第5話 診察室、その2――桃井杏
「気のせいですね」
烏鷺(うろ)という名前の、30代と思しきその医者は言った。
「……気のせい、ですか?」
烏鷺の口から出たその言葉があまりにも信じられず、杏は思わず、オウム返しに聞き返してしまった。
「はい」
「ええと、つまり……。病気ではない、と」
「ええ。検査ではなにも出ませんでした。尿もきれいです。膀胱炎でも性病でもありません。正常ですよ。よかったですね」
「は、はあ。そう、ですね」
杏は少しの間、呆然と烏鷺の顔を見ていた。いや、正確には烏鷺の横顔を見ていた。烏鷺が杏ではなくパソコンの画面を見ていたからだ。どうやらこの病院の医者も診察時には患者の顔を見ないらしい。普段の杏なら心の中で舌打ちしているところだが、今はそれどころではなかった。
(……よかった、のかな? いや。よかったよかった。よかったよ。だってなにもないに越したことはないんだもの。……いや、でも待てよ? そしたら、あの苦しかった2週間はなんだったの? 全部気のせいだったってこと?)
頭の中が混乱して、なにをどう考えればいいのか、まったく分からない。
とりあえず、とっさに浮かんだ疑問を口にした。
「つまり治療法はないってことですか?」
「治療法というか……」
烏鷺は明らかに困ったという表情を浮かべた。パソコンから目を離し、杏を見る。それから苦虫をかみつぶしたような顔で、
「病気じゃないので、治療のしようがありません」
と言い、
「要は気にしなければいいんです」
と、とどめの一言をぶっ放した。
杏は(まずい)と思った。(このままではいけない)とも思った。
確かに検査結果はシロかもしれない。けれど、実際、自分はここ2週間、下腹部の不快感という症状に悩まされている。自力ではどうにもならない症状だ。なのに、もし、ここで「はい、そうですか」と引き下がってしまっては、本当に打つ手がなくなる。いつまで続くか分からない不快感をただただ我慢し続けなければならなくなってしまう。そんなの絶対嫌だ。
「病気ではない」という診断が苦しみにつながることもあるんだと、杏は、このとき初めて知った。まるで裏切りにでも会ったような気分だった。つまりそれだけ杏は信じていたのだ。医者の力を。医療の力を。
けれど、医者は無情にもこう言った。
”その症状は妄想だ。気にするな”
まずは冷静にならなければ、と杏は思った。
膝の上で握った手を見ながら、ゆっくりと息を吐く。
仕事で問題が起こったとき、杏は、よくこうして気持ちを落ち着けていた。人は心理的に追い詰められると反射的に息を吸おうとするものだ。だがそういう時は吸うよりもむしろ吐いたほうが効果的だという話をどこかの本で読んだからだった。
それから静かに自問した。
(わたしはここに何しにきたの?)
――そんなの言われなくても分かっている。わたしはこのお腹の不快感を解決するために来たんだ。だからここで「そうですか。妄想ですか」と引き下がるわけにはいかない。わたしはこの苦しみを解決したい。いや、たとえ”解決”と言えるほどスッキリしたものではないとしても、なんらかの”対処法”を知りたいと思っている。でなければ、わざわざここに来た意味がない。
そこで杏は、
「問診票のスペースが狭すぎて書けなかったんですが……」
と、2週間前から自分の身に起こったできごとについて、詳しく話し始めた。
「症状は徐々にではなく、2週間前に突然始まりました。まずは排尿時と常時続く不快感です。酷くなると、我慢できないくらいになります。今まで3回くらいですが、そういうことがありました。夜中のことです。5分おきにトイレに行かないといけないくらい酷かったので、苦しくて、苦しくて、全身に冷や汗をかきました。イライラしましたし、おかげで寝不足にもなりました。そのときの値を10だとすれば、今は2くらいに収まっていますが、またあの切迫感に襲われるかもしれないと思うと不安です。さっき先生は気のせいだと仰いましたが、気のせいじゃありません。そうじゃないんです」
