辺境の老騎士外伝

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恋心

1


 カーズ殿に幸せそうに寄り添う花嫁を見て、私の胸がずきりと痛んだ。

 痛んだことに驚いた。

 私はまだこんなにもカーズ殿を愛していたのだと、あらためて知ったのだ。

 この結婚は、むろんめでたいことだ。

 カーズ殿も妻を持ち子を持って、幸せになってよい。

 たとえ相手がカーズ殿のことなど何も知らぬ小娘であったとしても。

 いや。

 何も知らぬ、というのはちがう。

 三年前、バルド様が、竜人たちと戦うことになったあの冒険の旅に出かけたとき、この小娘はカーズ殿やゴドン殿、タランカ、クインタとともにバルド様に同行した。得体の知れない小娘を連れていくことを私は心配したが、バルド様は、

「何かのもくろみがあってこのフューザリオンにやって来たのは間違いないのう。一緒に連れて行ったほうが様子をみることができて都合よかろう」

 とおっしゃった。

 私はやむなく口をつぐんだが、小娘が足手まといになることを心配した。

 けれど小娘は、足手まといになるどころか、なかなか活躍したらしい。あとでタランカからそれを聞いて、私は安心するとともに、少しのいらだちを覚えたのだった。

 その旅で、一行はあの滝のほとりに寄ったのだという。あの懐かしい滝のほとりに。そしてタランカはよけいなことに、小娘にバルド様の冒険談を語り聞かせたのだ。タランカは、『辺境の老騎士冒険譚』も『バルド・ローエン卿偉績伝』も読んでいるし、私やジュルチャガから話も聞いているから、バルド様のご活躍についてはくわしい。

 ゴドン殿も、みずからがごらんになったバルド様の旅を語られたという。

 ああ!

 私もその場にいて聞きたかった。ゴドン殿が語るバルド様の冒険の旅の物語に心を震わせたかった。

 しかもそのあと、バルド様は語られたのだ。旅の目的が何であるかを。精霊と魔獣の真実を。歴史の裏で暗躍してきた恐るべき存在のことを。それらの謎を解くため、ルジュラ=ティアントと、ジャミーンと、ゲルカストと会うための旅なのだということを。

 それは私も聞いたことのない秘密だった。

 そしてまたそのとき、バルド様は語られたのだ。カーズ殿の出生の秘密とこれまでの歩みを。

 私もそれは聞いたことがある。ジュルチャガから聞いたのだ。だがそれほどくわしく聞いていたわけではないし、わざわざに話してもらったわけではない。

 その後一行はクラースクの街に行った。そしてカーズ殿はハドル・ゾルアルス殿と感動的な再会を果たしたのだ。それは、聞いただけで涙をこぼさずにはいられないような話だった。

 なぜその場にいたのがあの小娘で、私ではなかったのだろう。

 いや、いや。

 ちがう。

 私にはこんなことを思う資格はない。

 私はジュルチャガの妻であり、アフラエノクとシルキーの母なのだ。

 フューザリオンでの暮らしは幸せそのものであり、少しばかり忙しすぎることをのぞけば、私に何の不満も後悔もない。

 ないはずなのだ。

 ないはずなのだけれど。

 どうしてこんなに胸が痛むのだろう。

 この痛みはどうしたら静まるのだろう。


2


 あの年。

 あの運命の年。

 私は魔獣を狩りに大オーヴァを渡って東部辺境に来た。

 辺境はひどくなじみにくい場所だった。人のいる街では人がうるさく寄ってきて私を煩わせたし、森に入ればいやらしい虫が四六時中体に張り付いた。夜は風の寒さと獣のうなり声で眠りを妨げられた。

 まさかその辺境がこんなにも慕わしい場所になるなどと、あのころの私は思いもしなかった。

 今から思えば不思議なことだけれども、従騎士二人と従者一人に裏切られ、しびれ薬を盛られたと気付いたとき、なぜかおびえる気持ちは私の心の中になかった。彼らが獣のような顔つきで荒い息をはきながら、私を陵辱しようと迫ってきたときにも、恐ろしさも不安も感じなかった。だから動かない体を何とか動かし、彼らをたたき斬ることもできた。

 十九歳という怖い者知らずの年齢が私に勇気を与えたのだろうか。

 いや、たぶんそうではない。私は直感で知っていたのだ。まもなく庇護者が私を迎えに来ることを。その人の懐に抱かれれば、もはや何も心配することなどないのだということを。

 追っ手から少しでも離れようとクリルヅーカを走らせたため、薬の回りが早まったかもしれない。私は水を飲もうと小川のほとりに降り、そこで意識を失った。

 翌朝私は一度目を覚まし、バルド様たちに身分と名を名乗り、いきさつを説明さえしたという。だが私自身はそのことを覚えていない。

 私はずっと夢の中にいた。

 夢の中で男に抱かれていた。


 それまで私にとり男とはうとましいだけの存在だった。だから武の道にのめり込んだ。女らしい装いをして男の視線を集めるなど、死んでもいやだった。

 そうなった理由は、たぶん兄上にある。兄上は素晴らしいかただった。美しく、たくましく、そして強かった。まさに英傑だと誰もが認める人であり、生まれつき人の上にたつことを運命づけられた人だった。

 それゆえに、あなたが嫌いです、とはいえなかった。幼いころは慕わしく、少し成長したころには頼もしかった兄上が、自分を女としてみていると気付いたときの衝撃は、言葉にもできない。けれど兄上が優れた人であり、ファファーレン家の跡継ぎである以上、あからさまに嫌うことはできなかった。

 父を同じくする兄から肉欲の目でみられているというおぞましさは、家で過ごす時間を地獄に変えた。

 その鬱屈は、私をいっそうシェルネリア姫への忠勤と武技の精進に駆り立てた。けれど兄上は私を諦めなかった。兄上の私に対する感情の行き着くところを想像すると恐ろしくてならなかった。

 幸い、父上はそんな私に手を差し伸べてくださった。コヴリエン子爵の身分と領地を下さったのだ。私は婿を取り子爵として身を立てることができる。つまり家を出て自分の自由にできるのだ。

 もともと私には縁談が多かった。生まれたときからそうだったのだが、それなりに成長すると私の美貌は評判になり、求婚者は列をなした。その求婚者たちは兄上に打ち据えられて私を諦めたのだが、子爵位を得たことで再び求婚者が現れた。兄上はそれを見逃さなかった。

 マジストラ・ゲリ殿が皇都の武闘大会で優勝したとき、その優勝を私に捧げると公言したと聞いた。私は少しばかり胸を高鳴らせた。だが数日後、皇宮の務めを終えて帰宅した私に家宰が告げた。マジストラ・ゲリ殿が来訪され、兄上に練武場に連れ込まれ、半死半生になって贈り物とともに文字通り放り出されたと。

 再び求婚者は途絶えた。妙なことではあるが、私は男は嫌だけれど、結婚というものにはあこがれていた。素晴らしいが突然現れ、私をさらっていってくれる。それは私のはかない夢だった。

 その一方で、私は男に近づかれるのを嫌った。脂ぎった男の匂いを嗅ぐとめまいがした。まれに嫌悪感を感じさせない男もいた。剣の師であったキリー・ハリファルス殿がその筆頭だ。キリー殿は私に男の顔をみせなかった。それがどれほど私の救いになったか分からない。だが、たいていの男は私にとり、よくてとまどいの種であり、悪くすれば魔獣のごとくいとわしい存在だった。


