第4話~ぽっかぽかの4ページ~
「かばん、お背中、お流ししまーす」
セーバルがそう言いながらかばんの背中にあたたかいお湯をかける。ちょっぴり熱く感じるのは身体が冷え切っているからか、反射的に背中がビクッと硬直してしまう。
そして次にひんやりとしたセーバルの手が触れた瞬間、今度こそ耐え切れずにかばんは「ひゃっ」と悲鳴を上げてしまった。
「お客さん、凝ってますねー」とおどけた口調でセーバルがその手を肩に持っていく。
確かに今日一日、ずっと電池を背負っていたから肩は凝っているのかもしれないが、この状況でセーバルに指摘されると退路を断たれてしまったようでかばんは押し黙ってしまう。
そして心の中で静かに呟いた。
――どうして。どうしてこんなことに――。
「かばん、お湯加減、どう?」
「うん。とってもいい気持ちだよ……」
脱衣所と浴室の扉一枚を隔てた先でかばんが答える。
お湯に浸かると、それまで強張っていた筋肉が嘘のようにほぐれていくのを感じた。
やはり今日は色々あって疲れていたのだろう。一度湯に身を沈めると、ぐっと身体が重くなった気がした。
水面から手を突き上げるようにして伸びをする。
思わず「あぁ……」と声が洩れた。
セーバルから「よかったら、お風呂も入っていって。身体、冷えてる、でしょ?」と誘われたのは天体観測が終わってからだった。
自分の家にお風呂があるということにまず驚きつつも、お風呂、という単語を聞いた時に真っ先に思い浮かべたのがゆきやまちほーの温泉だったので「今から準備するの大変じゃない?」と訊くと「そんなに、立派なものじゃない」と笑われた。それでもセーバルの家のお風呂は、かばん一人で入るには十分過ぎる広さだった。
そっと水面に顔を近づける。
鼻腔にふわっと、微かな花の香りが広がった。温泉とはまた違う、いつまでも嗅いでいたくなるような落ち着く香りだ。何の花だろうか。セーバルに訊くと「ラベンダーの入浴剤。リラックスさせる、効果ある」と言っていた。
あたたかい空間に身も心も包まれながらゆっくりと目を閉じると、今日あったことが走馬灯のように頭を巡っていた。
この島に来て一番驚いたことは恐ろしく文明が発達しているということだ。一体今日だけでどれほどの衝撃を受けただろうか。
キョウシュウとは比べ物にならないほど、この島は未来に生きている。
ただかばんもキョウシュウの全てを知っているわけではないし、もしかしたら自分の知らない文化や見たことのない道具がまだあるのかもしれない。
しかし、たった一つ海を越えただけでこんなにも違うものなのか、という思いの方がどうしても勝ってしまう。自分がまだ何も知らない、フレンズになったばかりの頃を思い出した。それくらい彼我の差は圧倒的だった。
そしてその環境に順応し、当たり前の日常として受け入れているセーバルにも同様にかばんは衝撃を受けた。こんな豪勢な家に住み、お風呂に入り、趣味はゲームに読書に映画に天体観測――。とても文化的だ。キョウシュウでは殆ど体験したことがない。
しかし何故か、かばんはこの生活に既視感を覚えていた。懐かしさ、と言った方がいいかもしれない。
とにかく、こんな生活を一度もしたことがないのに、あたかも自分は経験したことがある、或いは昔経験していた、そんな感覚がずっとつき纏っていた。
そこでふと、ある考えが頭を過った。
ひょっとしたらヒトのあるべき姿とは、こういうものなのかもしれない、と。セーバルならヒトの詳しい生態や、もしかするとヒトが何故このジャパリパークから突然姿を消してしまったのかも知っているかもしれない。
彼女を知ることが、自分を知ることに繋がるのだとしたら、この旅でこの島に寄ったことがもはや必然とすら思えてくる。
とにかく後でセーバルに訊いてみよう、そう思ったその時、後ろの扉がバン、と勢いよく開いた。その音に後頭部を思いきり叩きつけられたようにかばんが振り向く。
そこには一糸まとわぬ姿で仁王立ちするセーバルがいた。
「え!? セーバルちゃん!?」
目を瞬く。セーバルが言った。
「やっぱりわたしも、かばんと一緒にお風呂、入る」
「えぇーーー!?」
半分になった浴槽は思ったより狭かった。
膝を抱えて座るかばんの目の前にはセーバルが陣取り、さっきからじっとこちら見つめている。目を合わせるのが恥ずかしくて俯いていると、セーバルがちょん、と足でつついてきた。
「かばん、さっきからだんまり。どうかした?」
