第39話 逃亡

「……二週間前からね。俊平しゅんぺいくん以外の男の子ともお付き合いしていたの」

「……」


 救いのために伸ばした手を、手首から切り落とされたような衝撃だった。

 この時点で俊平は一切の裏側を知らない。

 ずっと憧れてきたたちばな芽衣めい

 意を決しての告白からの交際発展。

 両想いと分かり、幸せの階段を上り始めた。

 芽衣の高校入学を機に、会える機会が減ってしまったけど、それでも俊平の思いは一切ブレることはなかった。

 

 それなのに、たったの一カ月。

 否、二週間前ということは、もっと短期間で、

 連絡が取りにくい時期も、学業などで大変なのだろうとしか思っていなかった。

 自分達の絆は強固で揺るぎないと思っていたから。

 橘芽衣という女性を信じていたから。

 それがまさか、その時期に別の男と交際していただなんて、


 俊平の心は裏切られた。


 過去は変えられないが、何も今言わずともよかっただろう。

 そういう意味では、橘芽衣は自己中心的だったのかもしれない。


 仮面を外したっていい。

 有りのままの芽衣を受け入れていく。

 芽衣のことを本気で愛しているから、芽衣も自分のことを愛してくれたから、これからも二人は共に歩いていける。


 何もそう決心した矢先に、

 裏切りを告白しなくともよいだろう。


 あまりにも惨い現実を受け止めることは、成熟した人間とて難しいものだ。

 ましてや俊平は当時15歳の中学生。受けた衝撃の大きさは計り知れない。

 少なくとも、未熟な心を粉砕するには十分な破壊力であった。


「……一人で頑張るのが辛くて。誰かに支えてもらいたくて。彼の好意に甘んじて、告白を受け入れたの」


 ――俺がいたじゃないですか。俺じゃ頼りなかったですか?


「……けどね。直ぐに罪悪感に打ちのめされたわ……だってそれは、俊平くんに対する酷い裏切りだもの……」


 ――当り前じゃないですか。どうして告白された時に、恋人がいるからと断ってくれなかったんですか。


 言葉を失っている俊平を前に、芽衣は罪悪感を表情に滲ませながら、一言、一言を絞り出すように口にしていく。


 俊平にとっては、耳を塞ぎたくなる悪夢に等しき時間だった。


「彼とはお別れした。別れ際に酷い言葉を浴びせられたけど、彼を責めることは出来ない……俊平くんのことも、彼のことも酷く傷つけた。私は最低な女だと思う……君を裏切ったことを、心から後悔してる」


 ――あなたは俺に何と言って欲しいんだ? それでも俺はあなたを愛しますと、笑顔でそう言えばいいのか?


 それで全てが丸く収まるなれそれでもいい。

 そう自分に言い聞かせて笑顔を作り出そうとするが、どんなに意識しても表情筋が働かず、微かに口元を歪めるばかりであった。


 感情が、笑顔を拒否している。


「……君を愛した私の気持ちは本物だよ。だから君にはもう、隠し事をしちゃいけないと思った」


 ――隠していてほしかった。こんな思いをするくらいなら、あなたに怒りを覚えてしまうくらいなら、ずっとずっと、隠していてほしかった。


「私を許して、私をもう一度、君の恋人にさせて――」


 ――あなたは俺の恋人だ。俺はそれを疑ったことはなかった。勝手に離れていったのはあなたの方だ。

 

 ――意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。


 ――俺は俺は俺は俺は俺は俺は……


 己の中に答えを出す前に、体の方が反応していた。

 許しを求める芽衣の抱擁を俊平の体は拒絶。

 背中に回そうとしてきた芽衣の手を、咄嗟に払いのけてしまった。


「……俊平君?」

「帰ります……」


 芽衣の告白を受けて、ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。

 許すことも断ずることも出来ない。

 事態は俊平にとって、あまりにも要領オーバーであった。

 これ以上、この場に留まり続ける勇気はない。

 芽衣のことは愛している。だけど、裏切られた感情をどう処理すべきかが分からない。


 このままだとおかしくなってしまいそうだ。

 故に、導き出した結論は逃走であった。


「待って俊平くん!」


 ベンチから立ち上がり、背を向けた俊平の手を掴み、芽衣が引き留めようとするが、


「……最初に逃げたのはあなたの方でしょう」


 顔も見ぬままそう言い放つと、芽衣は脱力するかのように俊平から手を離した。

 そのまま一度も振り返らず、俊平は芽衣の下を立ち去った。

 まさかこれが、今生の別れになるとも知らずに。

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