第2話 テンペルエイド

 1


「うわあっ!

 見て、見てっ。

 ほらっ。

 大障壁が、あんなに近い!」


「おおっ。

 すごい。

 何という雄大な」


「むう」


 少し見晴らしのよい峠に出たとたん、まずカーラが駆けだし、タランカとクインタが続いた。

 こういう動きの軽さをみると、年齢の差、というものをあらためて感じる。


 バルドは今六十六歳である。

 カーズの年齢はまあいいとして、ゴドンは確か四十六歳だ。

 タランカは、たぶん十八歳で、クインタは十六歳ぐらいだろう。

 カーラは自称十八歳である。

 そんなことで嘘をついても仕方がないから、その通りなのだろう。

 普段のカーラは、もっとおとなびてみえる。

 体がしっかり成長しているのは、幼いときからたっぷり食事を取ってきたからだろう。

 張り出した乳房や艶やかな肌は適度な運動によるものだろうか。

 そして考え深げなしぐさや、ふとみせる広い知識が、この娘を実際以上におとなびてみせるのだ。


 だがこうして珍しい風景に出合って目を輝かせている様子は、年相応である。

 年齢よりさらに若くみえるといってもよい。

 落ち着いてみえるタランカも、周囲に一生懸命警戒の目をめぐらせているクインタも、そこは同じだ。

 思わず馬を駆け出させ、一瞬でも早くその風景をみようとする動作が、若い。


 年を取ると、急な動作や無駄な動作を避けるようになる。

 やればできるのだが、それをするとあとで疲れがひどい、と体験で学ぶからだ。

 疲弊した関節や損傷のある部位に負担をかけないようにする、という知恵もつく。

 動作は体の調子と相談しながら行うようになる。

 その代わり、体を痛めない姿勢や力の込め方、そしてじわじわとおのれの体を痛めつけることへの忍耐を学ぶ。

 だから年配の者は、若い者が短時間で音を上げるような単純作業を長い時間行うことができる。


 若いうちは、体を痛めたり体力を失ったりすることへの恐怖が薄い。

 ゆえに感情のままに走り回り、動き回り、感動を口にする。

 それでよいのだ。


 ゴドンは、とみれば、目を細めて若者たちの様子を見ながら、自分も少し馬足を速めている。

 壮年で体力の塊のようなこの男も、その動作には落ち着きがある。

 だが、何か妙な出来事や気にかかることが起きれば、猛然と動くだろう。

 これもまた年相応の動作のありようだ。


 いっぽうバルドはといえば、魔剣スタボロスの恩寵により体調は底上げされてはいるが、やはり年相応に腰も痛むし全身の関節もきしむ。

 無理をすれば疲労はたまる。

 だから、一日の中でのペースを意識しながら、今も愛馬ユエイタンを歩かせている。

 そうでなくても辺境奥地の道なき道をゆく行程は疲れるのだ。


 カーズは影のようにバルドのあとからついてくる。

 これは年齢や体力とは関係ない。

 この男のありようは、いつも揺るがない。

 それはそれで、よい。


 見えた。


 なるほど、これは絶景だ。

 峠の向こうには狭くて深い谷があり、その向こうには急峻きゆうしゆんな山がある。

 その山に沿って〈大障壁〉が、ジャン王の偉大なる壁が真横に走っている。

 手を伸ばせば届きそうだ。


 パクラ領以外で、これほど大障壁の近くに寄ったことはなかった。

 見れば見るほど、その威容が心を感嘆で満たす。

 右を見ても左を見ても、大障壁の端は尽きない。

 この大いなる壁は、人の住む世界を完全に取り囲んでいるのだ。

 しかもそれは、山や川や谷や空のように、神々の被造物ではない。

 太古の英雄である、ジャンという名の一人の人間によって作られたものなのだ。


 正面に見える山は左に目をやれば、なだらかに下向きの稜線りようせんを描いている。

 だがその向こうに何があるかを目にすることはできない。

 大障壁が立ちはだかっているからだ。

 この場所では、山の稜線がくだっても大障壁の頂上の高さは変わらない。

 だから大障壁の高さは普通およそ千歩であるが、ここでは二千歩あるいは三千歩の高さに及んでいる。

 このように、こちら側からその壁の向こうが見えそうな位置では、大障壁は高いのだ。

 まるで、その壁の向こう側を見ることを禁じるかのように。


 今までは不思議にも思わなかった。

 高い山々の峰をつなぐように大障壁が伸びていることを。

 大障壁が世界とその外側を隔てていることを。