 そんな私が、男に抱かれ幸せに眠る夢を見た。抱かれる、といっても優しく抱きしめられるだけで、それ以上のことに及ぶわけではない。

 いや。抱きしめられるというのもちがう。雄々しく広やかな腕の中で、私は思う存分四肢を伸ばし、安心しきって眠っているのだ。それは、幸せな幸せな夢だった。

 喉が渇けば甘露が与えられ、少し寒いと感じれば心地よい暖かさが私を包んだ。この夢が永遠に続けばよい、と私は思った。

 目を覚ましたとき、私はその人の顔を見た。声を聞いた。匂いを嗅いだ。

 一切の嫌悪感はなかった。その人のすべては好ましく、その人のすべてはかぐわしく、その人のすべては愛おしかった。

 バルド・ローエン。

 それが、その人の名前だった。

 バルド・ローエン。

 バルド・ローエン。

 なんとよい響きの名だろう。

 よい名であるという以外の思いが浮かばない。

 バルド・ローエン。

 バルド・ローエン。

 何度心に思い浮かべても飽きるということのない名だ。飽きるどころか、小さくその名を呼ぶだけで、私の胸にあまやかな風が吹き込んでくる。

 その風は不安やわだかまりを吹き払ってぬくもりを与えてくれる。あまりの心地よさに、私は何度も何度も声にならない声でその名を呼んだ。

 いや。

 最初からそうだったわけではない。だんだんにそうなっていったのだった。

 けれどもバルド様にお会いした最初のときから、私は奇妙な安心感を覚えていた。だから自らの状況を、願いを、思わず打ち明けたのだ。

 そんなことは考えられないことだった。

 私には同年代の親しい友というものはなかったし、殿方の近くによればおのずと肩肘を張るようになっていた。初対面のバルド様たちの前で自分をさらけだしたというのは、私を知る者が見れば仰天するような光景だったはずだ。

 しかも、ああ!

 なんとバルド様は魔獣の革鎧を着用しておられた。

 始め私はオーヴァの東に来れば魔獣などはいくらでもいるものだと思い込んでいた。ところが、ヤドバルギ大領主領の街々で聞いてもボーバードの領主に聞いても、魔獣などは見たことがないという。もう生きた魔獣などは地上にいないのではないかと思い始めたところだったのだ。

 どうしても私は魔獣の首が欲しかった。辺境競武会に出場するために。出場してシェルネリア姫様に優勝の栄誉をお捧げするために。

 もしも魔獣がいないのだとすれば、私の願いも努力も初めからむなしいものだったことになる。だがそうではないと、お会いした最初のとき、バルド様はその存在をもって示してくださったのだ。

 魔獣を探して討つ手助けをしてくださるというバルド様の申し出に、私は黙って頭を下げた。私には、華麗な金属鎧に身を包んだ騎士団よりも、この得体の知れないみすぼらしい三人の殿方のほうが信頼できた。バルド様も、ゴドン殿も、ジュルチャガも、初めから安心してそばにいられる人だった。それは本当にトランティリア神が差し向けてくださった守護精霊のように思われたのだった。

 そして私はあの人に会った。

 カーズ・ローエン殿に。


3


 初めてカーズ殿にお会いしたのは、ヴォドレス侯爵家の騎士たちに襲われているときだった。

 そのとき、あの人はヴェン・ウリルという名だった。

 じつのところ、そのときの戦いでのヴェン・ウリル殿の働きは、よく覚えていない。よりによって高潔をうたわれる〈不倒の騎士〉ヘリダン・ガトー殿に裏切られて死にかけ、必死で剣を振っていたからだ。

 それでもつむじかぜのような何かが強敵たちをなぎはらうのを、視界の片隅でとらえていたような気がする。

 なんとヴェン・ウリル殿は、近くで魔獣を見かけたという。その案内で私は魔獣を見つけることができた。

 実際に巨大な大赤熊の魔獣をまのあたりにしたとき、私の心に喜びはなかった。恐怖だけがあった。

 こんなものと戦えるわけがない!

 だが、ヴェン・ウリル殿もゴドン・ザルコス殿も、まったく恐れを知らぬげに魔獣に挑んだ。

 私はそれに励まされ、激しく脈打つ心の臓をなだめながら剣を構えて突進した。剣が魔獣の強靱な脇腹に深々と突き立ったとき、私は魔剣シャーリ・ウルールを与えてくださった兄上に思わず感謝したものだった。

 その時点では、ヴェン・ウリル殿に格別の思いは抱いていなかった。まるで空気のような人だった。そばにいて邪魔にもならないが、存在を意識するということもなかったのだ。

 それから盗賊団の討伐があった。

 私がそれまで習ったのは、一対一の決闘の剣であり、集団戦闘については多少の耳学問があるだけだった。そんな私がじゅうぶんに動き、敵を斬り倒すことができた。この人たちとなら自分は何でもできる、とそんな思いがし始めた。

 そして、ああ!

 私たちはあの滝のほとりに行った。水浴びのあと岩棚に横たわるヴェン・ウリル殿は、神話から抜け出てきたような美しさで、私はみとれた。

 バルド殿はヴェン・ウリル殿を起き上がらせ、宣誓を行わせた。

 そのとき起きたことの本当の意味を知ったのは、ずっとあとのことだ。その時点では、ヴェン・ウリル殿が背負ったものの重さや心の闇の深さなど、私には知りようもなかった。

 それでもその宣誓が、この世にあり得ないほど神聖で真摯なものだということは、肌で感じた。

 ヴェン・ウリル殿の宣誓の声は、まるで喉から血を吐くようなぎりぎりの心の叫びだった。そして今この場で一人の人間が本当の意味で生まれ変わったのだと私は知った。そしてカーズ・ローエン殿が生まれた。

 そんなことができるものなのだ。

 一人の人間の過去も悔いも洗い流し、まったく新しい別の人間として生まれ変わらせるというようなことが、できるものなのだ。

 そのわざをなしたバルド様に私は感嘆した。

 いや。

 帰依した。

 そのときの私にとり、バルド様は肉を持ったこの世の人ではなかった。森の奥深く神霊の世界から人界に現れた神々の一柱以外のものではなかった。

 したがって、バルド様に膝を突き、辺境競武会で優勝させてほしいと懇願したとき、それは人から人への頼みなどではなく、人から神への請願のようなものだったのだ。

 バルド様は、その請願を聞き届けてくださり、カーズ殿に、「ドリアテッサ殿が少しでも優勝に近づくよう、できるだけのことをせよ」と命じられた。

 そしてカーズ殿の稽古が始まった。カーズ殿は、いきなり私の頬を剣のひらで殴りつけた。体が上下反転し、鼻から血が吹き出るほどの激しさで。

 それは衝撃だった。

 それまで、私に剣の稽古をつけてくれた人たちはみな、私を女として扱った。キリー殿もまたそうだった。私の体に傷をつけないよう細心の注意を払いながら、私を教えた。私は修行が進むほどに、自分が女であること、男に劣るものであることを思い知らされずにはいられなかった。

 だが、カーズ殿には何の遠慮もなかった。

 うれしかった。

 うれしくて、うれしくて、私はけだもののような雄叫びを上げながら、無我夢中でカーズ殿に挑みかかった。

 カーズ殿の肉を、血を、一切れ残らず一滴残らず、私はくらい尽くそうとした。その私の全身全霊を込めた打ち込みを、カーズ殿は息も乱さずかわし続けた。

 男だ。

 これこそが、本当の男だ。

 私はカーズ殿の教えを全身で受け止めた。それはなんという甘美な時間であったことか。

 私は自分の実力がめきめきと上がるのを感じていた。初めて剣先がカーズ殿に届いたとき、いや、届くのを許してもらったとき、私はうれしさのあまり気を失いそうになった。

 その場所は特別な場所だった。

 大気からして違った。あの場所の大気は、ひと息吸い込むごとに、私を清明にし、体のすみずみにまで力を与えた。そうだ。あの場所は、神々の恩寵に満ちた場所だったのだ。

 私は恩寵を身いっぱいに受けるため、素裸になって泳いだ。四人の殿方の目にふれていることも気にならなかった。私は必死だったのだ。今このときを逃せば、自分はいつまでも自分でしかない。しかし今なら、古い皮を脱ぎ捨てて、私は新しい私に生まれ変わることができる。ちょうどカーズ殿がそうしたように。

