深淵にて ~ある男の目覚め~
自身が咽び泣く声で目が覚めた。
それがどこからともなく流れ込んでくる風の音であると気付いたのは、頬を撫でる冷たい感触があったからだ。ひやりと心地良い感触は、初めは誰かの指の感触かとも思ったが、違う。空虚な感触には馴染みがあったし、それによって眠りから覚める経験も数え切れない程にある。今回もまた、そんな状況の一つなのだろう。
「……」
目を、開く。
途端に青白くて眩しい光が目を灼いて、思わず目を閉じてしまった。ずっと目を閉じていた所為で、目が暗闇に慣れきってしまっていたのか。少ししてから薄く目を開け、何度か瞬きして目を慣れさせる。
どうやら、相当長く眠っていたらしい。そう言えば、ずっと夢を見ていたような気がする。どんな内容かは覚えていないが、とても長くて、とても悲しい、そんな夢を。
「……夢?」
声が、聞こえた。
自身が呟いたのに自分の声だと最初に気付けなかったのは、その声があまりにも嗄れていて、掠れていたからだ。まだ若い男の筈なのに、まるで一〇〇年生きた爺のような、そんな声だった。声の掠れを自覚すれば、それに連動して喉の渇きも自覚する。喉の渇きも自覚すれば、頭の痛みや身体の怠さなどの様々な不調も知覚出来た。
「……俺、は」
漸く目が慣れてきた。光に目を灼かれた時に咄嗟に視線を下げていたので、真っ先に見えたのは胡座を掻いた自らの足と、自らが纏う朱い着物だった。炎の刺繍が入ったその着物は、故郷の民族衣装で一張羅だ。軽くて丈夫で着慣れているし、自分の名前を関した刺繍が入っているという事もあって、もう随分長いこと現役をはっている。
ホムラ。
そう、それが自分の名前だ。
「……」
顔を上げる。
視界の端、それぞれ左右にユラユラと揺れる青白い炎。音は無く、燃料らしいモノも何も無く、ただ炎だけが皿っぽい何かの上で揺れていて、辺りの闇を退けている。どういう原理かは分からないが、取り敢えずは光源として役に立ってくれているし、別に危険な気配もしない。特に拘らない事にして、ホムラは掻いていた胡座を解いて、その場からゆっくりと立ち上がった。
どうやら此処は、何かの小部屋であるらしい。木の根が絡み合って出来たような壁も、同じく木の根が寄り合わさって出来たような天井も、狭いし低い。小部屋と言うよりは、木の中に偶然出来た
此処は、一体何処なのだろう。
そして自分は、一体どうしてこんな所に居るのだろう。
分からない。思い、出せない。
「……」
とにかく、いつまでもこんな所でぼぅっと突っ立っている訳にもいかない。頭は痛むし、身体は鉛のように重い。喉はカラカラで、腹も減った。
巡らせていた視線を前に向けて、ホムラはその場から歩き出した。二、三段しかない小さな階段を一跨ぎで降りて、前方に見えていた小部屋の出口らしき場所へ向かう。距離はそれ程でもなかったが、台座の端に置いてあった青白い炎では、些か光量が足りず、出口周辺には闇が淀んでいる。詳細は分からず、せいぜい人が出入り出来そうな穴が空いている、という事くらいしか分からなかった。
……だから、
「――おぉ……」
「!?」
出口を抜けようとしたその瞬間、すぐ脇から嗄れた声が聞こえてきた時は、心底驚いた。思わず立ち止まり、ホムラは声が聞こえてきた方を見る。ただ見るだけでなく、意識を遣って気配も探る。
しかしそいつは、完全に闇と同化していた。気配なんて全く感じ取れなかったし、闇に慣れ始めていていた今のホムラの目でも、直ぐには見つけ出す事が出来なかった。
「御子よ、お目覚めになられましたか……」
「……御子?」
すっぽりと全身を覆うボロボロのローブ。俯いている所為で、顔はローブのフードに完全に隠れて確認する事が出来ず、また腰が大きく曲がっているのでそれを覗き込む事も叶わない。嗄れた声と言い、大きく曲がった腰と言い、老人だろうか。推測出来る事と言えばそれだけで、あとは特に特徴らしい特徴は見受けられない。