 そういうものだと思っていた。

 むろん、大障壁は不思議だ。

 だが、世界は不思議に満ちている。

 なぜ川の水は日照りが続く年でも途絶えることなく流れ続けるのか。

 なぜ小さな双葉が巨木に育つのか。

 なぜ太陽神は空を駆けめぐり、光と熱を送り届け続けるのか。

 なぜ人は生まれ死ぬのか。

 そうした数々の不思議と同じく、不思議ではあるが当然のこととして受け入れていた。


 だが。

 大障壁の真実を知ってしまった今は。

 それが初めからあった物ではなく、途中で出来た物であり作られた物であったと知った今は。

 この壁の向こう側が気になってしかたがない。

 この壁の向こうの世界を見たくてしかたがない。

 それは人の住むわれらの世界と、元は一つであったのだ。

 今も同じなのだろうか。

 それとも、われらの知らない新しい世界がそこにあるのだろうか。


 それは大障壁の切れ目からわずかにうかがう〈向こう側〉ではなく、壁のこちら側とは風景もそれを形作るものもまるで異なる別の世界だ。


 もしかすると。

 そうだ、もしかすると。

 フューザに登れば、〈向こう側〉が見えるかもしれない。

 見たい。

 いつの日か、〈向こう側〉を見てみたい。


 ゴドンも、カーズも、タランカも、カーラも、クインタも、食い入るように大障壁を見つめている。

 それはしかし、世界の果てを見る感動だ。

 バルドも同じ物を見ているが、その目は大障壁を世界の果てとはみていない。

 別の世界が始まる場所として見ている。

 そのまなざしが。

 大障壁と精霊に今何が起きているかを解き明かしたいという熱望が。

 老いたバルドに新たな旅を始めさせた。


 薬師ザリアは、その身に精霊を宿す人間だった。

 そのザリアから聞いた精霊の記憶は、バルドに世界の歴史の真実を解き明かした。


 人間は、もともとこの世界の住人ではなかった。

 この世界は、神々と精霊と亜人たちのものだったのだ。

 そこに人間がやって来た。

 二派に分かれて争い始めた人間は、精霊や亜人たちをもその戦争に巻き込んだ。

 やがて戦争には決着がついたが、精霊たちは戻って来なかった。

 無限の命を持つはずの精霊たちは、復活するたびに獣に取り憑いて魔獣と化す宿命にはまり込んでしまったのだ。

 大障壁は、人と精霊を隔てる壁だ。

 この壁の向こうでも、精霊は魔獣となるが、人間の血を求めて狂うことなく、おだやかな魔獣として生涯を終えられる。


 だがその精霊を壁の内側に呼び込んで、千匹の魔獣を作らせた者がいる。

 何事かをたくらむ者がいる。

 その者は、ジャン王の定めた秩序を乱した。

 精霊を取り込み魔獣に変え、人の世界を蹂躙じゆうりんさせようとした。


 何かが起きている。

 それはまだ終わっていない。

 本当に恐ろしいことは、これから起きようとしているのではないか。

 だからバルドは知らねばならない。

 精霊と魔獣に、今何が起きているのかを。


 その鍵は亜人たちが握っている。

 だからバルドは、まず霧の谷を訪れ、ルジュラ=ティアントたちに会おうとしている。

 そしてまた、ジャミーンの勇者イエミテにも会ってみるつもりだ。

 彼ら亜人、いや、〈もとからの人々〉との対話により、何かがみえてくるに違いない。


 2


「村だ。

 村があるよ」


 というカーラの声に引かれ、目線を前方に送ってみれば。

 確かに村だ。

 大障壁近くのこんな場所に。

 水や森の恵みは豊かだろうし、雨風もしのげるような、谷あいの村だ。

 だが、よくも野獣たちから身を守れるものだ。

 それに塩はどうするのだろう。


 近寄ってみれば、うまく地形を利用して側面と背後を守り、前方にはなかなかしっかりした柵が作られている。

 畑も作っている。


「止まれ!」


 畑仕事をしていた男が木の槍を構えて立ちはだかった。

 その後ろのほうでも、ぱらぱらと男たちが武器を構えている。

 バルドは木の槍を持った男に話し掛けようとしたが、馬で近づいて来る者がいた。

 ならばあいさつはその男にしたほうがいい。

 やってきたのはまだ若い男で、驚いたことにおそらく騎士だ。

 騎士はバルドたちの前までやって来て、馬を止めた。

 薄汚い格好をしていて、髪もひげもよく伸びているが、振る舞いには力と品がある。


「まさか。

 バルド殿?