話しながら顔を上げると、驚いたことに、烏鷺はパソコンではなく杏の顔を見ていた。意外な展開に思わずぎょっとなる。が、烏鷺はそんな杏の表情などお構いなしに、今度は、
「確認したいんですが、残尿感じゃなくて、切迫感があるんですか?」
と聞いてきた。烏鷺は検査データと問診票からは分からない、なにか大事な情報を――それがなんなのか、杏には分からなかったが――探ろうとしているようだった。最初のうち、杏は烏鷺の真意が読めず、ぽかんしていたが、すぐに、
「残尿感と切迫感ってどう違うんですか?」
と聞き返した。
これは編集者としての癖だった。
残尿感と切迫感――自分ではなんとなく分かっているつもりだが、両者の違いを説明しろと言われると、ちゃんと答えられる自信がない。つまり杏の中では、この二つの言葉ははっきりとした輪郭を持って存在している言葉ではなかった。だが、烏鷺は”そこ”に何かを感じているようだった。だったら本人に説明してもらうのが早い。言葉の意味を曖昧にしたまま会話を続けていると、後で痛い目に会う。それにこのことが不快感を解決できる鍵になるならありがたいことだ。
「切迫感は我慢できない感覚。残尿感は残っているなという感覚です」
烏鷺は答えた。
「切迫感のほうです」
杏もすぐに答える。
「それなら処方できる薬があります」
烏鷺は少しほっとしたような表情を浮かべた。杏もかすかな光明を見つけたような気がした。
「ただし、その薬には口の渇きや便秘、眼圧上昇などの副作用もあります。緑内障はありますか?」
「ありません」
「わかりました。あとは、そうですね。これは膀胱を広げる薬なので、切迫感は解消すると思いますが、効果が現れるまでに時間がかかりますし、症状が軽くなったからといって、簡単にやめることはできません。それでも飲みますか?」
「飲みますか……って、決めるのはわたしなんですか?」
烏鷺の最後の言葉に違和感を覚えた杏は、またもや、質問を質問で返してしまった。すると、烏鷺は「そうです」と、さも当然のように答える。「僕はどちらでもいいので」
一難去ってまた一難だな、と杏は思った。
この頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していた杏は、烏鷺の、この”どちらでもいい”という、聞きようによっては、無関心ともいい加減ともとれる言葉を冷静に受け止めることができた。だが人によっては怒り出してしまうだろう。「気のせい」とか「どちらでもいい」という言葉は、助けを求めている患者にとって、時に、冷徹で残酷な刃となる。
だが、彼はこう思っているに違いない。
『自分は事実を述べているだけ』
投げやりとか無関心とか、ましてや意地悪とか、そういった概念は彼の頭の中には存在しない。まあ、彼がよほどのサディストであるのなら話は別だけれども。だが、杏は、彼のどこからも異様な匂いを感じ取ることはできなかった。”どこにでもいる普通の医者”。診察室に入った瞬間も、今も、杏が烏鷺に対して感じている印象はずっと同じだった。
(……にしても、丸投げかあ)
杏は心の中でため息をついた。
烏鷺を見ると、彼は再びパソコンの画面を見ていた。多分、待っているのだろう。”あなたのターンですよ”――烏鷺は全身でそう言っているように思えた。
(仕方ない)
ただ待っていても、いたずらに時間を浪費するだけだ。杏はもう一度、今までの情報を整理することにした。
ただし、自分の心の中で、ではなく、烏鷺の目の前で。
「先生」
「はい」
杏の呼びかけに烏鷺が応じた。
「聞いていてほしいんです。いいですか?」
「え? ええ」
烏鷺は杏の言葉の意味が分からないようだった。だが、杏は烏鷺の疑問を無視して続けた。