 私は強くなった。だがそれは、その場所から離れる時が来たことも意味していた。後ろ髪を引かれる思いで、私はその場所をあとにした。

 私の心を憂鬱にするものが、もう一つあった。修行は終わった。だからバルド様たちと別れなければならない。

 ところが。

 バルド様はなんとオーヴァを越えて皇都まで来てくださるという。魔獣討伐に確かに私が参加していたことを証しだてるために。こうした証しだてには、ふつう二人の騎士の証言が必要なのだが、そのことをバルド様は騎士ヘリダンから聞いていたのだ。

 この申し出は、私を心の底から感激させた。これほどの好意を寄せてもらえる幸せをかみしめた。

 それだけに、兄上と合流してその配下の騎士たちに証しだてを済ませ、そこで別れるとバルド様が言い出したときには、私は愕然とした。

 その驚きは恐怖を伴っていた。バルド様たちの庇護を離れて兄上の率いる騎士団と共に帰国する。それはこの上なく恐ろしい旅であると思われた。男に対する恐怖が、私の中によみがえった。

 私は目でバルド様に訴えた。

 私を見捨てないでください、と。

 バルド様はそれに応え、取りあえず落ち着く場所まではご一緒しましょう、とおっしゃってくださったのだった。

 ヒマヤに宿を取ってから船を手配してオーヴァを渡った。

 その船の中で私はけしからぬ発言を聞いた。なんとバルド様は、コルコルドゥルの油ゆで欲しさにヒマヤに引き返す、とおっしゃっていた。

 私はかっ、と頭に血を上らせた。この食いしん坊じじいは、私よりコルコルドゥルの油ゆでを取ると言っているのだ。

 ひとしきり心の中で怒りをかみしめたあと、心の中でとはいえこれほどあけすけに怒りをぶつけられるほど、私はバルド様に心を許しているのだと気付いた。

 船べりで風に髪をゆだねながらたたずんでいると、ふとバルド様が私の顔をじっと見ているのに気付いた。

 その視線には、男が女を想う気持ちがほんのわずかでもまじっているだろうか。

 まじっていればいいのに、と私は思った。


4


 トライに着き、パルザム辺境騎士団長に招かれてバルド様はパルザムに行くことになってしまった。

 勅命であるというのだから、反対のしようもない。私は絶望のまなざしてバルド様を見た。

 するとバルド様は、

「ジュルチャガをあなたに随行させる。何か連絡があれば、ジュルチャガにお言いつけなされ」

 と言ってくださったのだ。そのときのうれしさは、例えるものもない。

 ジュルチャガは、安らげる人だった。いつでも私の欲しい言葉をくれた。私の体調を気遣い、私が不自由をしないように、さりげなく気配りをし、惜しみなく働いてくれた人だった。

 皇都への道中、兄上を敬遠したものだから、必然的に私はいつもジュルチャガのそばにいた。

 というより徒歩であるのにジュルチャガは、いつも遅れずクリルヅーカのそばにいた。そして私と話をかわしながら平然と走り続けるのだ。

 皇都の自宅に着いた翌日、ジュルチャガは兄上に練武場に連れ込まれた。

 私はそのとき、兄上が勘違いをなさっているのに気が付いた。

 兄上は、私とジュルチャガが想い合っていると思っておられる。

 いや。

 それは本当に勘違いなのか。

 私はどうか。自問すると意外にもすっと答えが出た。私はジュルチャガが好きだ。こんなに私をくつろがせてくれる人はなかった。ジュルチャガは私に平安と素直さをくれる人だ。束縛から私を解き放ち、自由をくれる人だ。

 ジュルチャガはどうか。これは分からない。分からないけれども憎からず思っていてくれるのではないかという期待はあった。

 それにしてもジュルチャガが心配だった。カーズ殿の斬撃をかわしきってみせたほどの人なのだから、兄上の剣も避けられるとは思う。思うけれども、万一のことがあったら、どうしたらいいのだろう。兄上が手に取ったのが魔剣ネリベルだと知って、私は半狂乱になった。何ということを!

 あとで知ったのだが、そうして身も世もなく心配する私の姿を見て、父や兄弟は、私とジュルチャガが恋仲なのだと勘違いしたようだ。私とジュルチャガでは身分が違いすぎて結婚など不可能なのだから、そんなふうに思われているとはまったく気付かなかった。

 その後、私は皇宮で魔獣討伐の報告をした。私は少し舞い上がっていた。なにしろ敬愛する姫のため、私は魔獣の首を持って帰った。そして辺境競武会に出場することができるのだ。舞い上がっていたために、少しばかり口が滑ってしまったかもしれない。私の口から経緯を聞いた人たちは、バルド様たちが神々の使いででもあるかのように受け止めただろう。

 ジュルチャガも皇宮に呼ばれた。なぜか準貴族という高い身分を与えられて。

 そして、父上は家宰に命じて貴族の作法や知識を、どういうわけかひどく詳しくジュルチャガに仕込み始めた。

 ジュルチャガの語りは大評判を呼び、新年参賀のおり七日間にわたって上級騎士たちに冒険談を語った。そのあとは平民たちを相手に、やはり七日間語りを行った。

 私は辺境競武会の出場者に選ばれ、姫様とともにロードヴァン城に向かった。ジュルチャガも一緒だった。

 ロードヴァン城で、姫はジュールラント陛下に出会われた。あのときは殿下だったか。そして姫は恋をなさった。

 それは素晴らしいことだった。姫こそは私の理想だった。たおやかで美しく、はかなげで聡明で、しかも女らしさにあふれていた。私の持てなかったものすべてを持っていた人こそ姫様だった。

 この恋を成就させるには、どうしたらいいのか。私はバルド様に頼った。

 バルド様はこともなげにお二人を引き合わせ、やがてお二人はご結婚なさった。バルド様は、本当に神々のみ使いのようなかただった。

 皇王陛下のご手配により楽々と優勝できるはずであった第五部門に、嵐が吹き荒れた。

 シャンティリオン・グレイバスターという名の嵐が。

 ガッサラ将軍が、そしてキリー師範までもがシャンティリオン殿に敗れ去った。

 私はキリー師範はカーズ殿にも比肩し得る剣客だと思っていた。まさか二十歳をいくらも過ぎない若者に後れを取るなど、信じがたいことだった。

 だがそれが事実だ。キリー師範は敗れた。破ったシャンティリオン殿と、私は戦わねばならない。

 勝てる戦いではない。だが全力を尽くした。全力を尽くしたけれども負けた。

 負けた私は悄然としながらも、観客席の最前列で、次に行われるべき模範試合を見守った。

 精魂は尽き果て、すぐにもベッドに横たわりたい気持ちではあったが、次の模範試合はシャンティリオン殿にカーズ殿が挑むのだ。これを見届けないわけにはいかない。

 だがその模範試合で、私はかつてしたことのない体験をしたのだった。あのときあんなことが起きたということは、たぶん誰も知らないだろう。バルド様でさえ気付いていないのではないか。それを知る者は、ただカーズ殿と私だけなのだ。


5


 模範試合が始まってしばらくして、私は奇妙なことに気付いた。

 よく見えるのである。シャンティリオン殿の動きが。

 ふつう格上の相手の動きは予測もしにくいし、そもそもとらえにくい。細剣の場合この傾向が著しい。

 ところが私はまるで同格の相手を見るように、シャンティリオン殿の動きを見極めることができた。しかもまるで至近距離から見ているように、腕や足の微妙な動作までが把握できた。呼吸もである。いつシャンティリオン殿が息を吸い、いつはいているのか、私ははっきりと把握していた。

 この体験に初めはとまどったが、しばらくして何が起きているか理解したときには、心底から驚愕した。

 カーズ殿だ。

 私は今カーズ殿と一体になっている。

 どうしたらそんな摩訶不思議なことができるのか、見当もつかない。だが現に私にはそれができている。

 それがカーズ殿のなしていることだということは、疑いもなかった。私がカーズ殿に同調しているのではなく、カーズ殿が私に合わせてくれているのだ。見る目というか、その背後の呼吸というか、とにかくカーズ殿は、みずからの律動や動作を、私が移入できるように調整している。それで私はカーズ殿と一体化して、シャンティリオン殿の動きを捉えることができたのだ。

 その体験は私に恍惚感をもたらした。快感の極みといってもよい。はるか格上の二人の戦いを、私は当事者として味わうことができたのだ。そのひと技ひと技の深みと応酬。ただひと振りに込められた豊かなイメージ。愉快だった。雲の上を闊歩かつぽするような爽快さだった。

 と同時に、互角かあるいはシャンティリオン殿のほうが上かと思っていた力関係が、まったくそうではないことを知った。シャンティリオン殿は恐るべき手練れだが、カーズ殿の技量はそのシャンティリオン殿からさえ隔絶していた。

 辺境を放浪していたこんなみすぼらしい騎士が、大陸中央の大国で最高峰に立つと思われる剣士を圧倒しているのである。

 それは不思議な不思議な、感動すべき光景だった。

 いったいどうしてこの若さでここまでの剣技を得たのであろうかと、私は思った。そのころ私は、カーズ殿の年齢をまったく勘違いしていたのだ。

 しかも、ああ!

