第38話 狂いだす歯車

芽衣めいさん?』

『……俊平しゅんぺいくん。これから会えないかな』


 振り替え休日でもあるゴールデンウイーク最終日の5月6日。

 夕刻。出先のショッピングモールで俊平は芽衣からの着信を受けた。

 どういうわけか発信元は公衆電話からになっており、電話の相手が芽衣だと分かったのは、電話に出て直接声を聞いてからだ。

 これまで何度もやり取りをしている以上、もちろん芽衣は携帯電話を所有している。どうして態々、公衆電話から連絡してきたのだろう?

 当然、そんな疑問が俊平にも湧いたが、すぐさまその理由を問いかけることはしなかった。芽衣とこうして話すのは実に一週間振りだったからだ。もちろん俊平の方から何度か連絡はを試みたが、芽衣の返答は全てメール。声を聞くのは久しぶりだった。


 しかし、公衆電話から連絡してことはもちろん、電話越しの芽衣にはどうにも元気が感じられない。鈍い若人でも、それくらいは察せる。

 

「もちろんいいですけど、大丈夫ですか? 元気がない感じするから」

「……うん。正直、元気はないかな。君に慰めて欲しい」

「分かりました。直ぐに飛んでいきます。場所は?」

「うちの高校の近くの――」


 今よりもずっと真っ直ぐだったからこそ、俊平は迷うことなく即答することが出来た。

 意気消沈した恋人が助けを求めている。直ぐさま駆けつけぬ理由などない。


 〇〇〇


 芽衣に指定されて俊平が駆けつけたのは、高校にも近い児童公園であった。

 ショッピングモールからやや距離が離れており、俊平が到着した頃にはすでに日が沈んでいた。

 ちなみにこの公園は、現在、俊平と朱里あかりがいるのと同じ場所だ。奇しくも時間帯も似通っている。


「ごめんね、突然呼びつけちゃって……」

「どうしたんですか、芽衣さん。電話も公衆電話からだったし」

「……イライラしててさ。スマホを投げつけたら壊れちゃって」


 ベンチに腰掛ける芽衣の姿は、俊平のよく知る橘芽衣とは印象が異なっていた。

 酷くやつれた印象で、目元には隈と、泣き腫らしたような赤みとが混在している。

 いつも笑顔で、それでいて凛としていた芽衣の、こんなにも弱りきった姿は今まで見たことがないし、イライラして物に当たる姿というのも、普段の芽衣からはまるで想像がつかない。


「最近、顔を合わせてなかったし、声も聞けてなかったから、心配してたんですよ」

「……ごめんね。色々とあってさ」


 俊平は芽衣の隣へと駆け、震えを感じさせる芽衣の右手を握って上げた。

 芽衣の方も握り返そうとするが一瞬、考え直すかのように硬直。結局、手を握り返してはくれなかった。


「私ってば最低だ。自分が辛いからって、突然俊平くんを呼びつけるなんて」

「気にしないでください。芽衣さんに言われれば俺、何時でも、何処にでも飛んでいきますから」

「……そういう君だから、こうして甘えちゃう」

「何があったんですか? 俺に話してみてください」


 頼られたい一心で発した純粋な一言だった。年齢や心境を思えば、俊平のこの発言を責められる者などいないだろうが、これが崩壊の初動となってしまったことも紛れもない事実だ。俊平が少しでも躊躇してみせたなら、芽衣が言葉を紡ぐことはなかったかもしれないから。


「……仮面を被り続けるのに、疲れちゃった」

「どういう意味ですか?」

「……私ね。本当はみんなが思っているほど優等生じゃないの。勉強なんて大嫌いだし、どちらかというと人見知りだし、頼られるよりは誰かに頼っていたいし。けど、そんな私なんて誰も好きになってくれないでしょう? だからね。私はみんなの理想とする橘芽衣の仮面を被り続けてきたの」

「だ、誰だってそういうのはありますよ」


 多少の動揺は見せながらも、俊平から見れば決して背を向ける程の告白ではなかった。

 誰だって本性を覆い隠す仮面の一つや二つ持っているものだ。もちろん俊平にだってそういう面はある。

 芽衣が想像以上にナイーブになっていることを察しきれず、よくある話だと、この時点で俊平はやや楽観的に状況を捉えていた。

 

「……私の優等生の仮面の始まりはね、かっこいい、理想のお姉ちゃんになることだったの。2歳年下の従妹がいてね、お互いに一人っ子なこともって、姉妹同然の関係なんだ。大好きな妹のために、かっこいいお姉ちゃんで有り続けようって。妹も、そんな私を好いてくれたし」

「……素敵なことじゃないですか」


 悪気なんてない。ただ、考え無しだっただけだ。

 本人は仮面を被り続けることに疲れたという前提で話を進めている。その原点たる話を「素敵」などという素敵な言葉で肯定するべきではなかった。最適解などないが、せめて当たり障りなく、相槌を打つ程度に留めておくべきだっただろう。


「妹のために始めた優等生の仮面を、周りの人達も評価してくれるようになった。期待に応えたい一心で、皆の理想とする橘芽衣として今日まで頑張って来た。けど、もう限界……幻滅だよね、こんなこと言われて」

「……そんなことないです。芽衣さんは俺に秘密を、抱え込んでいたものを打ち明けてくれた。不謹慎かもしれないけど、そのこと自体は嬉しいです。信頼してくれたってことだから」

「俊平くんは優しいね。そういうところが大好き」

「芽衣さん……」


 狡い人だなと、俊平は一瞬体を震わせる。

 優等生像が仮面だと告白され、内心はまだ混乱している。

 色々と聞きたいこともある。

 だけど、大好きなど言われてしまえば、そんな感情は一瞬でどうでもよくなってしまう。


 橘芽衣を愛した事実は変わらない。

 それに、全部が全部仮面だったわけでもあるまい。

 仮面は作り物の笑みしか浮かべない。だけど、芽衣の笑顔は何時だって、生気に溢れた感情的な笑みだったはずだ。あれは紛れもなく、芽衣の素直な気持ちを表していたはず。

 橘芽衣が橘芽衣であることに変わりはない。仮面を外し、多少は雰囲気が変わるかもしれないが、素の部分も含めて芽衣をもっと好きなっていけばいい。


 進学先は芽衣と同じ高校にしよう。そうすれば、来年からは毎日芽衣と一緒にいられる。

 来年までは少し寂しい思いをさせてしまうかもしれないが、それまでにもなるべく時間を作って、たくさん芽衣と過ごせるようにしよう。


 芽衣は本心を打ち明けてくれた。本当の意味での恋愛は、ここから始まっていくのだ。

 

 俊平は芽衣とのこれからを、とても前向きに考えていた。


 今、この瞬間までは。

 

「俊平くんに謝らないと、私、あなたを騙してた」

「俺は気にしてませんよ。秘密を打ち明けてくれた。それだけで十分です」

「……違うの。私の裏切りはそれだけじゃないの」

「裏切りって?」


 橘芽衣という女性を何ら疑うことなく、反射的に聞き返してしまう。

 壊れた歯車が、自壊と自戒の痛みに悲鳴を上げながら回り始めた。

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