第8話 パイとオツの女王

 病を得ると、人は情緒不安定になるものである。私なんて、いつもちょっとした風邪をひいただけでも結構気が滅入ってしまう。まして、県内で1、2を争うぐらいの規模の総合病院にわざわざ来なければならないような不調がある方々は、心の余裕を失ってしまっても仕方ないだろう。

 というわけで、外来の総合受付とその周辺はカオスを極めていた。

 システムがわからず右往左往するご新規の患者たち、彼らに患者カードを作るために書類を説明しながら配ろうとする事務の方々に、横から

「私の順番まだなの?!」

 と詰め寄る人、そういう時に事務員さんをサポートするためなのか、病院の正規の事務員さんとはちょっと違う制服を着たボランティアスタッフぽい方々も受付カードを持って辺りをうろうろしているが、平日の昼間にボランティアできるような方々は少々お年召していらっしゃるため、動きが遅くて全然フォローが間に合っていない!

 「診察カード作成の乱」からなんとか抜けだし、エスカレーターに乗って外科の受付に行く。待合室のソファーには3~40人はいただろうか。カルテを作成するための書類を渡された。受診の経緯を記入する紙、これまでの病歴や薬剤アレルギーなどを記入する紙、そして、「もしも治療が困難である病などであった場合でも、病名を知りたいですか」みたいな感じの、告知に関するアンケートだった。

 例えばがんだったとして、それを知りたくない人って実際どれぐらいいるのか、ちょっと興味がある。私だったらはっきり余命宣告してほしいな。残り少ない余生、すべて鳥を見に行くことにかけたい。

 とか考えていると、診察室から名前を呼ばれた。

 紹介状の宛先となっている先生ではない別の先生の診察室だったが、初診の人は必ず別の先生が一度診ることになっているらしい。

「碧さん、乳腺に病変があるが診断がつかなかったという紹介でしたので……まずはエコーとマンモグラフィーをしてから、権威先生の診察をしてもらいます」

 お決まりの展開である。

「あの、胸がとても腫れていて、とても痛いので、できればマンモグラフィーはしたくないんですが……」

「ええー」

 渋られた。

 診療所で撮ったマンモグラフィーの結果が紹介状に同封されていれば良かったのだが、マンモグラフィーの写真は、よくわからないけどなんか固くて折り曲げられない素材でできているので、同封されていなかったのである。

「とても痛いんです……勘弁してください……」

 食い下がったら、先生は渋々、マンモは取りやめにしてくれた。

 拷問を回避できてほっとしつつ、私は診察表を持って画像検査のエリアへ移動する。

 おっぱいはだいぶ痛かった。ここ数週間、痛み止めを毎日服用していたのだが、今日は大病院で診てもらう日だから、薬で炎症が収まっていたら正しく診断してもらえなくなるのではないかと、あえて朝から飲んでいなかったのだ。ありのままのおっぱいを診てもらうために、ありのままの痛みを受け止めることにしたのだ。

 右手で左のおっぱいのキワに爪を立て、歯を食いしばった。Let It Go...少しも痛くないわ...と歌う気分にもなれない。

 沢山あるエコー検査室の一部屋から、碧さん、と名前を呼ばれた。

 担当してくれるのは割と若く見える女の技師さんだった。

 上半身裸になって診察台に乗ると、右胸以外の部分にタオルが掛けられる。外気に触れていたら冷えちゃうからね。

 まずは右胸からだ。ぬくいジェルをぶっかけられ、プローブを押し当てられ、ピッピッピという音とパソコンを操作する様子から、手慣れた感がある。あっというまに右が終わった。医者以外の医療従事者は、病名の告知とかをしてはいけないことになっているので、別に「右は異常ありませんでしたよ」とかは告げられない。

「それじゃあ、左の方、見させて下さいね」

 左のおっぱいにかけられていたタオルが右にずらされた。それを見て、技師さんが、んー、と思わず口にした。

「腫れてますねえ……」

「はい……」

「エコーの検査するだけなら大丈夫そうですか? 痛かったりしたら、すぐに言って下さいね」

 この言葉を聞いたとき、マジで泣きそうになってしまった。

 この一ヶ月、痛みに関してめっちゃないがしろにされまくってきた。Y医院では痛いから嫌だって言っているのに無理矢理マンモされるし、さっきも同じ目に遭いかけたし、とある県内で有名だというクリニックでは「胸なんてみんな痛いんですよ、うちで検査なんかしてもしょうがいないんです」とか言って診察を断られた。

 腫れてますよね、見るからに痛そうですよね。それをわかってくれただけで、すごく救われたような気分になった。

 心が弱っているとき、痛み(肉体的・精神的、問わず)に対する理解と労る気持ちを示されると、こんなにも、心に余裕が出来るんだなって思った。

 プロの医療従事者や! お姉さん!(私より若いかも?) ありがとう!