 カーズ殿の戦いは、ただ一点の目的に向けられていた。それが私には分かった。

 シャンティリオン殿の技を引き出すこと。そして、そして。

 見えた!

 今見えた。シャンティリオン殿の動きに隙が。

 三連続攻撃を放つとき、わずかに右胸のあたりに隙が出る。それこそがまさに、カーズ殿が私に見せたかったものにちがいない。

 カーズ殿はあっさりと負けてみせた。

 あの不思議な一体感、高揚感もその瞬間消え去った。

 私は天上から突然に地上に落とされた精霊のように、ただ呆然とたたずむだけだった。

 奇跡の時間が終わってみれば、私はただの鈍才に過ぎない。おだてられていい気になっていたけれど、私の剣の技術は、ほんのわずか年上であるだけのシャンティリオン殿にまったく及ばない。才能も努力も実力も、はるかに劣っていると思わざるを得ない。

 カーズ殿は私に手掛かりをくれた。だが私にはその手掛かりを生かすすべがない。

 そんな私にさりげなく近づいてジュルチャガが言った。

「カーズがあとで来いって」

 部屋を訪ねた私に、カーズ殿はいきなり説明を始めた。

「シャンティリオンはバランスの取れた攻防を行う剣士で、これといった弱点がない。だが、奥の手の三連続攻撃を行うとき、隙ができる。ここだ」

 そう言ってカーズ殿が指し示したのは、まさしく私が模範試合のとき見いだした一点だった。右胸の筋肉の端、ほとんど脇に近い位置だ。

 分かっています。

 分かっていますとも、カーズ殿。

 あんなにはっきりと、あなたに見せていただいたではありませんか。

「ここを突きで打ち抜け。ただし踏み込みはせずに、体重の移動だけで技を繰り出すのだ」

 そう言って、カーズ殿は接着した状態から標的を撃ち抜く技を見せてくれた。

 あとで振り返って思ったのだけれど、あれは客観的にみれば無理難題だった。

 シャンティリオン殿ほどの達人を、奥の手を出すほどに追い詰めなくてはならない。

 しかもそのとき接着した状態であるには、常に至近距離でその攻撃をかわし続けなければならない。

 でもあのときの私にとって、カーズ殿の言葉と見せてくれた技は、希望そのものだった。

 あるのだ。

 わずかとはいえ、可能性があるのだ。

 私にできないことを、カーズ殿はしろとはいわない。

 これもあとで気付いたのだが、カーズ殿がシャンティリオン殿に勝つには百通りでも方法があった。

 あのとき教えてくださった方法と技は、まさに私がシャンティリオン殿に勝つためのものだった。

 あの技も、カーズ殿にとっては知り覚えたあまたの技の一つに過ぎず、奥義というにはほど遠いものだったのだろう。

 だが私にとっては一晩で到達できるかもしれない極限の技だった。

 私は生き返ったような心持ちになって練習に励んだ。

 たった一晩。

 しかしその一晩のなんと濃密だったことか。

 私は何の疲れも覚えなかった。ただ技の修練に没頭した。若さと、修行の充実と、身体の柔軟さと、明確なイメージと、そして気迫。それらがすべて上り坂にあるときだけ可能な修行の時間を、私は過ごした。

 励んでも励んでもそれはできなかったけれど、思わず天空の姉の月スーラに祈願したとき、足元から物音がした。私は驚いて、その瞬間、あの技ができていた。

 そのときの物音はモルッカが飛び立つ音だった。

 モルッカのつがいか、あるいは兄弟か。

 東に飛び去っていく二羽のモルッカを見ながら、私はわけもなく、バルド殿があの滝のほとりの恩寵を呼び寄せてくださったのだと感じていた。

 翌日のシャンティリオン殿との試合を私は一生忘れない。

 私のすべては研ぎ澄まされてさえ渡り、何もかもが最高だった。

 至近の距離を通過するシャンティリオン殿の刃も怖くはなかった。私はただ力を出し切れないことのみを恐れた。

 この試合に勝てたら。

 この試合に勝つことができたら。

 そのときこそ私は、今までの私以上の何かになれる。

 そんな予感にひたされながら、私はただ無心に戦った。

 シャンティリオン殿の三連撃目をネックガードで受け止め、私の剣がシャンティリオン殿の胸を貫いたとき、私は今までいた世界とは違う世界に足を踏み入れていた。

 それは全身がしびれるような官能の世界だった。

 私が貫いたものは、シャンティリオン殿などではなかった。それはカーズ殿だった。

 私は間近からまっすぐにシャンティリオン殿の目をのぞき込んだが、そこに私はカーズ殿を見ていた。

 カーズ殿はにっこりと笑って、私の剣を自らの体内に迎え入れてくれた。

 よくぞここにたどり着いた、とカーズ殿が笑顔を向けてくれている気がした。

 その笑顔は、私の胸に鋭くそして甘い痛みをもたらした。

 私はその瞬間、恋に落ちたのだ。


6


 それからあとの出来事は、夢の中で起きたことのようだった。

 バルド様が歌合戦で神威を込めた歌を歌われ、いきりたった両国の騎士をなだめ、手を取り合わさせたことも。

 ジュールラント王太子殿下からいただいた、パルザムに女武官の師として招くというお申し出も。

 褒賞、というものに格別の思い入れはなかった。女の私が総合部門で優勝し、それを女あるじであるシェルネリア姫様にお捧げする、ということだけでじゅうぶんだったのだ。それこそが姫様のお心にかなうことだと信じていた。

 ただ一つ大事なのは、私が利益を受け取らないということだ。ただ褒賞のお言葉のみを頂く。それが私の望みだった。私が金や物や個人の栄誉となるものを受け取ったのでは、勝利のすべてを姫様にお捧げすることができなくなる。

 だから、私をパルザムに招く、という王太子殿下のお申し出は、まったく思いもよらないものだった。

 それは思いもよらなかった可能性だ。新しい道だ。牢獄のようなわが家から出て、パルザムという未知の舞台に踏み出すことができる。それは本当に夢のようなお申し出だった。

 その夜の宴では、皆楽しそうだった。私も楽しかった。バルド様の座る場所に引き出され、辺境での冒険を語るよう求められた。私は存分に語った。

 酒を飲む前から私は酔っていた。新しい世界が開けたうれしさに。バルド様の魔術のような歌に。

 だから少々語りすぎた。ふと心配になって時々バルド様の顔を見たが、にこにことうなずいておられた。その笑顔に安心し、私はますます熱を入れて語った。ジュルチャガも現れて語った。