「症状は下腹部の不快感です。普段はそこまで酷くはないですが、冷や汗かくくらい酷かったアレがまた来るかもと思うと嫌だなって思います。そして薬のほうは、膀胱を広げるものって仰ってましたね。不快感は治まるけど副作用がある。主な副作用は、口の渇きと便秘と眼圧、でしたっけ。口の渇きというのはよく分からないですが、便秘は嫌ですね。これも人によって出方に違いはありそうですが、もし酷い便秘になったら……また薬を使うんですかね? まさかね。いや、まさかでもないですかね。けど、薬の副作用を薬で抑えるってなんだかなあ。まるでイタチごっこですね(笑)――って笑ってる場合じゃないですね。あとは眼圧ですが、これも体験したことがないからよく分かりません。あ、わたしは別に個々の副作用について詳しく知りたいというわけではないんです。ただ、薬を飲むか飲まないかを決めるのはわたし自身だとおっしゃったので、情報を整理したいなと思ったんです。そういえば、話しながら一つ思ったんですが、症状が出たときにパッと飲めばパッと効くような頓服薬はないんですか?」
「ありません」
烏鷺は即答した。
杏はいつもの癖で相当な早口でまくしたてていたのだが、烏鷺はちゃんと聞いていた。聞いている”フリ”はしていなかった。杏としては丸投げしてきた烏鷺に少しばかりの嫌味を込めて反撃したつもりだったのだが、その嫌味は不発弾となって、杏と烏鷺の間に転がった。
「そういう都合のいいものはないんです。それにこれは言っていませんでしたが、この薬は膀胱を広げる効果はありますが、膀胱が広がるせいで、膀胱には今までよりも多くの尿を溜めることができるようになります。それは腎臓病のリスクにつながることがあります」
「あっ、ちょっ、ちょっと待ってください。なんですって? 腎臓病のリスク?」
杏に対抗したわけではないだろうが、今度は烏鷺が爆弾を――少なくとも杏はそう思った――持ち出してきた。杏は焦って尋ねた。
「それはどういうことですか?」
「膀胱は筋肉です。筋肉は伸び縮みすることができますよね?」
「ええ」
「筋肉が伸びるから尿を溜めることができるんですが、尿が溜まりやすくなってしまうと、今度は腎臓を悪くしてしまうリスクが高まるんです。そうすると透析をしなければならなくなる。透析は命に関わる病気なので――」
「つまり、この薬を使うと、不快感はなくなるけれど、腎臓病になるということですか?」
「100%ではありません。けれど、その確率は高くなると思います」
「ちょ……、それ先に言ってくださいよ、先生。副作用云々より、そっちのほうがよほど深刻じゃないですか」
脱力した杏は思わずそうこぼしていた。嫌味でもなんでもない率直な感想だった。
すると烏鷺は、
「すみません」
と謝った。そして、
「普段、ここまでの説明はしないので」
とつけ加えた。
見ると、烏鷺の額にうっすらと苦悩の色が現れているのが分かった。
ああ、そうか。と杏は思った。今までの烏鷺の言動がすとんと胃の腑に落ちていくのを感じる。それはマンガの取材中、杏が密かに感じていたことでもあった。
『医者はたくさんの――そして時に多すぎるほどの――病気に関する情報を持っている。一方、患者のほうはほとんど情報を持っていない。両者の間には深い深い溝がある。だがこの溝を埋めるのは不可能だ。複雑な専門知識をたった数分間の診察時間で素人に伝えることなどできないからだ。だから医者はあきらめる。そして患者は「どうせ聞いても分からないから」と医者に丸投げする。結果、医者はたとえ冷酷に見えようとも、まず、”結論”から話すことになる――』
それが今回の杏の場合は「要は気にしなければいいんです」という言葉だった。
「今の桃井さんの症状は病気ではありません。検査データを見てもそれは明らかです。なので、今くらいの症状なら、僕は薬を飲むことをお勧めはしません。気にしないでいられるならそれが一番いいんです。ただ、それでは不安だということであれば、ひとつ――これも心がけの話ですが、方法があります。それはできるだけトイレに行かないことです。膀胱の筋肉は鍛えることはできませんが、できるだけ尿を溜め、そして完全に出し切るという動作を繰り返していけば症状が改善するかもしれません。ただ、これもやりすぎれば、病気につながってしまいます。さきほど言った腎臓病です。すべてはほどほど、臨機応変が大切です」
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