第5話~こうかんにっきの5ページ~

 かばんがお風呂から上がると、セーバルは何やら机に向かって一生懸命ペンを走らせているところだった。

 別に覗こうというつもりはなかったのだが、セーバルの余りの集中ぶりについその様子を後ろから黙って見守ってしまう。

 絵でも描いているのか、それともさっき言っていた準備の一部なのか、ペンのコツコツ、シュッシュッという音が聞いていて心地いい。

 暫くしてふぅ、とセーバルが一息ついたのを見計らい、ようやくかばんが声をかけた。

「セーバルちゃん、何書いてたの?」

「わっ!? かばん、いつからいたの?」

「ちょっと前だよ。セーバルちゃんが物凄く集中してたから声かけたら悪いかなって思って待ってたんだ」

 もう一度「何書いてたの?」と尋ねるかばんに、セーバルが「ん」と机の上にあったものを見せてきた。

「これは……?」

「日記。今日あったこと、忘れないように、ここに書いてる。今日は久々に色んなことがあったから、つい書くのに夢中になっちゃった」

 そう言うセーバルの顔は実に満足げだ。まだ真新しいノートの表紙には可愛らしい文字で『セーバルのにっき』と書かれている。それを見た時かばんはあることに気づいた。

「えっ!? セーバルちゃんって文字書けるの!?」

「……かばん、わたしのこと、バカにしてる?」

 ムッとしたセーバルの表情に慌ててかばんが「ごめんね! そうじゃなくて」と謝る。

「僕のいたキョウシュウだと文字を書くどころか、読める子すら殆どいなかったからちょっとびっくりしちゃって」

 セーバルの持つノートをまじまじと見る。

 今日あったことやその日思ったことを文字にして残す、というのは中々に興味深い行為だと思った。きっとこういうものには書く楽しみや後から読み返す楽しみ、形として残しておく楽しみなど様々な楽しみ方があるのだろう。

 それに過去の自分を遡って客観的に見る、というのは何だか考えただけでワクワクしてくる。もしかしたら本というものも、元々はこういう風に大事なことを忘れないように書き留めたり、後世に伝えるべきことを書き残したりしたのが始まりなのかもしれない、と思ったりもした。

 セーバルに「面白そうだね」と率直な感想を述べる。すると、彼女から意外な答えが返ってきた。

「かばんも、書く?」

「え?」

「かばんも一緒に、日記、書こう? うん、それがいい、決定」

 セーバルがうんうんと一人納得したように頷く。

「でも僕、文字は読めるけど書いたことないし、うまく書けるかどうか……」

「大丈夫。セーバルが、手取り足取り、教えてあげる」

「ほんとに!? ありがとう!」

 それからセーバルにペンの持ち方、文字の書き順、この日記では左から右に書くこと、全部埋まったら次のページに移ることなど、書く時のルールを一から順に教わっていく。

 セーバルからは「文字が読めるならすぐに書けるようになる」と言われ、確かに考えていたよりは難しくもなく、ものの数十分もするとある程度の文字の書き方はマスターしてしまった。

 最初は手取り足取り教えると豪語していたセーバルも、段々とかばんが一人で勝手に学習していってしまうので途中から飽きだし、最終的には「つまんない」と言って不貞腐れてしまった。

 ちょっと悪いことをしてしまったな、と反省しているところに、ふとある閃きが頭を過る。

「そうだ! ねぇセーバルちゃん、これ表紙にも文字書いていい?」

「……いいけど、何書くの?」

「えへへ。ちょっといいこと思いついたんだ」

 相変わらずむすっとした表情のまま、つっけんどんな態度をとるセーバルを横目にかばんがペンをゆっくり動かす。

「できた!」という声に、ようやくセーバルがこちらを向いた。

「これって……」

 表紙に書かれた『セーバルのにっき』に足された文字を見て、セーバルがはっきりと息を呑む音が聞こえた。

『かばんと、セーバルのこうかんにっき』

 可愛らしいセーバルの文字と、自分の今書いた不格好にふにゃふにゃな文字を見比べる。これでも精一杯綺麗に書いたつもりだったのだが、やはりこうして並べてみると粗が目立った。