 だが楽しい宴もいつかは終わる。気が付けばバルド様はいなくなっていた。カーズ殿も。

 私は突然寂しさを覚えて城壁に登った。一人きりになってみると、不安と心細さが全身をひたしていた。

 バルド様たちと離れてゴリオラに帰るのがいやだった。あの家で兄上から情欲の目でみられるのがたまらなくつらかった。

「酔った?」

 いつのまにかジュルチャガがそばに来ていて、そう言った。

「いや。そういうわけではない。ただ、ふと先のことが不安になったのだ」

 そう返事した私に、ジュルチャガは驚くべき言葉を告げた。

「あのね。アーフラ兄ちゃんやお父さんにね、こう言っちゃったらどうかな。

 私には好きな人がいます。その人と一緒に生きることが私の幸せです、って」

 私は目を見開いてジュルチャガを見た。

「そうしたらさあ。案外アーフラ兄ちゃんも、思いを変えてさあ。ドーラのことを祝福してくれたりするかもしれないよ」

 知っている。

 この男は私が何に悩んでいるのかを知っている。

 兄上が実妹である私に寄せる想いに気付いている。気付いているからこそ、そう言うのだ。

 できるのだろうか。

 そんなことができるのだろうか。

 私は家の中ではただの女にすぎない。他家に比べれば、たぶん自由奔放に振る舞うことを許されていたが、いざというときには父上や兄上のお考えに異を唱えるなど思いもよらないことだった。

 だが。

 許されるのだろうか。

 自分には好きな人がいて、その人と共にあることが幸せなのだと。

 庶民の娘でもあるまいに、そんなことを考えることが許されるのだろうか。

 そう言い放つことが許されるのだろうか。

 その言葉を言い放つことができたら。口にすることができたら。

 そのときこそ私は翼を得ることができる。

 ジュルチャガは暗闇にあった私の心に火を灯してくれた。

 バルド様のお考えかもしれないと思ったので、バルド様にもお礼を言った。

 それから思いもよらないことが起きた。

 わが家からの招待を一度は退けたバルド様だったが、子息カーズ殿を名代に差し向けてくださったのだ。

 私はシェルネリア姫様に頼み込んで、わが父の使いとカーズ殿を姫様の一行に同行させていただいた。

 姫様の供付きである私はほとんどカーズ殿のそばに寄ることはできなかったが、幸せだった。

 この行列の中にカーズ殿がおられる。

 そう思うだけで胸が熱くなった。

 野営のときなどは、思わず目の端でカーズ殿を探したものだった。

 その一方、私は一つの問題を抱えていた。

 好きな人がいると父上と兄上に告げる。それは心に決めた。だが、

「それは誰だ」

 と訊かれたら、私は何と答えるのか。

 具体的な名は答えないほうがいいとジュルチャガは言った。好きな人がいるというのは、いわば方便なのだとジュルチャガは思っているのだから、それは当然だ。

 だが、私の心はどうなのか。

 好きな人がいます。

 それは私にとって間違いなく心からの真実の声だ。

 だが、私が本当に好きなのは誰なのか。

 父のようなバルド様か。バルド様は限りない包容力で私を包んでくださり、私に恩寵をお与えくださる。それは恋人に寄せる想いとは少しちがうかもしれないが、しかし結婚とはおのれを守り支えてくれる者と契りを結ぶことであり、その意味ではバルド様ほど私が想いを向けるのにふさわしいかたはない。

 師のようなカーズ殿か。カーズ殿は私とまっすぐに向き合い、私を鍛えてくださった。それは私の可能性を信じていてくださるからこそであり、私はそれに応えることができた。それはなんと甘美で胸はずむ経験であったことか。カーズ殿のおそばにいれば、私はどこまでも高みに上ってゆける。

 友のようなジュルチャガか。私はこれほど心許してわだかまりなく話し合えた相手を知らない。ジュルチャガといるとき、私は素直で開け広げで、そのままの私であれる。構えたり、隠したり、言い繕ったりする必要は何もない。甘えたいときには甘えればよい。いや、それすら必要ない。私が慰めを必要とするとき、何も言わずともジュルチャガはそれをくれるのだから。こんな人を私は知らない。

 なんということだ。私は三人の殿方を愛している。そのどれもが本当の恋だ。私はこんなにもふしだらな娘だったのか。けれどもこの胸の想いを消すことはできない。

 旅はあっというまに終わり、私は皇都に着いた。

 心に迷いを抱えた私を、しかし周りのほうがほっておいてくれなかった。パルザムへの出仕のことがわが家で問題になったのだ。未婚の娘を何年にもわたって他国に招くというパルザム王太子殿下のおぼしめしに、父上と兄上は怒りを示した。

 ここは本当は、私が感謝すべき場面だった。その怒りは私のためを思えばこそだ。ふつうの貴族家なら、よくやったと褒められ、しっかりパルザム王太子に取り入ってわが家に有力な縁故をもたらせ、と言われるところだ。

 だが、できるだけ早く帰国して落ち着くようにと、あまりにくどくど説き聞かされ、私は爆発した。爆発して、言い放った。

 私には好きな人がいます。その人と一緒になるのが私の幸せです、と。

 言った。

 言えた。

 私は思わずその言葉を言い放つことができた。

 あとでしみじみと思ったが、この言葉が力を持つのは、父上と兄上の愛情ゆえだ。

 高位貴族家の娘に個人の幸せなどない。家のためにしかるべき殿方と結婚し、その中で幸せを作るものなのだ。だが父上も兄上も、家の都合を私に押し付けようとはしなかった。そのことは感謝しなくてはならない。もっとも兄上は、私を他家に出すかわり、おのれのもとに置こうとしていたのだけれど。

 翌日皇宮の出仕から帰った私に、耳を疑う知らせがあった。

 兄上がカーズ殿と決闘することになったという。キリー師範を立会人に呼ぶというのだから、いよいよ本気の決闘だ。なぜそんなことに。そのわけは家宰も知らなかった。

 もちろん決闘はカーズ殿の勝利に終わった。あとで聞いたのだが、キリー師範もカーズ殿に挑んで敗れたらしい。

 そのあと、もっと奇妙なことが起きた。カーズ殿は皇宮でより抜きの武人たちと戦うことになったというのだ。そのわけを教えてくれたのは父上だった。

「カーズ殿から一本でも奪う武人がいれば、バルド・ローエン殿がわが国にお越しくださるという約束なのだそうだ」

 どうしてそんなことに。

 けれどこと細剣の試合、つまり決闘剣の試合で、たとえ相手が誰であろうとカーズ殿が負けるなど考えられなかった。あのかたは地上に降り立った武神だ。

 私はわくわくしながら六日間二十四回の試合を見守った。

 そうだ。全試合を観ることを許されたのは、シェルネリア姫様とその護衛である私だけだ。皇王陛下も公務の日程上、限られた試合しかごらんになることはできなかった。他の王妃がたや皇女がたは観戦できる日程が限定されていた。なぜシェルネリア姫様だけが例外なのかは知らないが、とにかく私は夢中になって観戦した。

 誇らしかった。カーズ殿の強さ、揺るぎなさ、飾らなさが誇らしかった。一試合ごとに、私の気持ちはカーズ殿に引きつけられた。これが私の恋人なのだと叫びたくなったほどだ。

 それだけに、全勝で試合を終えたカーズ殿がさっさと皇都をあとにしたとき、私は途方に暮れた。わが家は私にとりひどく居心地の悪い場所となった。

 意外に早く、シェルネリア姫様への婚姻の申し込みと、私への招請があったので、救われた思いがした。私はご使者のあとを追うようにしてパルザムに旅立ったのだった。

 パルザムにはバルド様が、カーズ殿が、ジュルチャガがいた。そのことが私を歓喜させた。

 パルザム王宮の軟弱で華美なありさまには少しとまどったけれども、私は楽しかった。とにかくまずは身の務めをしっかりと果たさなくてはならない。時間はあっというまに過ぎていった。

 やがて姫様が嫁いで来られた。

 いろいろなことがあった。四謝の舞いの舞手に指名されたときには驚いたが、戦争のことはあまり心配していなかった。ゴリオラも、常に複数の国と戦争していた。パルザムも同じようなものなのだろうと思っていた。

 バルド様が魔獣の大襲来からロードヴァン城を守りに出られると聞いたときには、思わず参戦したいと申し出てたしなめられた。それはその通りだ。私には王宮でこそやるべき仕事がある。

