第18話 Orange Colored Sky

 土曜日はメンタルクリニックの診察日だった。思えば、「なんか胸にしこりが出来て……」と報告してからの1ヶ月の間にあまりにも色々ありすぎた。

「その後どうですか」

 と言われ、しこりが急速に大きくなったこと、その後結節性紅斑になったこと、なんだか免疫系の異常が疑われているらしいことを順を追って説明した。

「大変でしたね……」

「ステロイドを飲んで今は痛みは落ち着いています」

「それは良かった。では、ドグマチールはあまり関係なさそうですし、プロラクチン濃度を測るのはやめておきますか」

 スルピリド(ドグマチール)が本当に関係ないのか、ホルモンバランスが崩れたことはもしかしたら関係があるんじゃないか、とも思ったが、ここで言ってもしょうがないし、いずれにせよ服薬をやめて1ヶ月以上経ち、症状も落ち着いてるこのタイミングで血中濃度を測っても意味が無いような気はしたので、私は頷いた。

 1ヶ月前から、メインの抗うつ剤であるデュロキセチン塩酸塩(サインバルタカプセル)を勝手に減薬している件について、この日主治医に打ち明けず、薬はちゃんと飲んでます、余ってないです、と嘘をついた。(しつこいようだが絶対に真似しないで欲しい)この時点で、本来50mg/dayの服用指示のところを、30mgか20mgまで減らしていたと思う。減薬の段階を踏む度に多少の離脱症状には苦しんだが、この1ヶ月はそれどころじゃない肉体的苦しみに悩んでいたので、減薬自体の影響を自分でも把握していなかった。


 薬局でお薬手帳を見た薬剤師さんが「これは……なんか大変なことになってますね」と苦笑した。色々薬を試されたり、細切れに痛み止めを処方されているため、お薬手帳はあっという間にページが進みまくっていた。

「それで最終的に、ステロイドを服用しているんですね。何か困ったこととかありませんでした?」

「今のところは……ちょっと、最初夜に眠りづらいなって感じたんですけど、昨日から夜の方の服用量が5mg減ったので、先生には大丈夫でしょう、と言われました」

「そうですね、徐々に減らしていくみたいなので、大丈夫そうですね」

 ステロイドの処方は薬剤師さん的には心配になるものらしい。

 とりあえず、胸の件は大きな病院で継続して見てもらえることになったという報告をし、薬剤師さんには重ねてお礼を言った。


 この日、街中のジャズ・バー的なところで、ボーカル・レッスンをしてくれている先生が歌うことになっていた。私は駅に向かい、先生の出番までの時間を潰した。

 何年か前に本屋大賞を取った宮下奈都さんの「羊と鋼の森」を、カフェで読む。大分前に買った文庫本だったのだが、最近は落ち着いて読書をする時間と心の余裕がなかった。この日はじっくりと、そして一気に読んでしまった。

 話題になったので今更紹介するほどのこともないかもしれないが、若手のピアノ調律師の物語である。少し不器用な若者が、仕事と、それを通じて様々な人と出会いふれあいながら、自分を見つけていく。キャラクターや職業もの的な面白さもさることながら、とにかく文章が美しく心地よく、幸せな読書体験だった。


 バーに入って白ワインとジントニックを飲んでいたらなんか汗がだらだら出て来た。私は元々ものすごく汗っかきなので、稀にこういうことはあるのだが、それにしても、タオルハンケチがべっしょべしょになるぐらいの異様な発汗量。バーのママさんが時々店の前の扉を開けたり閉めたりして風を通していたので、実際にちょっとムシムシと暑かったのは事実なのだと思う。この日は9月の後半だった。

 汗をふきふきしながらカウンターでのんびりする。こういうお店にこの年代の女が一人でいると目立つらしい+カウンターに座ってる常連のおじさま方は割と人見知りしがちなタイプが多いらしくて、すごくそわそわした気配の末に、常連のおじさまが話しかけてきた。

「いつもよく来るの?」

「いやー、よく来るってほどでは……○○さんに、ジャズ教わってて、その生徒仲間とたまに聞きに来たりするんです」

「あー! ○○ちゃんに、歌、習ってるんだあ」

 我々プレイヤーからすると、先生はこの辺りの地域のJazz界では重鎮クラスのミュージシャンだと思っているのだが、バーの常連さん的には、歌をうたう気の良いお姉ちゃん的に思っているようだ。実際、気さくな性格が常連さんたちに愛されているのだ。

