静けさ

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 小川のせせらぎに混じって、アネモネが何か叫ぶのが聞こえた。


 何事かと思って視線を其方にやれば、どういう訳かアネモネとリオルがお互いの頬をつねり合って、何やらワチャワチャと取っ組み合っているのが見えた。リオルが両の手でアネモネの両頬をそれぞれつねり、アネモネが目尻に涙を浮かべながらも片手でリオルに逆襲している。そんな感じだった。


 事態が全然呑み込めなくて困惑したが、あれくらいなら血で血を洗う女の戦いに発展したりはしないだろう。それに子供は、喧嘩する時は喧嘩させておいた方がいいものだ。


「……うん」


 浮かせ掛けていた腰を落とし、ホムラは再び小川の水に浸かり直したのだった。既に身体についた汚れは落とし終わっているので、水浴びの目的は既に果たしたと言える。が、何か物足りないような気がしたのだ。日の光を受けてキラキラと輝く水はホムラを誘っているようで、気付けばホムラはその中に足を踏み入れてしまっていた。程好い冷たさが、ずっと動きっぱなしで熱を帯びていた全身を冷やしてくれて心地好い。


「悪くないじゃないか」


 掌で掬った水を肩や胸に掛けながら、小さく呟く。小川は流石に肩まで浸かるような深さは無かったが、それも別に不便ではなかった。汗や血に塗れ、延々と戦い続けるのも慣れてしまえばどうって事無いが、身綺麗に出来るのならばそれに越した事は無い。


「アンタは入らないのか?」


「いや……俺は、その……」


 すぐ隣でバシャバシャと、水を掬っては自分に掛けているクラウスに、ホムラは声を掛けた。曖昧に言葉を濁した彼は、鎧は脱いだものの全裸にはならず、川の中にも入らない。近くには敵も居らず、緊張するようなタイミングでもないのに、大した気の張りっぷりである。


 ……まさかとは思うが、肌を見せるのが恥ずかしいのだろうか? この場には男と、子供しか居ないのに? いやいや、そんなまさか。


「一つ、聞いても?」


「はい」


「アンタら、風呂とかどうしてるんだ? 街に一つくらい、銭湯とかあるよな?」


「公衆浴場の事ですか? それなら勿論ありますよ。今の王になってからは法もすっかり整備されて、いかがわしいサービスとかも全然見なくなりました。行きやすいです、はい」


「……へぇ」


 銭湯にいかがわしいサービス。詳しくは分からないが、推察がしやすい話ではある。


 とは言え、今はその話を掘り下げても仕方無い。ホムラが聞きたかったのは、クラウス達には水や湯に身体を浸す文化があるか否かという話だった。街に浴場があるのなら、彼等も水に浸かる事に抵抗は無い筈だ。


「じゃあ、川に浸かれば良いじゃねぇか。汗の染みた下着を着たまま水を被っても、あんまり意味が無いじゃねぇかよ?」


「あの、あの子達が居るんですけど」


「それがどうした? まだ子供だろ。自分テメーから見せに行ってる訳でもあるまいし」


「それは、そうですが……」


 どうやらクラウスは、双子の事を気にしているようだった。ほぼ反射的に視線を滑らせ、彼女達の様子を見てみるが、喧嘩は未だ継続中で、彼女達は全く此方を気にしていない様子だった。アネモネが上になり、リオルが上になり、二人で頬を抓り合いながらゴロゴロと地面の上を転がり回っている様は、本人達的には真剣なのだろうが、傍から見ている此方からすれば、何故か微笑ましい光景にしか見えなかった。互いに攻撃方法が頬抓りだけに限定されていて、髪を引っ張ったり引っ掻いたり、そういった洒落にならない攻撃が見られないからだろうか。アネモネはきっと従来の性格から、そしてリオルは何だかんだで理性を保っていて、そんな感じになっている。根拠は無いが、そう思うホムラだった。


「……ま、好きにすりゃいいさ」


 双子から視線を外し、ホムラはクラウスとの会話を打ち切った。飽くまで勧めただけだ。理由はホムラからすれば良く分からない感覚であるとは言え、本人が嫌がるなら無理強いする事もないだろう。


 ホムラが口を閉じると、クラウスもそれ以上何も言ってこなかった。お互いに静かになって、暫くは小川のせせらぎとクラウスが水を被って全身を洗う音、それからアネモネ達姉妹が声が聞こえてくるばかりとなる。


「……」


「……」


 天井から差し込んでくる陽の光。柔らかな苔の匂い。水の音。


 押し潰してくるような闇は無く、砲撃の硝煙の臭いも無い。剣戟の音や、獅子や巨人の咆哮とも無縁だった。殺気や悪意は微塵も無く、ただただ、穏やかな時間だけがゆるゆると流れていく。