 バルド様は、信じがたいほどの数の魔獣たちを退け、王都に帰って来られた。カーズ殿もジュルチャガも無事だった。私は安心のため息をついた。

 いつのころからか、私はバルド様の屋敷に足しげく通うようになった。よく顔を合わせるシャンティリオン殿は、やはりバルド様のことを敬愛しており、話が合った。シャンティリオン殿と過ごす時間は楽しかった。シャンティリオン殿は、あれほどの剣技の持ち主でありながら、まったくおごるところもなく、気さくに接してくださった。私は異国で友を得たのだ。

 ああ、だけれども。

 私が話をして一番安らぐのは、やはりジュルチャガだった。ジュルチャガはしょっちゅう王宮にも顔を出した。どう考えてもいてはいけない場所にも平気で顔を出したが、周りの者は不審にも思わないようで、それが不審といえば不審だった。

 私は何度かソーシエラ神への恋の供犠を行った。それはカーズ殿とジュルチャガと、どちらに向けてのものだったろうか。パタラポザ神にも恋の供犠を行おうかと思ったけれど、パタラポザ神の好む物など誰も知らなかった。

 私はだんだんジュルチャガに惹かれていった。ジュルチャガも私との親しみを深めていった。けれどもある一線を越えようとはしなかった。

 ジュルチャガは自分と私のあいだには越えがたい隔たりがあると考えているのだと、私は思った。準貴族という身分があれば実は結婚はできるのだけれど、そんな問題ではない。生きていく場面とか場所とか、住む世界とか、そんなものに決定的な隔たりがあるのだと、ジュルチャガは感じているようだった。

 逆にいえば、それだからこそ、ジュルチャガは私と親しみ、戯れることができたのかもしれない。

 私はジュルチャガとの関係にせつなさを覚えるようになった。


7


 こうして恋の悩みを抱えながらも、もちろん私は王宮での勤めに励んだ。シェルネリア姫様が輿入れされてからは、いっそう熱心に務めた。

 だが一生懸命努めれば努めるほど、私の滞在時間は短くなっていくのだった。

 たぶんパルザムの王宮には、父上のご意向が、つまり務めが終わったら可能な限り早く私を国に帰してほしいという希望が、何らかの形で伝えられていた。パルザム側の日程の調整のしかたが、そうとしか思えない動きなのだ。

 帰りたくなかった。

 このままパルザムにいたかった。

 誰か私を引き留めてください、ずっとここにいられるようにしてください、と大声で叫びたかったけれども、私がしたことといえば、いっそう務めに励むことだった。

 そんなとき、私の心にある思いつきが浮かんだ。

 私がゴリオラに帰ることが避けられないならば、三人がゴリオラに来るように仕向ければいい。

 あるときシェルネリア王妃様のもとにゴリオラの外務卿補があいさつに伺候したとき、私は控えの間で外務卿補に話を振った。

 そういえば、皇王陛下はバルド・ローエン卿様をお招きなさりたいご意向ではありませんでしたか、と。

 それを聞いて、外務卿補はにこやかな顔をして、

「おお。まったくそうですな」

 と答えたが、頭の中では素早く考えをめぐらせているようだった。

 バルド様はゴリオラ皇宮で絶大な人気がある。特にご婦人がたに。また、皇王陛下とされても、御自らの治世のうちに起きた瑞祥の象徴としてバルド殿を利用しており、バルド殿が来訪されることは望むところであるはずだ。

 カーズ殿の連続御前試合での勝利のため、そのことは沙汰やみのようになっているが、ここで外交手段を用いてバルド殿を招聘しても何の問題もない。

 そしてそれを取り仕切って実現すれば、外務卿補にとって大きな政治的功績になる。

 外務卿補は本国と連絡をとって、皇王陛下じきじきの賓客としてバルド殿をお招きする手はずを調えた。そして、じわじわとバルド殿との折衝に入っていった。

 一方、兄上とマルエリア姫との結婚が決まった。

 これは薬が効きすぎたかと、私は驚いた。

 ゴリオラからパルザムへの援軍に、志願して兄上が同行なさったと知り、私は、兄上は私の様子を見届けにいらしたのだ、と思った。

 そこでことさらにジュルチャガといちゃいちゃしてみせた。ジュルチャガはこういうとき、わけも聞かず話や態度を合わせてくれるから助かる。

 兄上もさすがにバルド様のお宅の中ではゴリオラの自家にいる時のようには振る舞えず、私たちを怒鳴りつけるわけにもいかない。いらいらしている様子だったが、ある時点から、急に気落ちした態度をみせるようになった。

 それは芝居かもしれないので、私は油断しなかった。だが、ヒルプリマルチェでの決戦が終わり、バルド様が眠ったままご帰還なさっても、兄上の態度は変わらなかった。

 もう一押しだと思った。

 そこで、見舞いに訪れたマルエリア姫の背中を押したのだ。

 マルエリア姫は、初対面のときから兄の美丈夫ぶりに惹かれていたから、妹である私に励まされ、兄に優しく話しかけていた。

 兄上も、美しく優しいマルエリア姫との会話になぐさめを見いだしたようで、二人は見る見る間に親密になっていった。

 よし。

 これでいい。

 気に入ったら現地妻にでも何にでもなさって、大いに可愛がってさしあげるといい。

 それで私から心も離れていくだろう。

 そう思っていたのだが、まさかゴリオラに招いて正妃にするとは思わなかった。

 また、マルエリア姫も、よくもはるばるゴリオラまで嫁ぐ気になったものだ。嫁がせた家にもびっくりだ。パルザムはゴリオラを蛮人の国とみなしているからなおさらだ。

 けれどこれは好都合だ。

 優しいマルエリア姫が義姉になってくださるのなら、申し分ない。

 そしてそれは、たぶんもう二度と兄上にわずらわされることがないのを意味している。

 婚礼の行列とともに私が帰国し、その行列にバルド様が同行されることが決まったとき、私は心で快哉を叫んでいた。有頂天だった。

 だから、ゴリオラ皇国に入って間もなく、バルド様がマヌーノの女王に呼び出されるという予想不可能ななりゆきで、カーズ殿とジュルチャガを連れて立ち去ってしまったとき、私は足元の大地が崩れ去ってしまうように感じた。

 なんという非常識な人なのだろう、バルド様は。

 どうにも逃げられないからめ手で絡め取ったはずなのに、こんな方法でするりと逃げ去ってしまうとは。

 私は悄然として帰宅した。

 そこに喜びはなかった。

 兄上は結婚して別棟に住むようになり、あまり顔を合わせなくなった。

 父上も、どういうふうに私を気遣ってか、嫁に行けとも婿を取れとも、何をせよともおっしゃらなかった。

 私は自由だった。何をしてもよかった。だが、何をする気にもなれなかった。

 懐かしいわが家もわが部屋も、今や心のおりだった。

 なぜかそのとき私の心に浮かんだのは、辺境に行きたい、という強い思いだった。

 けれどももちろん、女一人で辺境のどこに行くあても、何をするあてもなかった。

 今やゴリオラ皇国にはシェルネリア姫様もおられない。

 帰国した初めのうちこそ、王妃様がたや皇女様がたからパルザムの土産話をせがまれて参内したけれども、そのうち本当にすることがなくなった。

 私は抜け殻のようになって、毎日窓を眺めていた。

 そんなふうになって一年が過ぎたある日、家宰が私の部屋を訪れて言った。

「カーズ・ローエン様がおみえです。妻乞いのご使者であられるとのことです」

 私は不覚にも、涙をあふれさせた。


8


 しかし、妻乞いの使者だと。

 求婚の使者だと。

 カーズ殿が使いだというのだから、私を妻に欲しいというのはジュルチャガにちがいない。

 だがジュルチャガごときが、カーズ殿ほどの騎士を使いによこすとは。

 ジュルチャガめ、何様のつもりだ。

 どうして自分でやって来て言わないのか。

 私に直接言わないのか。

 あなたが妻に欲しいと。

 私はぷりぷりと怒りながら迎賓館に向かった。

 正式の妻乞いの使者をただの応接間で迎えるわけにはいかない。

 迎賓館の貴賓室に行くのかと思ったら、なんと大広間に案内された。そこにはすでに父上や兄上がたや重臣たちがぎっしりと詰めかけ、カーズ殿を取り囲むように立ち並んでいた。マルエリア義姉上のお姿もある。