 そこにちょうど、出番の時間が近づいて先生が入店してきた。

「ああ! 碧ちゃん!?」

「先生~! ご心配おかけしまして」

「いやー、姿見れて安心したけど、無理しちゃだめよ!」

 そう言い残して奥のスタッフルームに入っていく先生を見て、常連のおじさんが

「いやー! ○○ちゃんがマジで先生っぽい! なんか貴重な瞬間見ちゃった!」

 とはしゃいでいた。


 ところで、この1ヶ月、結節性紅斑のどたばたでレッスンは全欠席となっており、「レッスン行けなくなりました~!」と、教室の運営スタッフの人に連絡入れたときに「歩けないんです!」とだけ言ってしまったので、一体あいつ何がどうしたんだ、と長い間スタッフさんや先生、姉弟子たちに心配かけたままになっていたのである。

 で、元気になりましたよ、というのを先生に報告したかったのと、来月に控えている発表会をどうするか……という件を、ちょっと相談したいな、と思っていた。

 と、まあ、ゆっくり話せるタイミングはステージの後になる。レギュラーバンドの演奏が始まった。

 この日の演奏された曲は、何故だか偶然、私の好きだなあという曲が多かった。先生のよくチョイスする曲に、「Orange Colored Sky」というのがある。夕日の中で突然ドラマティックなボーイ・ミーツ・ガールが発生する。幸せなコード進行とスウィングの楽しい曲なのである。たまに修行中らしいベースの若いプレイヤーがバンマスに叱られてたような気がしたが……とても楽しいステージだった。

 先生の歌は楽しい。かっこいい。圧倒的。あんな風に歌いたい、と聞く度に思う。

 そして、この日は、それと同時に、あ、やっぱり、発表会、無理だな……と思った。

 半月後に予定されている発表会は、先生のつてで東京で活動されているミュージシャンをバンドに呼んでくれたり、初めてのホールで開催されることになっていたり、何かと豪華な予定が組まれていた。だったので、私も、ちょっと、難しいことにチャレンジしようかな、と思ったりしていた。でももうこの1……いや、8月からだから、ほぼ2ヶ月ほどの間、全然歌に打ち込めてきていなくて、中途半端なことをしても、後悔するだけじゃないか、と。

 ぐるぐる考えていると、すべてのステージを終えて先生が私の座っていたカウンターに腰掛けた。

「体調大丈夫になったん? っていうか……めっちゃ汗かいてるけど大丈夫なん?」

「うーん、汗っかきは元から汗っかきなんですけど……もしかしたらなんかホルモンバランスとか崩れてるのかも……」

「そいで、なんか治療受け取るんけ」

「今大きい総合病院行って診てもらってます。先週からステロイド飲んだら、とりあえず歩けるようになった、みたいな状態で」

「ステロイドか~、身体に負担大きい薬っていうけどね~」

「でもまあ、具合良くなったんで……発表会、どうしようかなって、思ってたんですけど」

「碧ちゃんの精神的負担になるんなら、無理する必要はないんよ。今後も発表会あるんだし、それに向けてもっといいもん目指して行けば」

「そうですね……」

 その後、先生はまかないのカレー? か何かを食べたが、

「なんか今日はこれじゃ足りないわー 碧ちゃん、カレーうどん食べに行かん?」

 ジャズシンガーが、バーでの出番終わりに食べる、カレーうどん……。連れて行かれたのは、繁華街の外れにある、庶民的な、小さな店だった。

「暖かいもの食べて、免疫の力上げんならんのよ。私も33の時、えらい目にあって……あ、碧ちゃん厄年とか大丈夫なん? お祓いせんとあかんよ」

「え、厄年って33なんですか? ドンピシャなんですけど……」

「33が確か後厄やわ。私そのとき、ひどい低体温になって。もうほとんど家で寝てるだけみたいな生活。最終的に、音楽関係で知り合った人が、漢方処方してくれる先生紹介してくれて、なんとか治ったん。それから私は風邪引いても何しても漢方に頼ってる」

「ほえ~」

 確かに、低体温症って西洋医学よりは漢方の方が効きそうな気がする。勝手なイメージだけど。

「厄年がどうというか、それぐらいの年代は体調崩しやすいってことなんだよ。昔の人はそれがわかってたから偉大だよ。我々は事前に気をつけること。それから、厄年のせいなんだから仕方ない! と思って、くよくよしないこと!」

 思い悩まないこと。

 これ、重要な気がした。

 とにかくこの2ヶ月間、精神的に疲弊した。がんかもしれないと言われたり、猛烈な痛みが続いたり、突然歩けなくなったり……でも少なくとも、それは誰が悪いとかじゃなくて仕方ないことだったんだ。それぐらいのことは思わないと、やっていけない。

 身体の温まるスパイシーカレーうどんを食べて満たされた後、別れ際に、先生は言った。

「女の厄年は30代に2回来るからね!」

 絶望じゃん!

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