帰り道

星木 柚

第1話

ガタゴト電車に揺られている内に、何処からか「つまらない」という言葉が聞こえてきた。空耳かと疑ぐりたくなる程、それはそれは明瞭に確かにしっかりと聞こえてきたのである。

そう言った人が何をつまらないと感じているのか。私には分からない。ただ、その言葉が脳裏にぺたりと糊付けされたようにへばり付いている。

つまらないつまらないつまらない。いつしか頭をぐるぐると掻き乱し、それは私の身体中に散らばっていった。そして腹に到達したと思う間に、今度は冷たい銀色となって血管を遡る。

身体が芯から冷えてゆく。そう思った瞬間に、電車のアナウンスが流れた。終点だ。降りなければ。

どどどっと藍色の群れになって改札口へと向かう人々に押されるようにして私は流れる。ああ肩がぶつかった。足を踏まれた。カバンが引っ張られた。そんな気付きもぽろぽろ落として、一目散に改札口へと押し流されてゆく。抵抗する気にもなれず、私は押されるがまま人の群れを揺蕩う。

ピッとICを翳して改札機を抜けると、不思議だ。あれほど集まってボンドのように固められていた群れがさっと居なくなってしまうのである。みんな、何処へ消えたのか。辺りを見渡しても、無様に立つ私と疎らに歩く人がいるだけ。

さては皆、宇宙人にでも攫われたのか。これは宇宙規模の事件なのではないか。それならば、私は事件の第一発見者だ。そう思うと威張りたいような気持ちになる。そうして報道陣の取材を受ける自分を想像する。

私が気付いた時には彼らは居ませんでした。急に消えてしまったのです。改札を通った途端にね。不思議でしょう。いえ、彼らの行方は知りません。知るはずがございません。

いやはや、愉快なことだ。私は嘘を言っていると思われるんだろう。だが違うのだ。私が言っているのは事実なのである。

そこまで考えて、いや待てよ、と立ち止まった。これは事実なのか。もしかしたら頭が作り出した幻影で、本当はまだ群れが近くにいるのかもしれない。それこそが事実ではないか!私が見ているのは、それなら何なのか。ああ、そうだ、ぴったりの言葉が有るではないか。真理。真理。これ以上にしっくりくる言葉はない。そうさ、私は真理を見ているのだ。

気分はすっかり晴れて、私は飛び跳ねたいような心持ちがする。駅の階段を駆け下りて、この重くのしかかる夜空に向かって何か叫んでやろうという気になった。空に向かって大きく口を開いたところに、びゅうと白い風が吹いた。

その風に誘われるように、身体の何処からか銀色の何かが沸き起こった。ナンダナンダ、と慌てふためく私を嘲笑うように、その何かは大きく大きく膨れて、そして弾けた。

その後にぽつんと胸に言葉が降りてきた。

つまらない

ああ、それはさっき聞いた言葉ではないか。どうして忘れていたのか、と不思議な気持ちがして、しげしげとその言葉を見つめる。どうやら言葉の方でもこちらを見つめているようで、確かに目が合ったと感じた。

逸らせちゃいけない。そう感じて尚も見つめ合っていると、向こうが痺れを切らしたようだ。ふるふると揺れると、ぽんと胸から飛び出してきた。いきなり夜空に飛び出したものだから寒くて震えるそれを、私は空気と一緒に一息に吸い込んだ。胸いっぱいに吸い込んだ。今度は温かく染み込んでゆくのを感じた。ほら、これでこの言葉は私のものだ。つかまえた。どうだ、と得意げに肩を張って帰路をどっどっと歩いてゆく。

私の心は、なんとも言えず浮き足立っていた。

言葉というものは、どうしてこうも美味く良い匂いをさせているのだろう。それを吸い込む度に私の心は鮮やかに、眩く色づくのである。

しかし、この高揚感はどうしたことだろう。誰かと共有したくて堪らない。沸かしたヤカンから出る湯気のように、後から後から喜びがしゅーしゅーと生まれる。堪らない。

抑えきれない衝動に駆られて、口からぽわんと、取り込んだばかりの言葉を吐き出してみる。

つ ま ら な い

同時に、真っ暗の退屈なキャンバスに、黄、薄紅、オレンジ、桃、灰青、と色が踊る。まるで花火だ。ぱちぱちと激しく爆ぜて、そうして蜃気楼のように消えてしまうのだ。

花火というよりも万華鏡なのかもしれない。かしゃりさらりと曖昧に形を変えて私を魅了する。その儚さがまた良い。朧げに消えてしまっても余韻は何処までも美しく響き続ける。

それが何とも楽しくて、幾度も幾度も言葉を夜の気配に並べた。

よ る——藍 淡黄

は な び——若草 薄紅 緑黄

白い息に被さるように浮かぶ色の狭間で私は踊る。夢中で跳ねて駆けて回った。

まだ家は見えてこない。長い長い帰り道をカラフルに彩ってもほら、夜は静かに辺りに立ち込める。

その静かさに虚しくなって私は言葉を吐き出すのをやめた。途端に漂っていた色は風に流されて遠い遠い遥かな海へと去っていくのだ。それを眺めながら、私の足は止まらない。

あともう少しで我が家だ。今日の晩ごはんは何だろうか。そう考えると背中のリュックがズシリと重みを増した。背負い直す。中で教科書がパタンバタンと騒がしく主張した。いい子だから静かにしておくれ。あんまりうるさくしたら誰かに見つかってしまう。

さぁ、もう少し。川の音が聞こえてくる。少し青みがかった靄のような音。この音を越えれば、我が家だ。

帰りたい。帰りたい。頭に浮かぶのはそればかりになった。

川を過ぎ、並木を通って、少しの坂を登ったら、青い屋根の我が家が見えてくる。ほっと一息つく。

なんだかくすぐったいようなあたたかいような気持ちがして、私は走り出した。またガタゴト教科書が音を立てる。でも今度は気にならない。一目散に走る。つんと夜風に冷たくなった鼻に、湯気立つ夕餉の匂いが届いた。

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帰り道 星木 柚 @hosinoki_yuzu

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