 全員がそろったとみて、父上が口を切った。

「ご使者殿。口上をお聞きしましょう」

 目もくらむような高位貴族の集団に相対しながら、カーズ殿の態度は自然で構えるところもなく、静かで悠然としていた。

 着替えの正装さえなく、旅汚れ着古した革鎧をまとった妻乞いの使者だったが、カーズ殿が示した見事な礼容は、その衣服のみすぼらしさを忘れさせた。

 その作法は洗練されているといってもよい美しさを持っていた。このときの私は、カーズ殿が王族の出であるということなどまったく知らなかったから、ただ驚いてその所作を見つめていた。

 見慣れない古風な礼を取ると、カーズ殿は口上を述べた。

 フューザリオンの統治者ジュルチャガの使いとして来たこと。

 フューザリオンは、東部辺境最北端フューザのふもとにジュルチャガが開いた村であること。

 ジュルチャガは、その正妃として、ファファーレン家のドリアテッサ姫を妻に迎えたいと欲していること。

 口上を述べ終えると、カーズ殿は胸に拳を当てて腰を折り、ファファーレン侯爵家当主の返答を待った。

「カーズ・ローエン殿。ご口上の旨、承った。ご使者の儀、大義。即答はできかねるゆえ、数日滞在なされよ。お疲れでなければ今夕、歓迎の宴を持ちたいが、いかがか」

「は。仰せのままに」

 そしてその夜は一族の重鎮が集まった大宴会となった。

 一族の者たちや重臣は、入れ替わり立ち替わり、カーズ殿に酒をつぎ、質問をした。

 カーズ殿は残らず酒を受け、質問に答えた。

 質問はまず、フューザリオンとはどういう所か、ということに集中した。

 カーズ殿の口から語られるその様子は、まさに別天地といっていい。

 人口は今は大きな村というほどでしかないが、野獣を近づけぬという不思議な野菜。

 肥沃な大地、あふれる獣や鳥や魚。

 無尽蔵といってよい塩、次々と発見される鉱物資源。

 ふつうなら疑うべきところなのだが、カーズ殿の口から聞かされると、それは掛け値なしの事実だと感じられるから不思議だ。

 もっとも、ただよいところばかりを並べ立てたわけではなく、周囲の街に警戒され怪しまれて売り惜しみをされていることなども説明した。

 この人は、こんなにしゃべれる人だったのだ。

 しかも、その態度。

 貴族とは武威と位階によって成り立つ。

 位階とは身分爵位のことであるが、位と言い換えてもよい。

 位とはすなわち品格である。

 カーズ殿から発せられる品格は、まさに最上級の貴族家にふさわしい。

 武威についてはいうまでもない。

 居並ぶ者たちの誰もが、カーズ殿の威と位に感銘を受けていた。

 質問は次にカーズ殿自身のことに移っていった。

「カーズ殿の品格はただごとではない。いずれ名のある貴族家のご出身なのであろう」

「古き名は捨てましたゆえ、その儀はどうかご容赦を」

「おお、そうでしたな。滝のほとりの騎士の誓いですか。あの銅像ができているのはご存じですかな。いやいや、失礼いたした。なにしろわが妻と娘はカーズ殿に大変なあこがれを抱いておりましたな」

「奥方様とご令嬢によろしくお伝えください」

「カーズ殿。わしからも一杯受けてくださらんか。ところで皇宮での御前試合、第三日の第一試合をわしも観戦したのです。いや、感じ入った」

 長老たちや重臣たちは、非常にカーズ殿に好意的にみえた。敬意さえ感じられた。

 どうも私を助けてくれた冒険譚が思った以上に彼らに感銘を与えていたようだ。そして先年の皇宮での二十四番勝負は決定的だった。あれに参戦した騎士たちは、細剣の剣技にかけてはわが国の最高峰にある人たちで、その二十四人からただの一本も取られず勝利を収めたことは、まさに神業といってよかった。

 今の皇都でカーズ殿は、英雄と呼ばれるべき伝説の武人なのだ。

 私は、といえば自分でも驚いたことに、上気した頬をもてあましながら、会話にも参加せず、ただ黙って座っていた。

 感動していた。

 あのめんどくさがり屋のカーズ殿が、皆との談笑に付き合って、言葉を惜しまず受け答えをしていてくれる。

 私のために。

 私とジュルチャガのために。

 そのうれしさをかみしめるほどに、求婚されているのだという事実が心にしみてきて、恥ずかしかった。

 うれしくて、恥ずかしかった。

 翌朝、おもだった者が集まり、結婚の申し込みを受けるかどうかを協議した。

 何人かの意見を聞いたあと、父上は、

「では、この求婚は承諾することにいたす」

 と宣言し、迎賓館の貴賓室にカーズ殿を招いて、その旨を告げた。

 カーズ殿はそのままフューザリオンに帰ろうとした。

 父上はあわててカーズ殿を引き留め、カーズ殿はもう一晩だけファファーレン家に泊まることになった。

 帰る。

 明日、カーズ殿が辺境に帰る。

 私はもうどうにも我慢ができなかった。

 そのあと本当に家族だけで輿入れの相談を始めたが、私は言った。

「明日、カーズ殿とともにフューザリオンに参ります」

 もめた。

 大騒ぎになった。

 意外にも、その大騒ぎを静めたのはマルエリア義姉上だった。

「まあまあ、お義父様も、あなたも。この一年のあいだ、ドリアテッサ様がどれほど沈んでおられたか、よくご存じではありませんか。それに引き換え、今のお顔の生き生きとして美しいこと。ここで引き留めて、またあの沈んだお顔を見たいとおっしゃるのですか」

「しかし、お前。ファファーレン家から輿入れするのだぞ。それなりの格式をもって送り届けねばならん。それに第一、男ばかりのところに花嫁一人を先にやるなど、許されん」

「そうですの。でもあなた。辺境の魔獣討伐とそれに続く修行の時期には、かの殿方たちとドリアテッサ様は何か月も辺境でお過ごしになったのではないかしら。今さらというものですわ」

「きちんとした婚礼を挙げなくてはならんと言っているのだ。式や宴の取り運びもきちんとしたものにしなくてはならん。それに、ドリアテッサが生活するにふさわしい道具類もなくてはならない。あちらにそんなものがあるかどうか、使者をやってまず確かめねば」

「では、ファファーレン家がその準備をいたせばよろしいのではなくて。馬車十台、いいえ、馬車二十台の品を選び、あなたが送り届けて、そしてあなたが指揮して婚礼を取り仕切られてはいかが。もちろんお品の準備には私も全力であたりますわ」

「私が結婚式を取り仕切るだと」

「ええ。あなたがふさわしいと思うように、ご存分になさればよいのですわ」

「む、むむ」

 誰だ。

 目の前にいるこの女性は、誰だ。

 兄上の前でろくに物も言えずはにかんでいた、あのマルエリア姫はどこにいった。

 この人は私より年下のはずだが、この風格はどうしたことか。

 いや。

 わが父上の正妃であった兄上の母上が亡くなられて久しく、今は父上にはしようはあってもはない。だから継嗣の正妃である義姉上がわが家の財物の扱いについて大きな発言権を持つのは当然だ。

