明日が来ない場所
戸松秋茄子
1
その兆候に最初に気づいたのは、アキだった。
「誰かここに来てるんだわ」深刻な口調で呟く。「わたしたち以外でって意味だけど」
アキの目線は彼女の足元に向けられていた。くしゃくしゃに丸められた紙屑だ。風が吹くたびにかさかさと音を立てて転がる。
「そりゃあ、誰かしらは来るんじゃないかなあ」
「何よ、のほほんとして」アキは棘のある口調で言った。「ナツにはこれがどういうことを意味するかわからないの?」
これは気をつけなくてはいけないぞ、とナツは思った。アキは興奮すると周りが見えなくなる。いまだってそうだ。おそらく無意識にだろう、ストローが刺さったアップルティーの紙パックを固く握りしめている。これ以上、感情が高ぶれば何が起こるかは明らかだった。アップルティーの噴水。巻き込まれれば、午後の授業は林檎の匂いを漂わせながら受けることになる。
「そりゃあ、ポイ捨てはよくないけどさあ」ナツは恐る恐る言った。
「そうじゃなくて」アキは苛立たしげに言った。「わたしたちの居場所が荒らされたのよ」
どうやらアキの訴えんとするところを読み違えたらしい。軌道修正が必要だ。
「まあまあ、落ち着けよ。屋上はみんなの場所だろ」ナツは言った。「でも、たしかに意外と言えば意外だよな。なんだってこんなところに来たんだろう。屋上なんて雨ざらしで汚いだけなのに」
クラブ棟の屋上。ここから先には何もない。学校は高台の上にあった。周囲に学校より高い建物は存在しない。屋上まで上がれば、神様の気分で街を睥睨できる。ここより高い場所なんてもう空の上にしかない。ここが世界の果て。言い換えるならどん詰まりだ。
アキはナツを睨みつけた。
「じゃあ、なんでナツはそんな汚い場所に飽きもせず来るのかしら」
「さあね」ナツは肩をすくめた。「たぶん、他に人が寄って来ないからだろ」
「なら、わたしの気持ちがわかるでしょ」アキは勝ち誇ったように言った。だが、ナツが安心したのも束の間、こう続ける。「いまに見てなさい。ここもじきにお花見の会場みたいになるわよ。ゴミが二つ、三つと増えるだけじゃなく、騒々しい人たちがどかどか乗り込んできて宴会をはじめるんだわ」
何か花見に嫌な思い出でもあるのか、アキは話しながらどんどんヒートアップしていった。
「ここに桜はないだろ。それに花見って季節でもない」ナツはため息をついた。「要はこの紙屑がすべての元凶なんだろ」
ナツは紙屑を拾い上げた。くしゃくしゃになった紙を広げた瞬間、今度はナツの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「どうしたのよ」アキが尋ねた。
「いや」ナツはふたたび紙を丸めた。
「怪しいわね。ちょっと、それ貸しなさいよ」
アキが手を伸ばしてくる。ナツは紙をかばうようにして体をひねった。
「貸しなさいったら」ムキになったアキが言った。
二人はバスケットボールの選手がボールを奪い合うようにして、紙をめぐる攻防を繰り広げた。が、やがて体勢を崩したアキがナツに衝突し、そのまま二人は折り重なるようにして倒れた。
「いってえ……」
「ごめんなさい」
そう言うアキの顔がすぐ真上にあった。小作りな顔だ。この距離だとまつ毛の一本一本までもが視認できる。とび色の瞳に、ナツの姿が映って見えた。絹のような黒髪が垂れ、ナツの頬をくすぐっていた。目が合ったのはほんの一瞬で、二人の顔は磁石が反発し合うようにしてすぐに反対の方向を向いた。林檎の匂い。顔のすぐ脇にアップルティーの紙パックが転がっていた。
「お二人は今日も仲がいいですね」
二人は声のした方を向いた。
いつからそこにいたのだろう。フユが二人のすぐ脇でしゃがみこんでいた。どことなく、モノクロ映画から抜け出してきたような雰囲気の少女だ。肌は白く、髪や眼は真っ黒。両手で頬杖をつきながら二人の様子をじっと観察している。