「えっと……何ていうか……。温泉で皆入るのと違って、何か物凄く恥ずかしくて……」
かばんが更に顔を膝に埋める。
どうしてこんなに恥ずかしいのか自分でもよくわからない。温泉の時と違ってこの姿でこれだけ距離が近い、というのはどうにも落ち着かない。未だに服を脱ぐことにすら抵抗があるというのに。
心臓の高鳴りも、紅潮した顔もセーバルには気づかれたくなくて、なるべく視線を逸らす。
セーバルの「わたし、皆で温泉入るの、楽しい。でも、二人だけで入るお風呂も、楽しい」という見当違いな答えに曖昧に笑って誤魔化した。
その反応に見かねたセーバルが、突然お湯を跳ね除けながらかばんの横までやってきて、同じように体育座りをする。お湯がざばん、と波を打って溢れた。
触れた肩が、冷たかった。
「セーバルちゃん、肩冷たいね」
思わずそのまま思ったことを口に出してしまう。
しかし当のセーバルは他人事のように「そう?」と言っただけでまったく気にしていない様子だった。もっとも、セーバルの方がかばんより後に湯に浸かったので身体があたたまりきっていないのも当然だ。
凝視している、と思われたくなくてなるべく気づかれないように横目でセーバルの身体をそっと覗く。
クリスタルのように透き通った肌が水滴を弾いて光っていた。その人形のような細く白い腕は、触れたら折れてしまうのではないかと思うほど儚く見える。
綺麗な腕だな――と、思わず見惚れていると、その腕がすっと伸びてきてかばんの視界を覆った。
「かばんの、えっち」
「えぇっ!?」
気づかれてた――という気持ちが先走り、うまく言葉が出てこない。すぐに否定しようとしたところで、いきなりばしゃ、とお湯をかけられた。
「うわっ!?」
「そんなかばんには、おしおき」
もう一度、ばしゃん、と今度は浴槽のお湯を両手ですくい上げるようにかばんにかける。勢いよく宙を舞った水しぶきが、かばんの頭上めがけて一気に降り注いだ。
「うわぁ!? そ、それなら僕だって――えいっ!」
今度はかばんが湯船の中で手を握るように沈め、溜まったお湯をセーバルめがけて発射する。「わぷっ!?」という悲鳴と共に、水鉄砲は見事セーバルの顔に命中した。
「あっ!? ごめんセーバルちゃん! 大丈夫?」
思いつきでやってみた水鉄砲がまさか顔に当たるとは思わず、かばんがすぐに謝る。
しかしセーバルはこちらを振り向こうとせず、黙ったまま視線を下に落としている。その前髪から滴る水滴だけが浴室にこだましていた。
やがてセーバルがすっと顔を上げ、そして言った。
「凄い! 何それ!?」
「……え?」
「凄い! 今の、何それ? ぴゅーって水出すやつ。あれ、何? どうやったの?」
呆気にとられるかばんをよそに、なおもセーバルは凄い凄いと繰り返しはしゃいでいる。
怒っていたわけじゃなかった――とひとまず胸を撫で下ろした。むしろ水鉄砲に興味津々といった様子でこちらに羨望の眼差しを向けている。
かばんが「セーバルちゃんもやってみる?」と訊くと「やる!」と目を輝かせながら言った。
ひとしきりお風呂遊びを終えたところでセーバルが言った。
「かばん、やっぱり凄い。色んなこと思いつく天才」
セーバルがタオルを湯船に浮かべながらクラゲを作って遊んでいる。水中からタオルの中心を持ち上げ、そこから空気を逃さないように両端を握るとクラゲのような形になる、と先程教えたのを早速試しているようだ。
「なにか、秘密、あるの?」
空気が入ってぷっくりと膨れたクラゲの頭を片手でツンツンしながらセーバルが尋ねる。
かばんは少し考えた後「僕も単純に思いついたことを言ってるだけだからよくわからないんだけど」と前置きをして語った。
「僕はトキさんみたいに空が飛べるわけじゃないし、チーターさんみたいに足が速いわけでもないけど、考えるのは得意みたいで。きっとそれがヒトっていうフレンズの特徴なんだと思う。――前にね、フレンズによって得意なことが違うって教えてくれた子がいたんだ。その子のお陰で今の僕があるっていうか……。だから――」
その時、ぼすんっ、とクラゲの空気が間抜けな音を立てて水面で弾けた。波紋がゆっくりと広がっていく。
「きゃはははは」
「ちょ、セーバルちゃん! 僕の話聞いてた!?」
「聞いてたよ。かばんは、足が速くて、空も飛べるスーパーヒーロー」
「全然違うよぉ!」
はぁ、とため息をつきセーバルを眺める。彼女は自分で質問したことすら忘れているようでまたクラゲ作りに没頭していた。
しばらくして、ぽつり、と呟くようにセーバルが尋ねた。