 ホッと息を吐けば、自然に身体から力が抜けていく感覚があった。思えば、遙か地の底の小部屋で目を覚ましてから此処に至るまで、ここまで完全に気を抜けたのは初めてかも知れない。リオルが奇跡で作り出してくれた結界の内でさえ、常に最低限の気は張っていた。


 逆に、ここまで気を抜いて良いのかという罪悪感にも似た感情もあるくらいだ。が、どうもこの場には、があるというか。自分でもどうしてこんな感情を抱くのか不思議でならなかったが、身体が無条件で従う感覚には、抗いようが無かった。


「……ホムラさん」


「んー?」


 どのくらい時間が経った後だろうか。


 不意に、クラウスが話し掛けて来た。


「どうかしたか?」


「私も、一つ聞いても宜しいですか?」


 ガチガチに固められた、敬語である。


 脅えて警戒しまくる小動物を相手にするような感覚で、ホムラは敢えて振り向かず、声だけで答える。


「ん、どうぞ」


「えっと、その」


 見切り発車だったか勢いだったか、クラウスは一旦言葉に詰まる。が、聞きたい事自体は最初からしっかり決まっていたらしい。若干ドモりながらも、クラウスは思い切ったように口を言葉を紡いだ。


「秘訣とか、あるんですか?」


「秘訣?」


「あんな無茶苦茶な戦い方を、躊躇無く出来るのはどうしてというか」


「ほう」


「その、えっと、あんな風に戦えるようになるには、どんな事を……すれば……」


「……」


 ずっとホムラがマトモに答えなかった所為か、クラウスの質問は尻窄みになって消えていった。が、ホムラとしても別に無視しようとした訳じゃない。色々と、答える内容を考えていたのだ。


「……俺は、記憶が無いからよ。いや、ボンヤリとはあるっぽいんだが、思い出そうとすると途端に霧散しちまうんだ。だから、具体的にこの剣を扱う為に何をしてきたとか、どんな修行を積んできたのかとか、そういう具体的な内容は答えられねぇ」


「……」


「けど一つだけ、答えられるとしたら――」


 水面の下に沈めていた腕を持ち上げて、ホムラは双子の方を指差した。彼女達の喧嘩は、どうやら決着が着いたらしい。リオルがアネモネの腹の上に馬乗りになって、両の拳を天に向かって突き上げている。涼しい無表情のまま、けれど頬を抓られた跡で赤くしている。見た感じ、割と辛勝だったようだ。


「アイツらは子供で、俺は大人だ」


 彼女達には、少なくともアネモネには夢がある。そうでなくても、彼女達には未来がある。この暗闇の底で彼女達が死ねば、それらは諸共潰えるのだ。


 それは


 とてもとても、


。そんだけだよ」


「……意味が、よく分からないのですが。カッコ付けないで、真面目に答えて下さい」


「真面目に答えてるよ。次の世代の為に尽力するのは、道徳云々の前にだろうが。で、偶々俺には敵と正面切って殴り合うしか能が無かったって訳だ」


 もしもホムラが知謀知略に長けていたら、正面切って敵と戦わず、隠密行動を徹底して行軍しただろう。地の利を生かし、敵との交戦を避けて、アネモネやリオルを生き延びさせる為に行動しただろう。


 自分が凄いヤツだ、なんてホムラは全く思っちゃいない。


 世の中の多くの”大人”達が無意識にやっている事を、ホムラもまたやっただけだ。偶々その内容がちょっと物理的にハードだっただけで、運が悪ければホムラは焼け死んでいたかもしれない。叩き潰されていたかもしれない。単純に、運が良かっただけなのだ。


「出来ると思ったからやったんじゃねぇ。


 我ながら、よくここまで生き残ったものだ。


 否、よく考えたら覚えているだけで既に二度、ホムラは敵の攻撃で死んでいる。生き残っているのはリオルのお陰だ。大人が子供に救われるなんて、こんな情けない大人が聞いて呆れるなと、ホムラは思わず笑ってしまった。


「……じゃあ、俺は……」


 クラウスが、絞り出すように言葉を紡ぐ。


 今にも泣き出しそうなそ声音に、ホムラは笑みを直ぐに引っ込める結果となった。


「じゃあ俺は、何なんだ……大人じゃない……アンタみたいに、あの子達を……他の誰かを、守れるような力なんて無い……ずっと足を引っ張ってばかりで……」


 無念。悔恨。羨望。絶望。


 様々なドス黒い感情を煮詰めて形にしたような、血を吐くような呻き声だった。実力云々の前に、先ずは心根が大事だという話がしたかったのだが、上手く伝わらなかったらしい。


