しただと……こんな低級の魔法で触媒の香料を無駄にするとは、俺としたことが」
今日は、女王陛下の遠出に圭人も供をすることになっていたので、念のためと前夜に夢占の魔法を用意していたのだ。ベッド横にあるサイドテーブルには、舶来物の大きな香炉が確かに据えられており、触媒として焚いたさまざまな香料が、残り香を漂わせている。
だが、圭人は占うべき夢を見ることはなかった。何者かに魔法を妨害されたかと思うほどに、なんの夢を見ることもなく眠っていたのだ。
「こんな簡単な魔法を失敗するとは、宮廷魔 術 師主席が聞いて呆れる……」
ため息をつきながらも、ゆっくりとベッドから起き上がる。
和桜国の宮廷魔術師主席というのは、確かに失敗の許されない身ではあるが、いつまでもベッドの中でいじけているのも宮廷魔術師主席のすることではないのだ。
すでに優秀なメイドが洗面器に水を用意してくれていたので、やや乱暴に顔を洗い、身支度を整える。
圭人が外出時に着るのはほとんどが洋装だ。今日選んだのは、ベージュの地に茶の縞のスーツ。
二人の若いメイドが掲げる大きな姿見を見ながら、圭人は銀縁の眼鏡をかける。
とはいえ、圭人は取り立てて目が悪いわけではない。どちらかというと――目つきが悪いため、それを隠そうと眼鏡をかけているのだ。あまり成功しているとは言えないが。
いかにも和桜国人らしい、さらさらとした黒髪は前髪を上げずに下ろしたままにしている。
それに加えて、品の良さと男らしさがうまいこと調和した、端正な顔立ち。
細身とはいえ彼の六尺近くある体は、二十六歳という若い活力に満ちていた。
身支度の仕上げに、宮廷魔術師主席の証でもあるマントを無造作に羽織り、メイド長の胡蝶が差し出す黒い革の手帳を手に取る。
今日の日付のページをめくれば、そこには『女王陛下地方視察・観桜会』と書かれていた。
「……朝食の支度はできているか」
「はい、すでに整ってございます」
忠実にして優秀なメイド長、四戸胡蝶はいつもどおり淀みなく答える。もうすぐ三十歳に手が届くメイドなのだが、切れ長の黒い瞳は涼やかで、まとめられた黒い髪も艷やか。西洋の者たちが彼女を見れば、いかにも自分たちがイメージしていた和桜国人らしい容姿の――美しい女性だと喜ぶのかもしれない。
「そうか、今日の紅茶は……アッサムにするように。今朝はどうも目覚めが良くなかったから眠気覚ましになるよう濃いめに淹れて、ミルクをつけてくれ。ミルクティーで飲むならやはりアッサムだからな」
「かしこまりました、ではそのように伝えてまいります」
胡蝶は厨房にその要望を伝えるために、一足早く圭人の寝室を出る。
圭人は手帳を閉じ、大事なステッキ――魔術師の杖を掴むと窓の外を眺める。
今日はいい天気だ。
春の暖かな日差しを浴びて、庭の木々や花壇の花もどこか生き生きとしているように見える。
そんな庭を眺めながら……こつ、こつ、こつ、とゆっくり三回ステッキで床を叩くと、圭人はゆっくりと部屋を出た。
紫乃宮圭人――和桜国でも特に旧い家系である紫乃宮侯爵 家の三男にして、独立し紫乃宮伯爵 家の当主となった男。
そして、この和桜国の魔術師の頂点である、宮廷魔術師主席でもある。
彼はそんな、手にしているモノの大きさの割には、それなりに気楽な独身生活を謳歌していた。
――そう、この日までは。
「圭人坊ちゃま、お車の支度はもう済んでおりますぞ」
広い食堂での朝食のあと、濃いめに淹れられたアッサム紅茶のミルク入りを飲んでいると、この邸の執事を任せている征十郎がやってくる。
伊藤征十郎は、元は圭人の実家である紫乃宮侯爵家に長いこと仕えてきた経験を持つ使用人だ。相応に年も重ねているのだが、かっちりと執事服を着こなし、しゃんと背を伸ばしている姿からは老いを感じさせない……そんな男だった。
「そうか、では出るとするか」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ。圭人坊ちゃま」
「行ってらっしゃいませ、圭人様」
征十郎と胡蝶が丁寧に頭を下げると、その場にいた給仕の使用人たちもまた深々と頭を下げて、あるじを見送った――
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