 だがこの女性ひとは、こんな人だったか。

 この人は、私が利用するために兄上にあてがった女性によしようだ。

 いや、そうではなかったのか。

 利用されたのは私のほうだったのか。

 いやいや。

 利用したのであっても、されたのであっても、そんなことはもうどうでもいい。今大事なのは、マルエリア義姉上は私の味方だということだ。

 私はそう思い、義姉上と一緒に兄上の説得にかかった。

 兄上はほどなく陥落し、私は翌日カーズ殿と出かけられることになった。

 なんだ。

 兄上は、こんなにたやすい人だったのだ。

 それまでの私にとり、兄上は侵すべからざる人であり、威厳の固まりであり、一度決めたことは絶対に曲げない人だった。

 だが、そうではなかった。

 兄上もふつうの人間であり、弱さももろさも持った人だったのだ。

 そう気付いた瞬間、私は兄上のくびきから自由になったのだった。


9


 カーズ殿との旅は胸はずむものだった。

 フューザリオン。

 フューザリオン。

 なんて雄大な名だろう。

 なんて夢あふれる名だろう。

 私の心はあこがれと、これから出会うものへの希望でいっぱいになった。

 ところがいざオーヴァを渡り、ヒマヤから北に進んでフューザリオンが近づいてくると、急に不安に襲われた。

 そうではないか。

 確かにカーズ殿が妻乞いの使者に来てくださった。しかしそれは、聞けばバルド様のご指示によるものであり、ジュルチャガ自身の命令ではなかったのだという。

 それはそうだろうと私は思った。バルド様がカーズ殿を差し向けるというのなら分かる。ジュルチャガがそんなことをするわけがない。

 しかし。

 しかし、では。

 ジュルチャガが私に求婚したわけではないのだ。

 カーズ殿は私とジュルチャガが想い合っていると思っている。そう思われるように振る舞ってきたのだから、それは無理のないことだ。

 けれど、本当は、どうか。

 ジュルチャガの本当の心は、どうか。

 私を愛おしく思ってくれているのだろうか。

 いくらかは愛おしく思ってくれている。それは今までのやり取りではっきりしている。

 しかし妻にしたいほど強く想ってくれているだろうか。

 考えれば考えるほど不安は増した。

 もしもフューザリオンに行ってジュルチャガがきょとんとした顔をしたら、どうしよう。

 迷惑そうな顔をしたら、いったいどうしたらいいのか。

 しかもそれは、だんだんとありそうなことに思えてきた。

 美しいフューザが間近に迫ってきても、それを味わう余裕さえなかった。

 集落が見えてきたときには、私は息苦しくてならなかった。

 いた。

 ジュルチャガが外で仕事をしている。

 バルド様も一緒だ。

 私は迷いを振り切るようにクリルヅーカを疾走させ、ジュルチャガの前で飛び降りた。

 私の頭はからっぽだった。

 だがその瞬間、言うべき言葉がひらめいた。

「約束通り、嫁にしてもらいにきたぞ」

 ジュルチャガは、あたふたしていた。

「ちょ、ちょ。え?

 約束?」

「そうだ。あの滝のほとりからヒマヤに向かう道中で、私を嫁にもらってくれると言ったではないか。忘れたのか。ひどいやつだな」

 そうだ。

 それは戯れのような言葉だった。私の夫になり手がないという話を聞いて、そんならおいらがドーラをお嫁さんにしてあげようか、とジュルチャガは言ってくれた。その言葉は妙にうれしかったのだ。そして今は、その戯れのような言葉にすがって、私はジュルチャガの前に身をさらすほかなかった。

 どうか。

 どうか、「そんなことあったかなあ」などとは言わないでください。

 どうか私を受け止めてください。

 ジュルチャガ。

 お願い。

 私の心は震えていた。心だけではない。膝も震えていたろう。もう少し待たされたら、私はその場にくずおれてしまったかもしれない。

 だがジュルチャガは、迷うこともなく手を胸にあてひざまずいてこう言った。

「ドリアテッサ姫。このジュルチャガめの妻となってくださいませ」

 そのとき、私はジュルチャガに本当の恋をした。


10


 それから五年が過ぎた。

 今私は二十八歳だ。

 ジュルチャガは、交渉はうまいし、人の心をなごませ、集団の雰囲気をうまく導くことができる。

 その半面、人や物や財貨を全体として管理する感覚には欠けていた。

 あんなどんぶり勘定では、すぐに行き詰まってしまっただろう。

 村の土地すべてはジュルチャガのものであり、住人はそれを貸し与えられているのだ、という点はさすがにバルド様がきちんと言い渡しておられたけれど、その運用はずさんなものだった。

 私は統治する者とされる者とのけじめをつけさせ、明確で容赦のない税の取り立てを行った。

 初めは反発や抵抗もあったけれど、結局はそれが村全体の豊かさにつながるのだと、村人たちも得心していった。

 私は村の管理運営に腐心した。

 五人のみなしごは私にとっても子ども同然となった。

 その成長ぶりを私は誰よりも喜んだ。

 フューザリオンはみるみる発展し、人が増えていった。

 もう一人きちんとした騎士がいれば、と思う私の心にトランティリア神がお応えくださったかのように、騎士ヘリダンが村を訪れた。

 私はこの有能で誠実な男を絶対に逃がす気はなかった。相手が私にかつての襲撃のことをわびたのをよいことに、オルガザード家の騎士となりこの村のために力を尽くせ、と命じた。

 ヘリダンはこれを承諾してくれ、私はぐっと楽になった。何しろこのときまで、まともな帳簿の付け方を知っている者は私しかいなかったのだ。

 ジュルチャガとのあいだに男の子が、次に女の子が生まれた。

 兄上にも子が生まれた。

 私は幸福だった。唯一の不満といえば、バルド様の旅についてゆけないことぐらいか。バルド様は老いるということを知らず、相変わらず英雄譚そのものの冒険を続けておられる。本当にこの人は何者なのだろう。

 バルド様が旅に出ると、カーズ殿も一緒に出て行ってしまう。

 しかし私は寂しくはない。バルド様にとってもカーズ殿にとっても、この村は帰るべき場所であり、冒険が終わればたくさんの土産話とともに帰って来られることを知っているからだ。

 だが。

 だが、まさか。

 カーズ殿が結婚なさるとは。

 いや、ハドル・ゾルアルス伯爵とのやり取りについて聞いていたから、いずれその日が来るのだとは知っていた。

 しかしこんなふうに突然それが訪れるとは思ってもみなかった。

 しかも相手はあの得体の知れない小娘だというのだ。

 カーズ殿。

 あなた、だまされていませんか。

 そんなことを考えてみたが、この婚礼をやめさせることはできなかった。

 本当に突然のことだった。

 だから私は心の準備をするまもなくこの場に立ち、こんなにも動揺している。

 どうしてだろう。

 今の私はジュルチャガだけを愛しているはずだ。

 カーズ殿のことなど、とうの昔に思いきったはずなのに。

 この胸の痛みはどうしたことなのだろう。

 ああ。

 けれど。

 けれど、たぶん。

 これは必要なことなのだ。

 私が本当に心の底からカーズ殿をあきらめ。

 師として、兄として接することができるようになるために。

 これは通らなくてはならない関門なのだ。

 この胸の痛みは、だんだんと小さくなり。

 やがては思い出に変わるのだろう。

 そうだ。

 それでいい。

 私はかつて三人の殿方に恋をした。

 そしてそのうちの一人と結ばれた。

 愛する人とのあいだには子どもたちもできた。

 けれど私には別のものもある。

 このフューザリオンだ。

 このフューザリオンこそは、バルド様とカーズ殿とジュルチャガの三人の愛子まなごといってよい。

 私はこのフューザリオンを立派に育て上げる。

 それが私の三人の殿方への愛のしるしなのだ。

 心の奥に秘めたこの想いは、決して誰にも告げることはない。

 ただトランティリア神だけがご存じだ。

 そうだ、私は渾身の愛情をもってフューザリオンをいつくしむ。

 それと、もう一つ、私はしるしを求めた。

 ユエイタンとクリルヅーカの子だ。

 五年前からつがわせているのだが、なかなか子ができない。

 二度できたが死産だった。

 だが私は諦めない。

 いつかきっと、ユエイタンとクリルヅーカの子を、私は得る。

 それはアフラエノクシリンの馬となるのだ。

 バルド様と私が結ばれてそのしるしを残すことなど、夢にもあり得ない。

 だからその代わりに、アフラエノクシリンの馬を私は授かりたい。

 それくらいは望んでも許されると思うのだ。

 そうだ。

 そうだ、いつかきっと。

 だが今は、心を静め、カーズ殿にお祝いの言葉を申し上げなければ。


「カーズ殿。おめでとうございます」





(おわり)2013.11.4

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