 それに、ゴドン殿?」


 そう話し掛けてきた顔をよく見た。

 その顔立ちと声に覚えがあった。

 そして腰の剣を見たとき、男の正体が分かった。


 ガルクス・ラゴラス。


 七年前のことだ。

 バルドは、ゴドンとジュルチャガと共に旅をしていた。

 エンザイア卿の城で、ルジュラ=ティアントのモウラと出会い、モウラを霧の谷に送る途中で立ち寄ったのがシェサの村だった。

 そこの領主の長男だったのがオーサ少年だ。

 オーサ少年に頼まれ、少年が死んだようにみせかけた。

 そうすれば波風を立てることなく弟に領主の後継の座を譲ることができるからだ。

 オーサ少年は一人旅立ったが、その押しかけの随行となったのが、この騎士ガルクス・ラゴラスだった。


 バルドとゴドンとガルクスは、再会を喜び合った。

 バルドは、旅の途中ふと村が目についたので立ち寄ってみたのだ、と言った。

 ガルクスは、周りの者たちに、


「このおかたは心配ない。

 領主様のお客人だ。

 みなは農作業に戻れ」


 と命じ、村の奥のほうにある家に一行を案内した。


 3


「やあ、バルド殿。


 本当に再会できたな。

 うれしいことだ。

 ちょっと体調を崩していて、こんな格好で申し訳ない」


 と、やつれた顔に笑いをみせて、オーサ青年は笑った。

 確か今十九歳のはずだが、体も大きく態度もしっかりしているので、二十四、五歳にみえる。

 自分たちとほぼ同じ年齢だと知って、タランカとカーラはびっくりしていた。


 七年前、バルドたちと別れてから、オーサ少年とガルクスは、この村にやって来た。

 そして村にとどまって野獣を倒したり、柵の作り方や野獣への備えについて助言するうち、村人たちに乞われてオーサ少年は領主となったのだという。

 名も変えた。

 今は、テンペルエイド・ガリという名だ。

 村の名はアギスという。


 少し離れた山の中に塩湖があり、塩はそのほとりで採れるのだという。

 年に二回か三回、ガルクスは毛皮を持ってクラースクに行き、金属製品や布などを手に入れる。

 暮らし向きは楽とはいえないが、何とかやっている。


 村人たちは、おそらく他の村や町からはみ出したり追われたりした人々だ。

 そういう人々が身を寄せ合って辺境のはずれに村を作ることは、よくある。

 ここまで奥地にあるのも珍しいが。

 そうした村は、先行きがない。

 だんだん貧しくなってゆき、ふとしたきっかけで消えてなくなってしまうものだ。

 辺境は、人には厳しい場所なのだ。

 この村は、まあまあよくやっている。

 しかしその未来は明るくはない。


 バルドたちは、このアギスの村に泊まることになった。

 ゴドンとカーズとクインタは、狩りに出掛けた。

 泊まらせてもらう謝礼に、肉と毛皮を手に入れてくるのだ。

 ガルクスも用事で出掛け、バルドとタランカとカーラが残って、テンペルエイドと話をした。

 話をしているあいだじゅう、カーラはテンペルエイドの様子が気になるようだった。

 ついに、


「ちょっと、ごめんなさい」


 と断ってベッドに近づき、テンペルエイドの診察を始めた。

 慣れた様子である。

 この娘は医療の心得があるのだろう。


「深く息を吸って、はいて」


 と言い、テンペルエイドの息の匂いを嗅いだ。

 眉をしかめている。


「内臓が、腐り始めているわ。

 でも、妙だわ。

 体全体は健康なのに、内臓が先に腐り始めるなんて。

 まるで毒でも飲まされ続けているよう」


 このカーラの言葉で、部屋の空気は一気に緊張した。

 しばらくは、誰も言葉を発しなかった。

 沈黙を破ったのはタランカだった。


「テンペルエイド殿。

 昨日一日で、何を口にしたか教えていただけますか」


「むう。

 朝起きて水を飲んだ。

 それから朝食を食べた。

 あとは夕食だな。

 ああ、それから、昼と夕方に茶を飲んだ」


「その朝食と夕食は、一度に何人もの分を作るのですか。

 それともテンペルエイド殿の分は特別に作るのですか」


「この家で食事をするのは八人ほどで、その八人分を一緒に作っている」


「そうですか。

 カーラ」


「何よ」


「もしも毒によるものだとしてだ。

 水に混ぜても気付かないかな」