 前衛で戦う為の秘訣とか、心根が大事だとかいう話の前に、彼は自分を認める所から始めさせないとどうしようもない。


「……いやいや」


 何より、


「アネモネから聞いたぞ。お前、上であの他の誰かを助ける為に、死地に自分から駆け戻ったんだってな」


 勿体無かった。


 ホムラが思うに、彼は本当は、既に前衛として戦う為に一番大切なモノを持っているのだから。


「いざって時に死地に飛び込めるんなら、スタートラインにはもう立ててんだ。後は自分の性格とか、適性とか、そういうもんと相談しながら場数を踏んでいけばいい」


「……でもあれは、ただ必死だっただけで……」


「じゃあ、尚の事だろ。前衛おれたちの本懐は、後ろに居る誰かを守る事だ。お前はいざという時に、それを体現出来たって事だ」


 確かにクラウスは、直接敵と殴り合うには血の気が足りない。気迫も、立っ端たっぱも、筋肉も、とにかく色々なものが彼には足りない。


 だが、敵と直接殴り合うだけが前衛では無いのだ。身体の小ささとはしっこさを活かして、敵陣を縦横無尽に引っかき回す奴が居る。雑魚のフリをして敵を油断させ、罠に誘い込む奴が居る。直接戦闘には参加しないものの、最前線で味方全体の動きを統率する奴が居る。やろうと思えば、それこそ幾らだって戦う術はあるだろう。


「後は試行錯誤して自分の道を見付けるだけだ。一○○回失敗したら一○一回試行錯誤してみりゃいい。一〇〇〇回負けたら一〇〇一回挑戦し直してみりゃあいい。命が続く限りは、お前は挑戦権を持ってるんだ」


「……でも、俺……失敗ばかりで……」


「だから何だ。お前が望むんだったら、満足するまで挑戦してみりゃいいだろ。さっきも言ったが、お前は一番大事なモノを持ってんだ。後は場数の問題だ」


 後は周囲と自分の擦り合わせだ。周囲を振り切り、自分の目標を貪欲に追い掛けるのも良い。周囲の視線に敗れて、夢を諦めるのも良い。決めるのは本人だ。


 ただ少なくともホムラは、クラウスは自分の道を歩くべきだと思う。


「どれだけ打ちのめされても自分の道を行きたいんなら、そうするべきだ。必要なんて無いだろ」 


 どうせ止まらないのだ。他人の目など気にせず、自分のペースで自分の目標に歩いていくべきだと。


 勿論、飽くまでである。彼に近しい者達は、もっと違う意見を言うだろう。


「……」


「……」


 会話が途切れる。見計らったようにリオルがやって来て、火を熾すから沐浴が終わったらそれに当たる事、自分達も水を浴びたいから満足したら交代する事を言ってきた。諸々了解して礼を言うと、彼女は濡れたホムラの服を持ってアネモネの所に戻っていった。火を熾したら、そのままホムラの服を乾かしてくれるのだろう。気が利くというか、妙に段取りに慣れているというか。本当に彼女は、只の冒険者なのだろうか。


「……”取り敢えず、やってみろ”……」


 双子が火を熾す様(古き善き原始的な手法ではなく、集めた枝葉にアネモネが魔術で火を付けるという力業だった)を見守っていると、不意にクラウスが呟くのが聞こえた。さっきから随分と静かになっていたが、どうやらホムラの言葉を反芻していたらしい。


「……”命が続く限り、俺は挑戦権を持ってる”……」


「ちゃんとやり方は考えろよ。ペースは守らねぇとな」


「…………」


「聞いてるか?」


 一抹の不安を覚えて、ホムラはクラウスの方に視線を遣った。彼は何処でも無い虚空を見詰めるような目で、ホムラが言った言葉を断片的にブツブツと呟いていた。


 但し、本当に虚空を見詰めている訳では無い。その目は今までの何処か他人の顔色を窺っているようなものとは違う、火が付いたような目だった。


 少なくとも、何らかの決意に満ちている。何処か危うげな光を湛えているのも否めなかったが。


「……」


 まぁ、彼の場合、やたら悲観的で否定的なものよりはずっとマシだろう。そう結論付けて、ホムラは彼から視線を外した。一応、焚き付けた責任もある。彼が目に届く範囲に居る限りは、ホムラも彼をサポートするべきだろう。


(……此処から出る間に、何か見付けられると良いけどな……)


 自らの決意を胸中に落とし込むようにブツブツと呟いているクラウスを横目に、ホムラは小川から上がるべく、弾みを付けて立ち上がったのだった。


 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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