一つになれない

鬼木ニル

一つになれない

選択科目で何となく取った音楽の授業。

私はピアノの置かれた個室で、同じ音楽を選択している里織菜りおなと並んで鍵盤に向かっていた。

アップライトピアノが一台だけ置かれたこの小さな防音室は、音楽室に三つ併設されている。

自由にペアを組んでギターかピアノどちらかを選び課題曲を練習する、という授業で私は絶賛苦戦していた。

音楽なんて選ぶんじゃなかった。


真希まき……出来そう?」


さっきから繰り返し同じ音を弾く私を、里織菜は心配そうに覗き込んだ。

黒目がちの女の子らしい顔立ち。肩までのボブヘア。

女の私から見ても里織菜は可愛い。

私は首を横に振った。


「だめ、出来ない」


何度繰り返してもうまく弾けそうにない。

大体にして、私は今までドレミファソは五本指を使って弾くものだと信じて生きてきた。

それをいきなり、ソの音は小指を使わないでまた親指で弾くこと……なんて言われても指が、脳が追いつかない。

元来不器用な方だったし、芸術のセンスもない。

右手だけでいっぱいいっぱいだというのに、左手も動かせとは無茶な話だ。

苦戦し続ける私とは反対に、里織菜の指運びは完璧だった。

昔ピアノを習っていたらしい。

女の子らしくて、育ちの良さを感じる里織菜のイメージにピアノはぴったり合っていた。

友達の情けでどうにか教えて貰ってここまで来たものの、ペアを組んだ里織菜の足を私はずっと引っ張り続けている。


里織菜は私の指を見て言った。


「指、長いから大丈夫だよ」


私は手を広げてみた。

これは長いのだろうか。自分じゃよくわからない。

特段細くもない、少しだけ大きめな手。

手のひらを眺めていると里織菜がその上に手を重ねた。

私より華奢で小さな手だった。

温かい。遠慮がちにそっと触れ合う。


「ほら、ねぇ、真希の方が長いし……」


ハッと息を呑んだ。

まるで手のひらから感情が流れ込んでくるみたいだった。

防音室の外でうっすらと聞こえてくる男子たちの声、ギターの音。

私は思い出していた。

耳を凝らさないと聞こえてこないほど小さな笑い声。めちゃくちゃに弦を掻き鳴らす音。

すぐにわかる、拓斗たくとの低い声。


拓斗は男友達の中の一人だった。

同じクラス、バカなことを言い合える友達。

同じゲーム、同じ漫画、同じバンドが好きだった。

不思議と話のテンポや笑いのツボがよく合っていた。

ただの仲のいい男友達。

居心地がよかった。

このままずっと、友達でいられるだけで幸せだったはずなのに。

偶然二人きりで帰ったあの日、私は少し前を歩く拓斗の指をそっと捕まえて言った。


「私のこと、何とも思ってないもんね」


里織菜は慌てて手を離した。

離れてゆく温度。時間がまた動き出す。

俯く里織菜の耳は少しだけ赤い。

私は気づいていた。痛いほどに。

女子同士のなんてことない戯れを里織菜はいつも少し離れた場所で見ていた。

抱きついたり、手を繋いだり……そこにあるのは確かな親愛。

里織菜に同じことをすると困ったように笑うのが可愛くて、私を含め、女友達はみんなでからかった。

里織菜は可愛い。

そして優しい。

櫛を忘れたと言った私に真っ先に貸してくれる。

私の僅かな鼻声に気付いて「風邪?大丈夫?」と心配してくれる。

時折感じる視線。柔らかな笑み。

「おはよう」と言う声。

同じキャラクターが好きだから、二人で鞄につけたお揃いのぬいぐるみ。

里織菜がくれたものだ。


「あ、そうだ、お手本弾いてみて」


私が言うと里織菜は一瞬、ホッとしたような顔を見せた。

そして小さく頷いて課題曲の「エリーゼのために」を奏でる。

私でも知っているメロディ。

里織菜の小さな手は力強く、流れるように鍵盤の上を次から次へと駆けた。

正確で鮮やかな旋律を私は黙って聴いていた。

ここには二人きり。

丁寧に音を紡ぐ里織菜と、それに聞き惚れる私だけ。



放課後、スマホにSNSの通知があった。


『今日どうする?』


拓斗からのメッセージ。


『行くよ』


たったこれっぽっちの短いやり取り。

じれったいことは必要なくて、通知が来たらすぐに確認して返信する。

あの日。私が拓斗の指を捕まえてしまったあの日以来、私たちのやり取りは味気ない短文に変わってしまった。

通知が来るのが楽しみで、何度も考えて返事をした日々が嘘のように思える。


部活に向かう者、我先に帰る者、だらだらと教室に残っている者……騒がしい教室の隅をちらりと見ると、男友達に囲まれた拓斗は澄ました顔でスマホをいじっていた。

胸元に覗くシルバーチェーンは嫌でも目に入る。

あれは隣のクラスの沙弥さやちゃんとお揃い。

ペアリングをネックレスにして身に付けているのだ。

二人が付き合いだしたのはいつだったか。

確か入学してすぐのことだったように思う。

あの頃はまだ私も余計な感情を持ち合わせていなかった。