「どんな毒を使ったかによるけど。

 でも匂いがするし、違和感があると思うわ」


「では、茶があやしい」


 訊いてみたところ、茶はこの村では高級品で、薬代わりにテンペルエイドは特別に毎日飲んでいるという。

 当然、その茶は専用の容器でれ、テンペルエイドだけが飲む。

 ここしばらく、その茶を入れるのはある男の仕事になっているということだった。


 4


 翌日、村は大騒ぎだった。

 朝早く狩りに出掛けたゴドン、カーズ、クインタが、斑縞鹿一頭と、大赤熊一頭をしとめたからだ。

 男衆がほとんど総出でこの大きすぎる獲物を解体し、運搬した。

 ゴドン、カーズ、クインタはその間見張りと護衛をした。

 解体の途中、肉と血の匂いに引かれて耳長狼が五頭現れた。

 四頭はまたたくまにカーズが仕留め、最後の一頭はクインタが苦戦の末倒した。

 カーズたちは前日にも山鳥と兎をしとめていた。

 しばらくは村中が腹一杯肉を食えるし、毛皮も使いでがある。


 そんな騒ぎをよそに、バルドとタランカとカーラは、テンペルエイドの部屋にいた。

 飲んだふりをして残しておいた茶を、カーラが改めた。


「クリジバの毒草の匂いと味がする。

 間違いないわ」


 タランカはテンペルエイドにいた。


「茶はいつも同じ人間がれるのでしたね」


「そうだ。

 ジンガという男だ。

 この男は、私の生家であるコンドルア家に仕えていたのだ。

 不始末をしたとかでシェサの村を追い出され、ぼろぼろになってこの村にたどり着いたのだ。

 私が生きていたと知って驚いていた。

 こんな所で知り合いに会うとは思わなかったから、私も驚いたがな。

 二か月前のことだ。

 以来、私に仕え、身の回りのことなどをやってくれている」


 バルドは騎士ガルクスを呼び、テンペルエイドの体調不良が毒によるものであること、それがジンガが淹れた茶に入っていたことを告げた。


「ジンガを呼びましょう」


 騎士ガルクスに呼ばれてやって来たジンガは、震えていた。

 テンペルエイドは直截な質問を放った。


「ジンガ。

 ここにおられるカーラ殿は薬師だ。

 私の体調不良が毒によるものだという。

 お前が淹れてくれた茶に、クリジバという毒草が入っていたというのだ。

 お前が毒を入れたのか」


 ジンガはその場にくずおれて泣き出した。

 そして白状した。

 不始末をしてコンドルア家を追い出されたというのはうそだった。

 テンペルエイドが出奔してから七年目に、テンペルエイドの母はテンペルエイドのことを知ったのだ。

 シェサ村の北方、大障壁の近くにアギスという村があること。

 その領主テンペルエイドの正体は、死んだはずの長男オーサであることを。

 そしてジンガにクリジバの根を乾燥させた毒の袋を与え、アギスの村に行って少しずつこの毒をオーサに飲ませるように命じた。

 長年の恩を思えばその命令を聞かないわけにはいかなかったという。


「そうか」


 テンペルエイドは、ベッドで上半身だけを起こした姿勢のまま、その告白を聞いた。

 そして、ジンガにこう言った。


「ジンガ。

 お前を苦しめて悪かったな。

 このことは私が決着をつけるから、心配するな。

 下がって休め。

 お前はシェサに戻ってもよいが、帰りにくいだろう。

 今まで通り、私に仕えよ。

 毒のことは、皆には言わぬ」


 そして見張りも付けずにジンガを下がらせた。

 目を閉じて、長いあいだ考えにふけったが、やがて身を折って泣き始めた。


「おお、おお。

 おおお。

 母上。

 母上。

 私はあなたがいとおしかった。

 あなたに孝たらんと欲した。

 あなたは私を愛してくださらなかったが、せめてそれ以上憎まれずに済むようにと願った。

 だから家督を弟のフィリカに譲ることを決心し、私は死んだふりをして家を離れたのだ。

 何もかもを捨てたのだ。

 だがあなたは私が生きていることを知った。

 あなたの心にはどんな疑心暗鬼がうずまいたのだろう。

 あなたは私を放っておくことができなかった。

 いつか私が力を蓄え、フィリカからすべてを奪いに帰ってくるとでも思われたのか。

 あなたは私に刺客を放った。

 母であるあなたに子殺しを決意させた私は、とんだ不孝者だ。

 ああ、ああ。

 母上!

