06 長老


               *


 小さな背中が見えた。

 愛犬のクーパーを連れている。

「ジョン!」

 息子の顔がふり返る。父親ゆずりのブロンドが野球帽からのぞく。

 公園へ続く道路に、真夏の木洩れ日がまだらに落ちている。

 少年はバットとグローブを手に、驚いた顔を父親に向けた。

「ダッド、いつ帰ったの?」

「あ、ああ。たった今だ」

 マイケルは駆け寄る息子を抱きしめた。

 少年の髪は夏草の匂いがする。

 クーパーがまとわりついて手を舐める。

「ママはどこだ」

「家だよ。ぼくは、これから試合なんだ」バットを持ち上げて言う。

 突然、マイケルは怖ろしい事実に思い至った。

 ここは地球ではない。地球であるはずがない。そうだ。おれは今、夢──ニルヴァーナに居る。

 宇宙船ふねのディスプレイで見た終末の日の映像が思い返される。それは眩むような光と熱に包まれている。

「ジョン、ええっと、は前にいた世界と同じかい?」

 息子は父親の奇妙な問いをすぐに理解した。

「前とは違う処だよ。でも、街は同じだし、みんなもいるよ」

「そうか。へ来るとき、その、痛い思いをしなかったかい? 熱くはなかったか?」

 息子はすこし首を傾げた。

「急に真っ白になって、そしたらにいた」

「痛くも、熱くも、なかったんだな?」

「うん」笑う。

 マイケルはもう一度息子を抱きしめた。さきほどより強く。

 苦痛を感じる間もなく一瞬で召されたのだ。ああ、神さま!

 終末の日の映像は癌と化して心を蝕み、家族が受けたはずの苦痛を追体験させ続けた。だが、ジョンの笑顔と言葉は、光のメスとなって癌を摘出した。ささやかな救いの波間に心を解放したのだ。

「ねえ、もう行ってもいい? 友達が待ってる」

「もちろんだ。ホームランを打ってこい!」かるく背をたたいて送り出した。

 小さな背中が懐かしい通りを駆けてゆく。クーパーがその後を追う。

 

 マイケルは目覚めた。夢の余韻で、自分が何処にいるのかわからなかった。妻の顔を探して横を向いたくらいだ。窓のむこうに浮かぶ巨大な月を認め、ようやく居場所を思い出した。頬が涙で濡れていた。

 地球で見るものより数倍も大きい月は、冷たい光で部屋を充たしている。さながら蒼い海底のようだ。

 現実のように明瞭な夢だった。抱きしめた息子の柔らかな感触が、まだ腕に残っている。街路樹を抜ける風は、確かに顔をかすめた。

 おれは今、に行って来た。

 幸福そうなジョンの顔を思い返す。

 ジョンがいるなら……あそこは天国だ。そうに決まっている。

 心が浮き立つようだ。

 ベッドを降りて服を着た。月に誘われるように外へ出た。

 蒼い夜の中を、月が作る濃い影を連れて歩く。基地の丘を下り、足は密樹ハニーツリーの林に向かった。甘い香りが漂う。栄養価の高い蜜が採れる、この惑星ほしの食糧庫。

 林に分け入る。背丈の倍ほどの樹々が葉叢で頭上を覆い、闇が濃くなる。それでも迷いなく進む。導かれるように。

 やがて目の前が明るくなり、林が途切れて草地に出た。樹林の奥に、ぽっかりと円形の草地が空いている。

 中央にそれは立っていた。一本の巨大な蜜樹ハニーツリー──〈長老〉。高さも太さも1.5倍ほどある。他の蜜樹ハニーツリーたちは、へりくだるように数メートルの距離を退いて、ぐるりと〈長老〉を取り巻いている。

 これが…… 

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