「お、脅かさないでよ」アキが立ち上がった。
「……いつからいたんだ?」
「この紙を奪い合いはじめたあたりからですかね」フユは紙屑を掲げた。どうやらもみ合いのさなかに手放してしまったらしい。ナツが「あ」と声を上げる間もなく、ナツは紙を広げた。
「何の紙なの?」
アキが尋ねると、フユは無言で印字面をこちらに向けた。
「進路調査票?」アキが眉根を寄せて言った。「なんで隠そうとしたのよ」
「いや、なんとなくだけど」
「なんとなくで、あんな痛い目をしたわけ?」
「でも、いい運動になっただろ」
ナツはとぼけるように言った。ここではそういう話をしたくなかったから、というのが本音だった。フユやアキと推薦入学の定員数や、高卒社会人の初任給の額について話し合うなんてまっぴらごめんだった。それよりは、紙屑の取り合いでもしてた方がよっぽどましだ。
アキも内心は同じだったのだろう。紙のことにはそれ以上は触れず、再び丸めてビニール袋に入れた。
「それにしても、ハルちゃんはまだ来てないんですか」
「ああ、そう言えば遅いな」ナツはハルの顔を浮かべながら言った。「ハルがそのことに気づいてるかはわからないけど」
ハルの辞書に「遅い」や「早い」という言葉が存在するかさえも疑問だ。彼女の時間は彼女の中で完結している。屋上に来る時間はまちまちだし、弁当は食べたいときに食べ、衣替えの時期にも頓着しない。
――わたしね、時間の関節を外す方法を知ってるんだ。
いつだったか、そんなことを言っていた。そのときの反応は三者三様で、アキは目ざとくシェイクスピアの引用であることを指摘したが、ナツはハルが柱時計をばらばらに分解して元に戻せなくなった様を想像し、フユはハルが本当に時間の関節を外せるものと信じ込んだかのように尊敬の眼差しを向けた。
フユはどこからか持ってきた古新聞を床に敷き、その上に腰を下ろした。手に提げていた小ぶりな弁当箱をすぐ脇に置く。フユはハルが来るまで弁当箱の蓋を開けない。
「お二人はもう済ませたんですか」
「まあね」ナツは答えた。「アキはダイエット中だから抜いたけど」
「余計なこと言わなくていいの」アキは紙パックを拾いながら言った。「それより、ナツ。ストロー余分に持ってない?」
どうやら、ストローが汚れたらしい。
「わたしが使ったやつならあるけど……」ナツは自分のビニール袋の中に手を突っ込んだ。
「そんなの使えるわけないでしょ」
「潔癖だなあ」
「ナツが無頓着なだけよ」アキはため息をついた。「まあ、いいわ。これ、あげる」
「じゃ、もらっとく」
ナツはアキの手の上から紙パックを掴んだ。瞬間、アキは「ひゃ」と声を上げ、手を離した。
「危ないな」
ナツはなんとか紙パックを落とさずにすんだ。自分のストローを刺して口をつける。
「ところで、ナツ」アキは言った。「そのアップルティー、一二〇円したんだけど……」
「金取るの!?」噴き出しそうになりながら訊いた。
「冗談よ」アキはくすっと笑った。「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「真顔で言うからだろ」ナツは言った。「にしても、ハルは今日休みかな」
ナツは呟いてから後悔した。自分たちの関係がどれだけあやふやなものかを浮き彫りにしてしまったような気がしたのだ。ハルの連絡先を知る者はいない。ハルだって携帯電話くらいは持っているだろうが、使っているのを見たことはない。一番仲のいいフユはそもそも携帯電話を持っていなかった。
「でもまあ、今日がダメなら明日会えるしな」ナツは誰にともなく言った。「そうだよ、明日があるじゃないか。いつだって明日があるんだ」
しかし、その明日は永遠に訪れなかった。
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