 それでも、セーバルが気に入ってくれたら嬉しい、そう思って書いた。日記の前に交換、とつけたのは交代交代で日記をつけていったら面白いのではないか、という発想からだった。

 セーバルの反応が気になり、恐る恐る彼女の方を見たかばんは、思わず目を見開いた。

 セーバルは、泣いていた。

 ただ静かに、声も洩らさず、ともすれば泣いているのかわからないほど普段と変わらない表情で。しかし頬を伝うガラスの粒が、それが本物であると訴えている。

「セーバルちゃん……?」

 かばんが声をかける。セーバルが涙を拭いながら答えた。

「……ごめんね。なんでもないよ。ほんとだよ?」

 か細い声でそう洩らすセーバルの瞳からは、なおも涙がぽろぽろと零れ落ちている。

 あまりの出来事にその場から動けなくなったかばんは、しかしすぐに自分のやってしまったことに激しく後悔する。

「ご、ごめんねセーバルちゃん! 僕セーバルちゃんの大事な日記に変なことしちゃって……」

 やめておけばよかった。

 そんなつもりはなかった。

 彼女の大切なものを自分が穢してしまったという思いが一気に押し寄せ、自分まで泣きそうになってくる。本当に泣きたいのは、そして今泣いているのはセーバルなのに。

 しかしセーバルは「違う!」とかばんの声を遮った。

「セーバル、嬉しくて泣いてる。だから、謝らないで」

 震える声でそう告げて顔を上げる。力なく笑ったその表情が、精一杯かばんを心配させまいとしているのが透けて見えて、それにもまた泣きそうになる。

 暫くしてセーバルが言った。

「もう大丈夫。心配かけて、ごめんね?」

「う、うん。僕の方こそ、なんかごめんね……」

「だから謝らないで。かばんは何も悪くない。――でも、セーバルも何も悪くない。かばんはいいことして、セーバルもそのことで泣いた。だから誰も悪くない。むしろいい」

 そう言ってニカッと歯を見せる。その表情はもういつものセーバルに戻っていた。

「わたしたちの交換日記、大切にしようね」

「――うん!」

 セーバルがわたしたちの、と言ってくれたことで心が救われた気がした。自分だけが書くのではない、二人で書いていくのだ、という強い意志を感じた。

 そのまま日記を大事そうに両手で抱え、本棚へ持っていく。

 一瞬セーバルが「――今度は、全部埋まるかな」と呟いたような気がしたが、続けざまに言った「じゃあ、そろそろ寝よ?」という声にかき消されてしまった。

 窓の方を見る。さっきまであんなに近くに見えていた月が、今は小石ほどの大きさで光っていた。













 灯りが消され、部屋の中が一瞬にして静寂に包まれる。頑丈な煉瓦で囲まれた灯台の中は、周りが海ということを忘れてしまいそうになるくらい静かだった。

「かばんは、わたしのベッド使っていいよ」というセーバルの誘いを一度は断ったものの、客をもてなすのは当然だという彼女の意見は折れることがなく、最終的に押し切られる形でかばんはベッドに横になった。

 セーバルが掛けてくれた毛布から微かな彼女の匂いがする。

 元々一定の縄張りや住居を持たないかばんにとって野宿やバスの固い後部座席で眠ることなど日常茶飯事だったが、やはりこうやって周りを囲まれた部屋の中でふかふかのベッドと毛布に包まっているのは安心する。そう言えばろっじで過ごした数日は非常に身体の調子が良かった。これもヒトの特徴の一つなのだろうか。

 寝返りを打とうとして思わず脚を庇う。ピキ、と鋭い音を立ててふくらはぎが攣りそうになった。その日のうちに筋肉痛が来るのは若い証拠だと博士が言っていたことを思い出し苦笑する。若いのはいいが痛いのは御免だ。

