第四章

嵐の前の

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 転移には、数秒も掛からなかった。


 普通、顔も知らない誰かにお膳立てされた空間転移は、そう気軽に使って良いモノじゃない。どんな所に放り出されるのか、分かったものじゃないからだ。そんな訳で、アネモネはこっそり口の中で呪文を唱え、防御・反撃用の準備をしていた。けれどそんな心配は、結果的には杞憂に終わった。


「わぁ」


 先ず最初に目に入ったのは、キラキラと水が光を反射する柔らかい光だった。大部分が闇に覆われた、小さな広間。何処からか石の壁を突き破って侵入してきた木の根がその勢力を拡大し、小広間と言うよりは小さな森か大樹の洞の中と言った方が正しいような有様になっている奇妙な場所。迷宮や監視塔の中ではよく見掛けた青い炎の松明は此処には無く、大部分は闇に呑まれていたけれど、天井が一部崩落し、そこから日の光が差し込んできていた。壁を破って大きく張り出してきている苔むした大樹の外皮や、その表面を何かの要因で流れ落ちている滝、その流れが広間の中を横断して何処かに流れて行っている小さな川などが、その陽光に照らされて薄闇の中に浮かび上がっている。


 石像も、蝗も、姿も見えなければ気配も感じない。それどころかこの場所にはそういう"悪意"の存在が一つも感じられないのだった。隣ではホムラが緊張を解く気配も感じられたから、きっとアネモネのそんな認識に間違いは無いのだろう。


 どうやら此処は、今のところ安全地帯のようだった。


「外だ」


 ホムラが、ホッと息を吐くように呟くのが聞こえた。


「はは、何だか久し振りな感じがするな」


 何だかお爺さんみたいな感じでそう続けながら、ホムラはフラフラと小川の畔の所まで歩いていった。其処は木肌の上に分厚い苔が生えていて、分厚い絨毯のようになっている。更には丁度日の光が燦々と降り込んで、小川の水がキラキラと輝いているものだから、何だかとても気持ち良さそうな場所だった。


 そこでホムラは、力尽きたようにストンと座り込んでしまった。


「ホムラ!?」


 ビックリしたアネモネは翼を展開し、一も二も無く彼の下へ急行した。


 ……彼は人を一人担いで延々と続く階段を駆け上がりつつ、自分達に群がってくる蝗の化け物達を悉く返り討ちにし、そのまま休む間も無く巨大な敵の攻撃を正面から捌き続けるという離れ業を見せた。


 良く良く考えなくても、凄まじいまでの重労働である。アネモネはてっきり、彼がその所為で力尽きてしまったと思ってしまったのだ。


「……ぅあ~~~~~……」


 だから、そんな気の抜けた声がホムラの口から漏れるのを聞いて、アネモネは安心する前に力が抜けてしまった。ホムラはそんなアネモネの心配を知ってか知らずか、日向ぼっこをする猫みたいに目を閉じている。


「人間、やっぱ日の光を浴びないと駄目だなァ……」


「……そうだね」


 取り敢えず、問題は無さそうだ。


 それが分かると取り敢えずどうでも良い気分になってきて、アネモネはその場にしゃがみ込み、目を閉じるホムラの横顔を眺める。それだけじゃちょっと物足りなくて、手を伸ばしてその頭を軽く撫でてみる。よっぽど疲れているのだろう。ホムラは僅かに眉を動かしただけで、特に何も反応を見せない。


 触れた髪はごわごわで、指先は瞬く間に赤く汚れた。


 本人の汗や汚れだけでなく、蝗の化け物や芋虫女巨人の血に塗れ、今のホムラはお世辞にも清潔とは言い難い。でも、不潔だとも何とも思わなかった。


「頑張ってくれたもんね」


 ホムラは答えない。こうしていると、裏路地の猫を相手にしているような気分になる。ホムラは大きいし、強いから、どちらかと言えば虎だろうか。


 普段のホムラは、何となくだけどずっと”高い所に居る”イメージがあって、アネモネは絶対にこんな事出来ない。そう思うと段々と欲が出てきて、先ずはそっと、髪の中に指を潜り込ませてみる。何も言われないのを良い事に、そのままゆっくり髪を鋤いてみる。


 ホムラはやっぱり、何も言わない。目を閉じたまま動かなかった。


 ……何だか、可愛い。


「けふん」


「うひゃあ!?」


 唐突に聞こえてきた咳払いに飛び上がり、アネモネは我に返った。慌てて其方に目を遣ると、何時の間にか追い付いてきていたリオルとクラウスが、此方を見詰めていた。


「否定。邪魔をするつもりはありません。どうか気にせず、続けて下さい」


「いやいや、何の話かな!?」


「それで、今後の方針ですが」


「無視!」


 何だか気まずい。けれど、なんで気まずいのかは自分でも分からない。リオルに見られるまで何とも無かったのに、どうしてこんなに、恥ずかしい所を見られた、なんて気持ちになったのだろう?