 私を許されよ。

 私が一人なら、殺されてあげればそれで済んだ。

 あなたに安心をあげることができた。

 だが、私はこの村の領主なのだ。

 領主としての私は、あなたの罪を許すわけにいかぬ。

 この村の人々の安全と幸せを守るために、私は生き延びねばならぬ。

 母上。

 母上。

 この不孝者をお許しあれ」


 なんという深い情愛か。

 この独白は、すなわち神々に向けた告解の言葉であり、誓言だ。

 テンペルエイドが母に向ける思いが、ひしひしと伝わってくる。

 だが、生き延びねばならぬ、とは何を指すのか。

 バルドは悟った。

 テンペルエイドは母殺しを決意したのだと。


  いかん。

  この若者に母親を殺させてはいかん。


 テンペルエイド殿、とバルドは話し掛けた。


 5


 テンペルエイドは、泣きはらして赤くなった目を見開き、バルドのほうを見た。

 バルドは訊いた。

 シェサ村からこのアギスの村までは、どのくらいの距離があるかと。


「さて。

 ずいぶんと離れているだろう。

 百刻里はあるのではないか」


 その言葉を受けて、バルドは言った。


 そこがまず違うのう。

 確かに、シェサからここに来るのは大変じゃ。

 木々の生い茂る森を抜け、山や川を越え、霧の谷を迂回うかいしなければここには来られん。

 しかし距離でいえば、せいぜい四十刻里ほどしか離れておらん。

 辺境の奥地での四十刻里という距離はそう近いとはいえんが、何かの拍子に噂が届くこともある距離じゃ。

 テンペルエイド殿。

 おぬしは母親に憎まれずにすむようにと、死んだふりをして故郷を捨てた。

 その志は尊い。

 じゃが、もっと離れた場所に行くべきじゃった。

 そこにおぬしの落ち度がある。

 その落ち度が、母御に子殺しを決意させたのじゃ。


「ううむ。

 そうかもしれない。

 では、バルド殿。

 私はどうすればよいのですか」


 さらに遠い場所に移るのがよかろう、とバルドは言った。


「それは、できません。

 私とガルクスだけならできます。

 しかし小さいとはいえ、この村には六十人の人間がいます。

 これだけの人間が辺境の奥地で生きていけるような場所は、めったにあるものではありません。

 この場所が見つかっただけでも奇跡に近いのです」


 そこでバルドはフューザリオンのことを話して聞かせた。

 東部辺境の北のはずれに、新しい街が出来ていることを。

 そこには広く豊かで安全な土地があり、塩や布や農具が手に入るということを。


「大フューザのふもとか。

 そんな遠くならば、確かにシェサに噂が届くということもないだろう。

 ガルクス。

 どう思う」


「よい話のように思います。

 どのみち、この場所での生活にも無理がきています。

 このままではじわじわと滅んでいくだけです。

 そんな豊かな場所があり、私たちを受け入れてくれるというなら、移住すべきです。

 ただ、村のおもだった者にも意見を聞いてみましょう」


 そこでガルクスは三人の男を連れて来た。

 三人の男はテンペルエイドの説明を聞き、しばらく三人で話し合った。


「ご領主様。

 騎士ガルクス様。

 わしらには難しいことは分かりません。

 ただお二人が来てくださらねば、わしらはとうに死んでおったでしょう。

 お二人は、わしらを守り、村を調え、希望を与えてくださいました。

 お二人が移り住むべきだとおっしゃるなら、わしらはそれに従います。

 ただ一つ、気になることがございます。

 そのフューザリオンという街に移ったとき、ご領主様はどうなるのでございましょう。

 わしらは、テンペルエイド様以外のかたがご領主様になられるのなら、そこには行きません。

 わしらのご領主様は、テンペルエイド様以外にはおられません」


 これにはテンペルエイドも難しい顔をした。