拓斗はこの後教室を出て、彼女である沙弥ちゃんを駅まで送る。

私はいつも通り、それを見ないふりしてやり過ごす。

そしてまた拓斗から味気ないメッセージが来たら、学校からそう遠くない拓斗の家まで向かうのである。

何をするでもなくゲームをして、漫画を読んで、そのうち体を重ねる。

ただの友達の枠をはみ出したふしだらな関係。


ちらほらと教室から人は居なくなり、ついに残るは私と里織菜の二人きりとなった。

「この後予定あるしもう少し残るよ」と私が言うと、里織菜も他のクラスの友達を待つからそれまで一緒にいようという。

教室の窓から見えた空にはうろこ雲が群れを成していた。


私たちは適当な席に座って、いつもと何ら変わりのない話をした。

新しいカーディガンがほしいとか、お互い何色が似合うとか、当たり障りのない会話。

音楽の授業のことをまるで忘れたわけじゃない。

ただ頭の片隅にあった手のひらの温度を、私は遠い昔のことにしようとしていた。

でも里織菜はそうじゃなかったのだろう。


「真希って、彼氏いる?」


切り出された言葉は、あの遠慮がちに重ねられた小さな手を嫌でも思い出させた。

あれは現実で、ついさっき起きたことで、決して遠い昔の淡い記憶なんかじゃない。

そう私に痛感させた。

目の前の里織菜は小さく愛らしい唇を噛んで目を伏せた。


「……なんで?」


なるべく平然を装って答えた。


「だって、男子の友達多いし、真希……可愛い、から」


里織菜は今にも泣き出しそうだ。

眉間にシワを寄せて、また下唇を噛んで耐えている。

なんでそんな顔をするんだ。

私が気付いてしまうじゃないか。


「いないよ」


彼氏なんていない。嘘ではない。

里織菜の潤んだ瞳が私を捉えた。

すぐに目線をそらして、窓の向こうの白い群れを眺めた。


「私、男子からそういう目で見られたことないし」


女らしくないし彼氏なんて出来そうにないや、と続けた。

私は何も気付いてない。だから里織菜も笑って済ませてくれればいい。

なかったことにしてしまおうよ。


「……私は、私は好きだよ」


そう言った里織菜の声は震えていた。

白い白い群れが遠ざかっていく。グラウンドで部活動に励む声も、廊下の方ではしゃぐ誰かの声も、ボールの音も、足音もみんな遠ざかった。

ありがとう、なんて軽々しく言えない。

期待を持たせるのがどれほど酷か私はよく知っている。

知らないふりは今更出来ない。

ここには里織菜と二人きり。でも何故か一人ぼっちに感じる。

決めなきゃいけない。逃げられやしない。

時間が止まってしまったかのよう。

無碍にも出来ない。

女友達みんなで毎日毎日、くだらない話で笑い合うんだ。いつか来る卒業の日までずっと。

優しい里織菜。可愛い里織菜。大好きな里織菜。

私は友を失うことを恐れた。


嗚呼もしも私が男だったら、里織菜への友情や僅かな同情を違う形に変えられたのかもしれない。

アイツが私にしているように。


「里織菜って本当に優しいね」


これが私の出した答え。 

足音、笑い声、ボールの音、掛け声。里織菜のため息。

時間にしてみたら数秒の出来事だろう。

驚くほど長く、そして惨いほどに一瞬の出来事。

里織菜は「そんなことないよ」と小さな声で言った。


私は友を守った。

あの日私が自分勝手に壊した友情という不確かなものを、今度は必死になって守ろうとした。

里織菜の中ではとうの昔に失われていたかもしれない友情を。


手にしていたスマホから通知音が響く。

拓斗だろう。


「真希の方が優しいよ」


里織菜のはっきりとした声は、ピアノルームの私たちを遠い過去へと押しやった。

温かく小さな手は、途端に色褪せてしまった。

確かに友を守ったのに。

もう二度と、誇らしげにエリーゼのためにを弾く里織菜には会えないのだ。

次の音楽の授業で、私たちはどんな風に音を奏でるのだろう。

想像することもできない。

確かなのは、胸が張り裂けそうなほど痛み、そして途方もない罪悪感を覚えているということ。


もしも私が男だったら、もしも拓斗が女だったら、もしも里織菜が男だったら、もしも私たちが友達じゃなかったら。

あらゆる可能性が頭をよぎる。

たとえどうあろうと私たちは、互いのことを知りながら永遠にわかり合えない。

形の合わないピースたちが、ひしめき合っているだけなのだから。


スマホに目を落とすと案の定拓斗からメッセージが届いていた。


『いいよ』


なんの救いにもならない許しの言葉。

家においでと誘っている。

壊れた友情を慰めるために、同情で私を呼んでいる。

間違っているとか、正しいとか、いつからとか、そんなことを考えてもキリがない。

私は『今から行く』という、最早すっかり打ち慣れた文を返した。



END

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