「かばんは、辛くならないの」
一瞬何のことを訊かれているのかわからず「え?」と訊き返してしまう。
「かばんは、一人で旅してるんでしょ。そういうの、寂しくなったり、辛くなったり、途中でやめたくなったりしないの」
思いも寄らない質問に、言葉が詰まる。二人の間に沈黙が流れた。
ややあって、かばんが短く息を吸ってから答える。
「確かに一人だといろいろ大変だし――たとえば今回みたいなアクシデントがあると心細くなったりもするけど……。でも、自分でやるって決めたことだから」
「それに」とかばんが続ける。
「僕にはキョウシュウで待ってくれてるみんながいるから――。だから頑張れるっていうか、一人じゃないって思えるんだ」
寂しくないと言えば、それは嘘になる。
思えば一人で旅をしたことなどこれまで一度もなかった。いつでも隣にはサーバルがいて、困った時も他のフレンズたちから幾度となく助けられてきた。
彼女たちは自分のためにジャパリまんを集め、バスを船に改良し、ある者は感謝を、またある者は励ましを、そして涙を――皆反応は様々だったが誰もがその旅立ちを祝福してくれた。彼女たちの顔を思い出すだけで元気が湧いてくる。
だからこれから先の旅路に困難はあっても不安はない、と思っている。
もっとも、今日がその旅立ちの初日だからそうやって根拠のない自信を振り回せているだけなのかもしれないが。
「かばん、なんか裸のタイショーみたい」
「えぇっ!? は、裸?」
それは今まさに裸だからそう言ったのだろうか。しかし大将とは一体どういうことだろう。ライオンは部下から大将、大将と呼ばれていたがそれとは違うのだろうか。
セーバルがタオルの端を結んで浮かせたクラゲを眺めながら続ける。
「だって、これからもいろんなチホーを巡って美味しいものとか、楽しいこと、いっぱい体験するんでしょ。行く先々で問題を解決したり、時にはパークの一大事件を解決したり……」
そこまで言って一息つくと「そういうの、とっても素敵だと思う」とにっこり笑った。
もし彼女が――。
もし彼女が一緒に来てくれたらこの先どれほど楽しい旅路になるだろうか。さすがに彼女が今言ったようなパークの一大事件なんていうものはもう御免だが、好奇心旺盛な彼女のこと、きっと多くのドキドキ、ワクワクをもたらしてくれるに違いない。
そう夢想したら、言葉が口を衝いて出ていた。
「ねぇセーバルちゃん。もしセーバルちゃんがよければなんだけど、これから僕と一緒に旅しない?」
「えっ?」
セーバルが目を瞬く。
「別に嫌だったらいいんだ! ……でもせっかくセーバルちゃんと仲良くなれたんだし、このままお別れするもちょっと寂しいかなって」
「ほんとに? わたし、またいろんなとこ旅したり、船に乗ったり、冒険できるの?」
目を輝かせたセーバルの顔がずい、と近づく。かばんが応じるように「うん」と頷いた。
「ただ楽しいことばっかりじゃなくてきっと大変なこともたくさんあるだろうし、セーバルちゃんにもこの島での生活があるから勿論無理にとは言わないけど――」
「でも」と一呼吸置いてかばんが言った。
「セーバルちゃんが来てくれたら、嬉しいな」
今日初めて会った彼女に、いきなりこんなことを言うのは不躾かもしれない。でも、明日この島を去る、ということを考えた時、どうしても伝えておきたいと思った。
別に断られてもいい、むしろ断られて当然とすら思っていたかばんだったが、セーバルの反応は思いの外肯定的なものだった。
「かばんと一緒に冒険……! わたしも嬉しい! わーい、わーい」
取ってつけたようなわーい、わーいという喜び方がなんだかぎこちなくて、思わず笑ってしまう。この抑揚のない喋り方も、どうやらセーバルの特徴らしい。
「じゃあわたし、先に上がるね。いろいろ準備もあるし。かばんは、まだゆっくりしてていいよ」と言い残しそそくさと出ていってしまった。
「あ、セーバルちゃんタオルタオル! ――行っちゃった」
湯船に残されたタオルを見つめる。ぷっかりと浮かんだ孤島が、行き場をなくしたように漂っている。
明日この島をセーバルと一緒に出る――そう考えただけで全身が震えるような喜びを感じた。
「――くしゅん! うぅ、ちょっと冷えちゃったかな。僕もそろそろ上がろっと」
セーバルの残したタオルをそっと掬い上げると、かばんも浴室を後にした。
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