 アネモネには分からない。分からないから無駄にあたふたしてしまって、暫く話の流れには加われなかった。


「折角です。このまま暫く休憩としましょう」


「あー、そうだな。皆疲れてるだろ? 歩哨は俺がやろう」


「否定。ホムラ、先ずは貴方が最初に休むべきかと。折角水場が近くにあるのです。どうせなら身体も清めて、心身ともにしっかりリフレッシュする事を推奨します」


「あ? あー……いや、じゃあお前ら先にやれ。俺は後でも全然気になら」


「否定。率直に言うとホムラ臭いです。士気に関わります」


 ホムラは、ちょっと傷付いたようだった。


 いやまぁ、確かにちょっと臭うけれど。それは仕方無い事だし、少なくともアネモネは気にならない。……気にしない。


 何より、そんな言い方は最前線で身体を張り続けてくれていたホムラに失礼だし、可哀想だ。そんな訳で、アネモネはリオルを鋭く睨み付けたが、彼女は逆に「まぁ見てて下さい」的な感じで目配せしてきた。


「……まぁ、そういう事なら」


 何処と無くションボリした様子で、ホムラは立ち上がって、小川の下流の方へと歩いていった。朱い衣服を留めている腰の布を無造作に取り、くるくると回すように折り畳んでその辺に置く。次いでその特徴的な朱い衣服も脱ぎ始め、あれはもしかして、水浴びをしようとしている?


「恥じらい!!」


 思わず叫びながら、慌てて後ろを向いたアネモネだった。戦いでも無いのに心臓がバクバクしているし、顔が熱い。がこんなにも恥ずかしいなんて知らなかった。


「貴方もどうぞ、クラウスさん」


 一人で騒いでいるアネモネを他所に、リオルは全然動じずに、クラウスにも水浴びを勧めていた。彼も蝗の血を浴びてるし、きっと気持ち悪さで言えばホムラとどっこいどっこいだ。監視塔は特に、彼等二人の負担が大きかった。彼等が先に水浴びとかするのは、まぁ、アネモネも賛成だ。


 賛成だけど、裸が増える。


 それはちょっと、なんか。


 なんか恥ずかしい。


「いや、でも俺は……」


「否定。その遠慮は無駄です。形はどうあれ、貴方はホムラと共に戦場を駆けました。なら、その身を濯ぐ理由は十二分に」


「……しかし……」


「貴方の悩乱は、貴方だけのものです。のです。リオルはそれにに付き合ってやる義理などありませんよ」


 ピシャリと言い捨てて、リオルは半ば突き飛ばすようにクラウスをホムラの方に押した。斬って捨てるような強い言葉に、度肝を抜かれたのだろうか。一度歩き始めると後は慣性で進んでいくように、彼はホムラが服を水に付けてバシャバシャしている方へ歩いて行った。(どうやらホムラは、身体を洗う前に服を洗うつもりらしい)。


「言い過ぎじゃない?」


「……」


 ホムラの方は見ないようにしつつ、アネモネはリオルを窘める。即座に反論してくるものと思っていたが、彼女は珍しく何も言わなかった。


「――変わらない、か」


「? 何が?」


「否定。何でもありません」


 瞑目して頭を振り、リオルはそんな事を言った。何でも無い、と言う割に、その表情は決して何でも無いようには見えない。


 リオルはリオルで、何か思う所があるのだろうか。


 だったら反射的に窘めたのは悪い事だったかなぁ、とそんな事を考えながら、アネモネはクラウスが歩いていった方向に目を遣った。


 目を遣って、後悔した。


 見えてしまった。ホムラにはこっちを全く気にしている様子が無くて、だから事ある毎に色々と見えてしまう。咄嗟に両手で目を覆ったアネモネだったけれど、指の隙間からバッチリ色々見えてしまう。


 過剰なまでに膨らんでは居ないけれど、陰影が濃い締まった感じのする筋肉。大小様々な刀傷は勿論、火傷の跡や矢が刺さった跡、その他どうやって付いたか分からない傷跡等々、とにかく凄い疵痕の数々。


「……ひゃー……」


 何だかドキドキする。今、アネモネの顔からはきっと湯気が出ているに違いない。見ちゃいけないと分かっているのに、何故か視線を外せない。


 冷水のようなリオルの声が脇から聞こえたのは、まさにその時の事だった。


「姉さまのスケベ」


「!?」


 反射的に、アネモネはリオルの顔を見る。


 リオルは何事も無かったように、特に恥ずかしがる様子も無く、ホムラ達の方を眺めていた。


「さ、火をおこす準備をしましょう、姉さま。彼等は濡れて冷えているのですから、火を用意しておけばきっと有り難がる筈です。好感度アップですよ?」


「なな、なん……!?」


「姉さまの提案という事にしておきます。好感度アップですよ、姉さま?」


「う、ぅぅ……!」


 こっちが何も言えないでいる間に、リオルはどんどん言葉を重ねていく。心の柔らかい所をグサグサと踏み込んでくるそれらの言葉に、言い返したい事はどんどん増えていく。急速に増えていくものだから喉の奥で渋滞を起こし、結局一つとして出て来ない。


「り、り……!」


「り?」


 けれど、一つだけ。


 一つだけ、どうしても言い返したい事がある。


 アネモネと違って、あまりにもリオルに、一つだけ、どうしても、これだけは言い返したい事がある。


「何です、姉さま?」


 渋滞を起こしている数々の言葉をただの一言に集約し。


 アネモネは、僅かに首を傾げて見せているリオルに向かってその一言を叫んだのだった。



「――すけべとか、リオルに言われたくないよ!! えっち! へんたい!」


 まずい。


 言い過ぎた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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