 左のエコーが始まったが、プロフェッショナルなお姉さんはもちろん「えっ……境界が……?!」とか「うーん、なんだろうこれ……?」などと呟きはしなかったが、一瞬、困ったようにプローブを持っていない方の手で拳を作りアゴにやったのを見逃さなかった。

 とはいえ、もちろんこの場では何も告げられず、お大事に、と言われて、私はエコー室を退出した。

 外来の診療エリアに戻り、順番を待つ。程なくして、権威先生と初対面になった。

「碧さん、エコーの結果なんですけどね、右の胸にやはり、腫瘍がありますね」

「えっ腫瘍?」

「うん。ちょっとね、エコーのプローブより大きかったんで、正確な大きさは測れなかったんだけど、まー、6~7cmぐらいかな。これだけ大きかったら、良性のものでも、生活にも支障が出るし、まあ、手術で切除という形にせざるを得ないと思いますが……」

「あ、あの、Y先生は、腫瘍ではなかった、って言ってらしたんですが……やっぱり腫瘍なんでしょうか?」

「いや、これは、どう見ても腫瘍ですよ。ほら、この辺ね」

 と言って、さっき撮ったエコーの写真の一部を指す。

「その前に病理の検査をしますよ。前の病院でもやっているとのことですが。エコーしながら採るので、横になって下さい」

 ベッドの脇に小さいエコーの機械が置いてあった。上半身半裸になってそこに横たわる。いままでの検査だったらあたためてあったジェルが、冷え切っていたので、ぶっかけられた瞬間うひょおおお、となった。エコーの画面は私の目にも見えやすい位置にあったのでガン見した。

「見えるでしょ、これが腫瘍ね。大きい。境界ははっきりしているなー。多分線維腺腫ではないという感じがする」

 ふんふん、よくわからんけど。

「局所麻酔しますね。ちょっと痛いですよー」

 もはや慣れたものである。

「ここから刺そうかな。消毒します。はい、入れますねー」

 エコーの画面内の、先生が「腫瘍」と称す範囲に、明らかに針の形をした影が現れる。

「この辺取っとこうか」

 がっちゃん!

「はい、ちょっと、碧さんこのガーゼ押さえといてくれる。オーケー。二つ目行くね。今度はこっち側を……」

 がっちゃん!

「はい、最後に反対側を……」

 がっちゃん!

「あ、ちょっと境界ギリギリの辺りの検体も取っておくか。もう一回刺しますねーはい」

 がっちゃん!

 というわけで計4回刺された。

「エコーしながら取ったから、間違えて患部じゃないところの組織を取ったということはないはずだよ」

 と先生は言った。すなわち、前の先生が肝心なところを外してしまったと疑っているのだろうか。確かにあの時、エコーは使ってなかった。

「それで、この結果が出るのが、一週間後なんだけど、僕、来週からちょっとこの病院いないんだよね」

 こういう公立の総合病院は夏休みをそれぞれずらして取ると聞いたので、多分それだな、と思った。

「なので、次の診察は、再来週でいいかな。それまでに、MRIとCTも撮ってもらいます……あー、CTの予約埋まってるなー」

 突然、PHSで先生はどこかに電話をかけた。

「あー、もしもし、あのね、乳がんの疑いのある患者さんがいて、急ぎでCT撮りたいんだけど。○○日の午後……うん、その辺で、あ、オッケ―? じゃあオーダー入れときますね、よろしく~」

 先生、今めっちゃさらっと乳がんの疑いって言いおったな?

「CTの予約も取れましたんで、その日、CTの後に僕の診察ということで……そのとき、ご家族の方、誰か、連れてきて下さいね」

 またかよ! てか、今めっちゃ乳がんって私の目の前で言ってた流れで、この付き添い、本当に要る??

「……えーと、わかりました。あ、あと、先生、前に針生検したとき、すっごく痛みが続いたので、痛み止めを処方してもらえないでしょうか」

「ええ? 針生検て、腫瘍に針を刺すだけなんだよ。そんなに痛いはずないんだけどなあ……」

「でも、1週間ぐらいは、続いて……」

「とりあえず、4日分ぐらい出しておこうか。まあ、こんな大きなしこりが胸にあったら、そりゃ、痛いよねえ。検査の痛みじゃなくて、その痛みだったんじゃない?」

「あー……そうなん、ですかねえ」

 確かに、検査のプローブで大きさ測れないぐらいの何らかの異物が身体の中にあって、痛くないはずはない、とも言える。

 納得できるような、できないような、とにかく、今回はロキソニン(医療用)を手に入れたので、激痛が来ても安心!

 そう思い、帰宅したのだった。

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