 フューザリオンにはフューザリオンの秩序があり、しきたりがある。

 それを受け入れ従うのでなければ、自分たちを受け入れてはくれないだろう、とこの明敏な青年は考えたのだ。

 だが、バルドは言った。

 それはもっともだ。

 ならばフューザリオンの近くに移住し、そこに新たにアギスの村を作ればよい。

 フューザリオンはアギスと交流し、援助するだろう、と。


 さすがにこの提案には、テンペルエイドも驚いた。

 そんな都合のよい話があるのだろうかと、疑って当然だ。

 しかしバルドの顔をしばらく見つめたあと、バルドを信頼することにしたのだろう。

 ベッドから降りて、深く礼をした。

 騎士ガルクスも、村人の代表たちもまた、バルドに礼をした。


 アギスからフューザリオンまでは長旅になる。

 バルドたちがしたように、山脈を突っ切って進むわけにはいかないからだ。

 ハベル街道を西に進み、ヒマヤからフューザリオンを目指すことになった。

 バルドは地図を描いて与え、また、事情を説明した手紙をジュルチャガとドリアテッサに宛ててしたためた。

 おそらくテンペルエイドたちが到着するころには、バルドたちもフューザリオンに帰り着いているだろうが、念のためだ。

 これからテンペルエイドたちは移動の準備を始める。

 多くの荷車が必要だし、食料もためておかねばならない。

 テンペルエイドの健康も回復してからでなければ出発できない。

 出発はおよそ二か月後。

 移動には同じほどの日数がかかるだろう。

 馬の数も少ない。

 それは困難な旅になる。

 しかし希望のある旅だ。


 皆が事のなりゆきに安堵した表情をしているなかで、ひとりタランカは硬い表情をしていた。


 6


 夕食のあと、バルドはタランカを誘って月見に出た。

 そして、村はずれまで歩いて、タランカに話し掛けた。

 何か言いたいことがあるようじゃのう、と。


「バルド様。

 テンペルエイド殿をフューザリオンのそばに迎えるということは、果たしてどうなのでしょうか」


 バルドは心の中で笑った。

 やはりそのことだった。

 タランカが何を感じ考えたかを、じっくり聞いてみたいと思った。

 バルドの沈黙を受けて、タランカはさらに言葉を重ねた。


「テンペルエイド殿は若年ながらただ者ではありません。

 あの情愛の深さには驚きました。

 しかもその情愛さえも、領主としての務めの前に犠牲にする覚悟もお持ちです。

 あのときテンペルエイド殿は、母御と直接対峙し、そのいかんによっては母御を殺すことさえ決意したようにみえました。

 その覚悟の決まりかたは、並大抵のものではありません。

 しかも、この村にはあとからやってきたのに、乞われて領主になったといいます。

 そんな話は聞いたこともありません。

 加えてあのように領民から慕われています。

 テンペルエイド殿は、まさに英傑というべきお人です。

 そのようなかたが、フューザリオンのそばに来る。

 しかも領主の座を保ったまま。

 ということは小なりといえど独立領を持つということであり、オルガザード家の臣とはならないということです。

 こんなことをお認めになるとは、正直バルド様のなさりようが理解できません」


 テンペルエイド殿が来れば何が起こると心配しておるのじゃ、とバルドは訊いた。


「そんなことは明らかではないですか。

 あれほどのかたです。

 フューザリオンの人民の中にもその徳に引かれる者が出てくるでしょう。

 それはオルガザード家の権威を脅かすことになります。

 一つの国に太陽が二つあってはならないのです」


 お前は、ジュルチャガとドリアテッサが、テンペルエイド殿に劣ると思っているのか、とバルドは訊いた。


「そんなことは問題にしていません。

 問題は、ジュルチャガ様とドリアテッサ様が亡くなられたそのあとです。

 テンペルエイド殿は、お二人よりずっとお若いのです」