 ふとセーバルのことが気になって彼女の寝ているソファに目を向ける。もう眠ってしまっただろうか。窓から差す月明かりだけではその姿までは確認できそうになかった。

 ゆっくりと目を閉じながら、かばんはさっきあったことを思い返していた。

 どうしてセーバルは、泣いていたのだろう。

 あの時はあまりの突然の出来事に訊くことができなかったが、今になってそのことが尾を引いていた。

 かばんはあの泣き方を知っている。

 あれは、サーバルの時とまったく一緒だ。サーバルがろっじで見せた、あの泣き方と。

 まるで意図もせず勝手に流れ落ちてしまったというようにしとしとと零れる涙は、わんわん声を上げて泣く泣き方よりも心にくるものがあった。結局何故涙を流したのかは今でもよくわかっていない。

 しかしそれとは決定的に違うことが一つある。

 セーバルは、ちゃんと理由があって泣いたのだ。

 彼女は嬉しくて泣いてる、と言った。

 しかし、その嬉しさの理由については話さなかった。話す必要がないと判断したのか、それともあえて話さなかったのか。いずれにしても、その嬉しさの奥に、言いようのない何かが潜んでいる気がした。それは殆ど直感的なものだ。杞憂であってほしい、と願う。

 しかし彼女が最初に言っていた言葉を思い出す。


 ――サーバル、セーバルのトモダチ。でも、ここには、いない


 あの時言ったここにはいないという意味。

 ではどこにならいるのか。そして、何故ここにはいないのか。

 そしてかばんにはもう一つ、気になっていることがあった。それは浜辺で渡されたコントローラーの裏に書いてあった文字だ。

 そこに書かれていたのは、サーバル、という名前だった。掠れかかってはいたが確かにそう書いてあった。

 つまり彼女がサーバルと面識があり、それもトモダチ、と呼べるくらい親密な仲だったのは間違いない。そしてそのサーバルと何らかの理由で別れてしまったのだということも。

 それはきっとかばんの知るサーバルではないのだろうが、それでもかばんには胸が詰まる思いがした。決して他人事ではない、強い気持ちが胸を衝く。

 黒セルリアンにサーバルが襲われた時、視界がぐにゃりとねじ曲がって立っていられなくなったのを今でも覚えている。

 一瞬で目に見えるもの全てが色を失い、足元から何かががらがらと崩れ去っていくのを感じた。不安と恐怖がおなかの底から喉までを、わっと満たし、寒くもないのに震えが止まらなかった。視界が涙で白く歪み、現実と虚構の境界線を曖昧にさせる。

 何も見えない。何も聞こえない。

 それは彼女のいない世界をそのまま表していた。

 彼女のいない世界に、自分は存在しない、いらない、消えてもいい――。そんな風に一方的に世界から拒絶された気持ちになった。

 無駄な犠牲になるだけだ、そうヒグマに言われてそれでもいいとその時は思った。

 しかしそれが偽りの感情であることにすぐに気づいた。

 自分を今衝き動かすのはそんなネガティブな感情じゃない。

 彼女には生きていてほしいのだ。この愛と希望と優しさに満ちたジャパリパークで、自分を受け入れてくれたこの世界で――!

 あの時感じた感情は本物で、紛れもない真実だと今でも思っている。

 セーバルが何故トモダチと呼んだサーバルと別れてしまったのかはわからない。喧嘩別れをしたのか、セルリアンに食べられたのか、或いはそのどちらでもない何か別の理由か――。そしてそれが、彼女が泣いた理由と関係があるのかもわからない。

 しかしできるだけそばにいたい、と思った。それは決して自分がサーバルの穴埋めをできる、という思い上がりなんかではないし、勿論彼女を憐れんでいるわけでもない。

 ただ純粋に、自分もセーバルの友達トモダチとして多くの時間を過ごしたいと思ったのだ。

 たとえ悲しみに慣れてしまうことがあっても、忘れることは決してできない。彼女がもし何か思い悩んでいることがあるのなら力になってあげたい。そう思うのは、友達として当然のことだ。

 明日から彼女との新しい旅が始まる。ラッキービーストになんて説明しよう。いきなり彼女を連れ帰ってきたら驚かれるだろうか。そう言えば彼女が何のフレンズかまだ答えをもらっていなかった。

 意識が段々遠退いていく。深い微睡まどろみの中、ふと薄目で見たソファにセーバルの姿は見当たらない気がした。

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