タローと沙織

そらお

第1話

 朝の陽ざしが石畳や商店街にきらきらと差し込む。佐藤沙織は、この光景が好きだった。雑司ヶ谷の商店街の風情のある街並みは、まるでタイムスリップしたような気分を味わえる。

 古民家風カフェの前で立ち止まると、ガラス越しに店の中をのぞきこむ。ドアを開けて、遠慮がちに中に入ると、「いらっしゃいませ。」と穏やかな笑顔のマスターが迎える。そして、奥の方から黒猫が小走りで挨拶にやってきた。店の雰囲気は、温かく、どこか懐かしい気持ちにさせられる。

 黒猫はいそいそとこちらにやってきて、「こちらへどうぞ」というようにソファーへ向かった。沙織は、まるで黒猫に案内されるように窓際のソファーに座る。

 黒猫が沙織を見つめた。黒い毛がつやつやしていて、思わず触りたくなってしまう。くりくりと丸くてチョコレート色の目がとても魅力的だ。

 アイコンタクトで「いらっしゃいませ」の挨拶した後は、うれしそうに、しっぽを揺らしながら店を歩き回った。しばらくすると、ぴょんとソファーに乗り、沙織の隣に座った。

「こんにちは。私、沙織っていうのよ。」丸くてチョコレート色の瞳に言った。

 マスターが水をテーブルに置き、メニューを差し出した。

「ブレンドコーヒーください。」

「タローは、あなたに興味があるようですね。いろいろお話してあげてください。」

 ソファー席は、横に窓があり、外から太陽の光が降り注ぐ。タローは、日当たりのよいソファーの席で気持ちよさそうに目を閉じた。

「わたしも、ねこになりたいな。あなたは、綺麗な黒猫だから、私は白ねこになって、一緒に雑司ヶ谷を探検したら楽しそう。どう?このあたりを案内してよ。」

 タローは、ごろんと寝そべって、気持ちよさそうにくつろいでいる。うっすらと目を開け、ちょっとこちらに耳を向けた。

 

 沙織は、先週、少女漫画誌に読み切り作品を持ち込んだ。作品は、自分が自信を持って描けるファンタジーだ。短期間で書き上げ、見直すことなく持って行った。 自分でも酷い出来なのは分かっていた。こんな荒削りな作品にもかかわらず、担当してくれた編集者さんが、「個性があって素敵だね〜」とか「型にはまってなくていいね〜」といいところを探して褒めてくれた。それだけでなく、的確に改善点も挙げてくれたので、希望を持つことができた。

 しかし、夢を膨らませ、作品を持ち込む人は後を絶たない。数を打たないと埋もれてしまうのだ。沙織は月に一度は必ず、作品を持ち込み、チャンスをつかもうとしていた。

 

 漫画家を職業にするには簡単でないことも分かっている。現実には、成功し、順調に続けていけるのは、ほんの一握りの人たちだ。

 沙織は、トートバッグからスケッチブックと鉛筆を出し、隣にいるタローを描き始めた。2分程度でさらさらと仕上げ、スケッチペンで色をつけた。

 

 就活は、さんざんな結果だった。30社受けて、すべて落ちたのだ。エントリーしても面接まで行かないこともあった。面接しても、返ってきたのは不採用通知のメール。「佐藤さまのより一層のご活躍をお祈り申し上げます」30社はさすがに心が折れる。

 漫画の片手間で就活をしていたつもりはない。漫画家で食べていくことは簡単なことではない。就職してもこつこつと描き、しばらく両立して、ネタや収入が軌道に乗ってから、退職して、漫画を専業にしようと思っていた。しかし、現実は甘いものではなかったのだ。

 はぁ~と無意識にため息をつく。窓から外の景色を見ると、窓のすぐ外側にあるえんがわに白ねこが座っていた。後ろ姿の背中のラインが綺麗だ。沙織の視線に気づき、白ねこがこちらを振り向いた。サファイアのように青く美しい輝きを持った瞳から、ちょっといたずらっぽさを感じた。沙織をじっと見つめたかと思うと、ぱっと目をそらした。

 「春の日の日向ぼっこは気持ちがいいね。」窓から差し込む光で日向ぼっこをしているタローにつぶやいた。いかにも気持ちがよさそうで、平和な光景だ。タローがごろんと寝返りを打つのをみると、不安な心がほんの少しほどけた気持ちになってくる。

 沙織がふわぁと大きなあくびをすると、あくびと一緒に涙がでてきた。ふっと睡魔に負けて、意識が遠のく。時間にすると一瞬だったような気がする。ふわっとした感じがして、またしっかりとした意識が戻った。

 

 春風がそよそよと吹いて、気持ちがいい。見上げると、日の光が差し込んでケヤキ並木の若葉がキラキラとしていて、空が葉っぱの間から青く見えた。

「私、いつの間にか店の前のえんがわにいたんだわ。」

 えんがわからガラス越しに店の中をみると、ちょうど私ぐらいの齢の女の子が見えた。ソファーのひじ掛けに肘をついて気持ちよさそうに居眠りをしている。前さがりのボブ、スケッチブック、トートバッグ…。心がドキンとした!あれは、私!

 じゃあ、この私は何?動揺して、ガラスを手でトントン叩いた。あの女の子を、いや、ガラスの向こう側にいる私を起こさなくちゃ。トントン叩き、手を止めた。

 叩いている手が、艶のある白い毛並みの前足だったからだ。動揺で手が震える。

 ガラスから少し離れて、ガラスに映った姿を見ると、予想した通り、さっき店の中から見えた白ねこだった。

 起きて!起きて!とドア越しに繰り返し言った…つもりだったが、実際は、前足でカリカリしながら、小さくニャーニャー鳴くことしかできていない。それでも、早く私を元に戻して!と自分に向かって懇願した。

 落ち着いて、私!しっかりして、私!これは夢に違いない!

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