第2話 ある患者――桃井杏

 患者と医者の間にはマリアナ海溝よりも深い溝がある。


 なぜそう思うか、って?


 診察室で向かい合わせに座っていても、医者は、患者の言うことなんて聞いてやしないからだ。興味があるのは、問診票に書かれたコトと検査の数値だけ。半身に開いた視線の先にあるのは、パソコンの画面であって、患者の顔ではない。そこで、わたし――桃井杏は、試しに一度、パソコンに向かっている医者にむかって「べろべろばあ」とやってみたことがある。気づくかどうか試してみたのだ。結果は惨敗。医者はまったく気づかなかった。もっともそのとき、彼は、ものすごい勢いでキーボードをたたいていたから、気づけというほうが無理だったのかもしれないけれど。


 でもだからといって、わたしは、そんな彼らを「ダメ医者」呼ばわりするつもりはない。彼らには彼らの言い分がある、と思っている。なぜそんなふうに思うのかと言うと、それは、わたしが10年ほど、青年誌のマンガ編集者をやってきたからだ。

 わたしが所属する編集部ではいろいろなテーマを扱っている。

 ビジネス、料理、エロ、恋愛、歴史……etc、数え上げたらキリがないが、中でも「医療」は人気ジャンルとして、常時、1本~2本は掲載されていた。専門知識が必要なので、ハードルはやや高めだが、コミックス(紙も電子も)を出せば十中八九アタるし、ドラマ化だってしやすい。


 わたしも今まで2本担当した。

 連載期間中、マンガ家とともに病院へ行き、数人の医者からインタビューを取らせてもらったが、彼らはいつも多忙だった。直前のドタキャン、メールの放置などは日常茶飯事、運よく取材できたとしても、10分と置かずに呼び出しがかかってしまう。連載当初は「医療シーンは全部医者に聞けばいいや」と、半ば、たかをくくっていたわたしたちだったが、三ヶ月を過ぎたあたりから、「このままじゃヤバい」と思うようになり、「ある程度までは(それがどの程度なのか、当時は見当もつかなかったが)自分たちで調べよう」ということになった。右も左も分からないまま、医学大辞典を広げ、ネットで情報を集め始めた。こうした情報が玉石混交なのは知っていたが、いきなり専門書を開いてもちんぷんかんぷんだったからだ。


 だが、そうこうしていくうちに、少しずつではあるが、病気について理解できるようになっていった。要はマンガに使えるくらいの情報が集められればいい――わたしたちはそう開き直って取り組んだ。


 そんなことがあったので、わたしは、医者という職業や職場環境について、巷の人々よりは理解があるほうだと自負している。

 だから、診察中、彼らがぶっきらぼうな口を聞こうが、こっちが病状を話している間、イライラと貧乏ゆすりをしていようが、気にしない。1時間も待たされたのに、3分しか診てもらえなくても「仕方がない」と思う。パソコンの画面ばかり見て、こちらの顔なんて見ようとしなくても……さすがにこれは気になるが、「診断には必要ない」と言われれば、「ああ、そうですか」と引き下がるつもりだ。

 けれど。

 わたしはモノではなく、人である。

 理解するにも限度がある。

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