第57話 異国の地へ
メレンケリは出立の前日、家族と共に過ごしていた。
父はいつも通りであったが、母は妙にそわそわしていた。そして妹のスミナルはというと、姉が暫く家に帰らない理由をよく分かっていないながらも、何かを察して旅の支度をしている姉の部屋にこっそり赴いた。
「お姉ちゃん、いる?」
「スミナル、どうしたの?」
スミナルは躊躇しながらも姉の部屋に入ると、聞きづらそうに尋ねた。
「明日、行っちゃうのよね……」
「そうよ」
メレンケリは床に置いた旅行鞄の中に、ベッドに広げた着替えや必要な物を丁寧に入れていく。
「いつ帰ってくるの?」
「分からないわ」
「……そうなの」
「うん」
「あの、……あのね、お姉ちゃん」
「なに?」
「行く前にお願いがあるの」
メレンケリは八歳年下のスミナルを見る。妹にお願い事をされたことなどなかったので、メレンケリは驚いた。スミナルとの関係は少し複雑だ。メレンケリが小さい頃、妹が生まれた時とても嬉しかったことを覚えている。
だが、右手の力のことがあり、両親の意向で妹とは必然的に距離を離されていた。そのせいか、お互い干渉し合わないのが当たり前になってしまったのである。
勿論、一つ屋根の下にいれば会話はするのだが、家族がいるところでしか一緒にいることがなかったので、メレンケリは彼女に姉らしいことをした記憶がなかった。
「お願い?」
(どんなお願いかしら。私にできることならいいのだけど)
「あの……えっと……」
メレンケリが彼女を見つめながら待つ。スミナルは何度か言葉を躊躇ったのち、ようやくその願いを口にした。
「あのね、ぎゅって抱きしめて欲しいの」
メレンケリは、思わず「えっ」と言ってしまいようになった口を閉じる。彼女は思ってもみなかったお願いに、戸惑った。
(抱きしめる、ですって?)
その瞬間彼女は反射的に右手を見た。
「……」
妹に触れることは父に禁止されている行為だった。それもこれも今なら自分と妹の為であるということが分かる。最近は大切な人に触れようとする機会があると、父が過去に犯した過ちを思い出す。
父がこの場にいたらきっと反対することだろう。しかし妹が自分に「抱きしめてほしい」と頼むということは、彼女が自分と離れがたいと思っていることだと思った。それは姉として、当然に嬉しいことだった。
「……ダメ?」
返答の遅いメレンケリを困ったような顔をしてみるスミナルに、彼女は笑って見せた。
「ううん。いいよ」
メレンケリは立ち上がると、しっかりと右手にまじない師の手袋がはめていることを確認し、スミナルに近づくとそっと抱きしめた。すると、腹のあたりの服を妹が強く握ったのをメレンケリは感じた。
「必ず帰って来てね」
八歳も離れている妹が、メレンケリの胸のあたりでささやく。彼女はこくりと頷き、「もちろん」と明るい声で答えた。
大蛇と戦い勝利することができたならば、きっとこの力は消えてなくなる。そしたら、こんな風に妹を石にするかもしれないという恐怖で、抱きしめるのを躊躇うこともなくなることだろう。
メレンケリは大蛇との戦いに勝ち、この力と決別することを改めて心に刻むのであった。
それからその日の晩餐は豪華なものだった。父は仏頂面をしていたが、母は旅立つ娘に腕を振るった。彼女がサーガス王国に行かなくてはいけない理由を伝えたとき、一番驚いていたのは母だった。彼女は、娘が軍事裁判所で働くことすら心の中で反対していた。それはメレンケリがその仕事が嫌いだと分かっていたからである。
それでも母は、娘が旅立つ日の朝を迎えると笑顔を見せていた。娘に心配を掛けぬよう、そしてしっかりと旅立てるようにと思ったのだろう。メレンケリもそれが分かっていたので、微笑みを返した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母はメレンケリに近づき、頬に触れて頬と頬をくっつける挨拶をした。そしてその横で、兄が「気を付けて」と言った。彼は旅先で食べられるように、サンドイッチを作ってくれていた。メレンケリはそれを大切そうに受け取ると、鞄の中にしまった。
「ありがとう。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
家族全員に見送られ、メレンケリは異国の地に旅立つ。
「行ってらっしゃーい!」
姿が小さくなったスミナルがメレンケリに向かって叫ぶ。
メレンケリはその声を背に、己の運命と向き合う道へ一歩足を踏み出したのである。
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