否、もう一つ。
「これを」
そいつは何か長大な物を、両手で恭しく捧げ持っていた。ホムラの身長と同じくらいか、或いはそれ以上あるかもしれないそれは、緩やかに湾曲しているように見える。老人と同じく半ば闇と同化しているそれが何なのかは判別が付かなかったが、老人と違って、其方には何故か覚えがあるような気がした。
光に引き寄せられる蛾のように、ホムラがフラリとそれに手を伸ばしてしまったのはその為だ。何の心の準備も無いままに握りしめたそれは、うっかりしているとそのまま魂を地の底まで引き摺り込まれるような、そんな恐ろしげな重みがあった。
「……これは?」
思わず出てしまった声だった。問い掛けと言うよりは、意味の無い独り言と言った方が正しい。
しかし、老人はそうは思わなかったようだった。相変わらずの今にも消えそうな嗄れ声で、しかし何処か嬉しそうに笑っているようにも聞こえる声で、老人は答える。
「それは、御身の牙。御身の信念。御身の半身でありましょう。この先の迷宮は御身に牙を剥きましょうが、なに、その剣さえあれば……」
剣。
そう、それは確かに剣、大太刀のようだった。武士が斬り合いに使う太刀よりも更に大振りな、例えば合戦などで馬ごと敵を両断する為に使われる斬馬刀。その類だ。
けれどホムラには、もっと気になる事があった。心の底に淀む微かな躊躇いを振り払うように、ホムラはその大太刀の鯉口を切る。
瞬間、空気が変わった。どこからか冷気が入って来たかのようにその場の温度が僅かに下がり、台座の炎が身じろぎをするように大きく揺らめく。室内の闇が少しだけ濃くなり、空気の流れの音のようにも、幾重にも重なった人々の溜息のようにも思える音が何処からか聞こえる。
否、何処からか、ではない。それはホムラの直ぐ近くから、ホムラが抜いた大太刀の刀身から漏れ出していた。
「魔剣か」
一目で分かった。この剣はあまりにも多くの血を吸ったのだ。元は只の斬馬刀だったのだろうが、斬られた者の怨嗟が染み付いて、この剣を魔剣たらしめた。刃を覗かせた瞬間、冷気と共に漏れ出してきた墨色の
「嗚呼、終わった」
嬉しそうな、老人の声。
徒に覗かせていた刃を納め、ホムラは改めて老人に目を遣った。
自由になった両手でフードの下の顔を覆い、老人はその場に膝を突くと、静かながらも感極まったような声で先を続ける。
「務めを、果たせた。務めを果たせたぞ、なぁ」
膝を突いて蹲った老人の姿は、再び完全に闇と同化して、ホムラの目には見えなくなってしまった。気配も感じないし、息遣いも聞こえない。本当にそこに老人が居るのか、ホムラにも自信が無くなってくる程だ。
「……バルドルよぅ――」
その言葉が、最後だった。
老人の痕跡が完全に消え失せて、ホムラはその場に一人きりだった。或いは手を伸ばせば、闇の中に蹲る老人に触れる事が出来るのかも知れない。が、ホムラにはそんな気は起きなかった。上手く言葉に出来ないが、「野暮だ」という気すらした。
「……」
大太刀の鞘には太刀緒が付いていて、ホムラはそれを使って大太刀を自らの背中に結わえ付ける。視線を巡らせて小部屋の出口、その先に視線を巡らせると、出口の先は狭い階段になっていて、上へと通じているのが見えた。老人の言葉を信用するなら、迷宮とやらに繋がっているのだろう。ホムラに向かって牙を剥く、背中の大太刀に頼らなければ突破出来ない、危険な迷宮とやらに。
とは言え、何時までもこんな所に居る訳にもいかない。腹も減ったし、喉も渇いた。色々と状況は掴めないままだが、生きてさえ居ればそれは追々分かる事だろう。
「……行くか」
兎にも角にも生き延びる為に、ホムラは、迷宮に向けて歩き出したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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