 そのあとというのは、アフラエノクのことかの、とバルドは訊いた。


「アフラエノクシリン様かどうかは知りませんが、ジュルチャガ様とドリアテッサ様亡きあとオルガザード家を継がれるかたのことです」


 ふふふ、とバルドは笑った。

 面白い。

 タランカは、実に面白い。

 バルドは体の向きを変え、森のほうを見た。

 辺境の奥地の森は、深い闇に包まれている。

 折り重なる山々を夜霧が包み、茫洋ぼうようとした裾野が幾重にも重なり合って視界をふさいでいる。

 それは、荒々しい生命、不可思議な生き物で満たされた未知なる世界だ。

 タランカに背を向けたまま、辺境はくらいのう、とバルドはつぶやいた。


  のう、タランカ。

  辺境は惛い。

  この暗さを照らすには、明かりは一つより二つのほうがよい、とは思わぬか。

  一つの明かりをほそぼそと守るのもよい。

  じゃが、二つの明かりが切磋琢磨せつさたくましながら大きな明かりになっていくのが、なおよい。

  そうは思わんか。


 背中のタランカから返事はない。

 バルドの言葉をかみしめているのだろう。

 ややあって、小さな、しかしはっきりした声でタランカは訊いた。


「ですが、オルガザードの跡を継がれるかたに、テンペルエイド殿と競い合うだけの器量があるでしょうか」


 驚くべき言葉だ。

 それは臣下として口にできるぎりぎりの、あるいはそれを超えた言葉だ。

 バルドは振り返ってタランカと顔を合わせた。

 タランカは真正面からバルドの顔を見上げている。

 その目には強い光がある。

 バルドはタランカの目を見据えながら言った。


  なければ、鍛えよ。


 タランカの目が見開かれた。

 そしてその顔に、喜びが浮かんだ。

 その次には、とまどいが浮かんだ。

 そして最後に、決意が浮かんだ。

 タランカは、バルドに礼をして、宿舎に帰って行った。

 決然とした足取りで。


 バルドは再び森のほうに向き直り、夜の辺境の風景をながめながら、深い笑みを浮かべた。

 面白い。

 タランカは、面白い。

 あの少年には、三十年先、四十年先が見えている。

 フューザリオンの発展の形が見えている。

 フューザリオンの騎士として、オルガザード家の臣として、しっかりと未来を見通している。

 今フューザリオンを支え導いている者たちがいなくなったあと、自分に何ができるのかを考えている。


 あの目に浮かんだ喜びは、バルドが発した鍛えよ、という言葉を受けてのものだ。

 タランカは、オルガザードの後継者が誰にせよ、その人物に仕えて力を振るう覚悟を持っている。

 その相手はタランカにとって侵さざるべきあるじなのだ。

 すなわちそれは、タランカが騎士としての忠誠の向け所をつかんでいるということにほかならない。

 だが、バルドは、その相手を鍛えよ、とタランカに命じた。

 鍛えてよいのだ、とタランカは受け止めた。

 臣下として命を受け従うだけでなく、その人物の成長を見守り叱咤しつたし錬磨する立場に立て、とバルドは命じたのだ。

 そう命じられた喜びが、表情に浮かび出たのだ。


 その次に浮かんだとまどいは、ではしかし自分にその人物を鍛えるだけの中身があるのか、というとまどいだ。

 ありはしない。

 あるとはいえない。

 まだ今のタランカは半端な従卒に過ぎず、知識も力も経験も何もない。


 その次に浮かんだ決意は、ならばまず自らを鍛える、という誓いだ。

 命じられた役割にふさわしく。

 命じられた役割を果たせるように。

 厳しく自分自身をまず鍛えねばならない。

 そうタランカは決意したのだ。


 バルドは思わず笑い声を立てた。

 愉快だった。

 辺境は惛い。

 だがその未来には光がある。

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