第6話 R-E-S-P-E-C-T
日本時間の2018年08月17日、深夜、ツイッターのタイムラインを見ていて、アメリカのソウルシンガー、アレサ・フランクリンの訃報を知った。
ティーンのころ、R&Bとかブラックミュージックを聴くのが好きだった私にとって、アレサはアメリカの音楽界に君臨する女王であり、偉大な、大御所、という存在だった。
私がティーンエイジャーだった頃、当時まだDestiny's Childというガールズグループの1メンバーであったビヨンセが、"Independent Woman (Part1)"という曲をセルフプロデュースで発表し、彼女は自立し華々しく活躍する女性の象徴、アイコンになろうとしていた。パワー・オブ・ウーマン、男に媚びない生き方、自立して輝く女性、それを発信するメッセージ性。
だが、ソウルミュージック……いや、アメリカの大衆音楽の世界で初めにそれをやったのは、アレサなんだ。60年代のアメリカで、それは衝撃的な挑戦だったかもしれない。しかし、彼女は結局クイーン・オブ・ソウルと呼ばれるまでに愛された。
彼女の死は、ひとつの大きな時代の終わりがやってきたようで、ずんと、心の中に何かが落ちたみたいだった。
楽器とか録音機材とか、全然まともなものは持っていないのだけれども、その日の夜、私は、Kindleに落とせる無料のキーボードアプリでコードを弾きながら歌い、PCに付属していた無料の録音アプリで録音し、ちょっと神妙そうに目を閉じているように見えるような気がしないでもないカルガモの写真と合わせて動画にし、ツイッターにアップした。
つたない歌い手だが、ソウルを愛する者として、追悼の意を示したつもりだった。曲は"(You Make Me Feel Like)Natural Woman"で、キーは彼女が若い頃歌っていたCmajor、ブリッジからコーラスまでを軽く歌った。ソングライターのキャロル・キングも、晩年のアレサも、B♭で歌っていると思う。
追悼のために歌うのならもうちょっと上手く歌いたかったし、もっと言うなら、前述の、アレサを女性解放運動の象徴に導いた"Respect"を歌いたかった。だが、いかんせん、練習が必要で、そのときの私は、歌の練習や動画制作ができるような状況じゃなかった。
おっぱいが、痛かったから……。
お盆休み明け以降、痛み止めは1日3回はもはや必須、それでも昼前、夕方になると切れてきて左胸が激しく痛む。この頃、仕事中も常になんとなく胸の上に爪を立て身体をこわばらせていたような気がする。残業なんてとても出来る状態じゃないので、就業のチャイムと共に、うめきながらそそくさと退社していた。
一度、
「碧さん、どこか具合悪いんですか?」
と帰り際にすれ違った同僚に聞かれ、それが自分よりだいぶ年上の、子どももいる女性だったので、思わず
「おっぱいが痛くて……」
と愚痴りかけたが、ツイッターで毎日「おっぱいが痛い」と呟いている状態だったので、もしこの同僚がなんとなく「おっぱい 痛い」で検索して、アカウントがばれたら大変だ……。
「あー……いえ、なんでもないです、お先に失礼しまーす」
そんなこんなしていると、この胸の謎の病が発症して以来初めての、メンタルクリニックの受診日がやってきた。
「どうですか、最近の、調子は」
いつも穏やかな印象の、初老の先生に、急に乳腺炎みたいな症状になったこと、検査をしたが腫瘍細胞は見つからず、様子見しようかと言われたこと、そのときにスルピリド(ドグマチール)の副作用を疑われたので、先生に相談せずに勝手に断薬してしまっていることを説明した。
「腫瘍がなかったなら、腫瘍ではないのでしょうね」
と、メンタルクリニックの先生は言った。
「ドグマチールで、プロラクチンが増えて、乳房に影響が出ることは、あるんですよ。大きくなったり、乳汁が出たり……乳汁は出てないですか? ないですか。碧さんの服用量は少なかったから、あまり心配ないと思っていたんですが……この夏は暑くて、身体への負担も大きかったから、それで、ホルモンのバランスが崩れたのかも知れませんね」
そう説明されると、納得できるような気がした。
「薬の影響で、しこりができてしまったんなら、薬を辞めた後、何ヶ月かしないと、症状はなくならないので、気長に様子を見ましょう。後、念のため、次回の診察時にプロラクチン濃度を測りましょうか」
スルピリドに関しては、断薬後、特に調子が悪くないのなら、まあ、いいでしょう、となった。そういうことでその日の診察は終わった。
薬剤師さんにも、メンタルクリニックの先生からの言葉を伝えると共に、色々相談に乗ってもらってありがとうございました、とお礼を言った。
このとき、ちょうど痛み止めが効いてて痛みを感じていない時間だったことと、メンタルクリニックの先生の言葉に説得性を感じていたことから、そっかー、ちょっと、治るまで時間がかかるから、様子見るしかないのかー、と自分の中で納得していた。
だがしばらくして痛み止めが切れるとまた痛い。
それでもまあ、好きなことをしている時間は少しだけ痛みも忘れられるだろう、と、日曜日は海に行った。見たかったのはシギ・チドリ類の鳥だ。浜や干潟にいる鳥で、夏はシベリア、冬は東南アジア辺りまで行ってしまうので、春と秋の、日本に立ち寄ったわずかな期間にしか出会うことができない。
この日、私は初めて「キョウジョシギ」というシギの仲間に出会えた。スズメぐらいの大きさで、細い足で砂浜を走る。色は茶色、黒、白の地味な三色だが、顔部分におしゃれな模様を描いている。岩や草の影からカメラを向け、シャッターを切る。だが、警戒心の強い鳥たちはピピピ、と声を上げながらすぐに飛び去ってしまう。繰り返しているうちに、疲弊してしまい、家に帰った。なんかだるいと思ったら、2年ぶりの生理が来ていた。ホルモンのバランスは正常に戻ったんだ、と思うと同時に、胸の痛みは生理が近いせいで胸が張っていた、というのとは関係ないことがわかった。
いよいよ、不安が募ってきた。
こんなに痛いのに、本当に、3ヶ月も様子見るだけしかできないものなんだろうか。クリニックの先生が知らない、何かの病気なんじゃないだろうか。
最初に一度電話して断られた、県内で一番有名な婦人科に、セカンドオピニオン的に、診察してもらえないかと電話してみたが、ひどく失礼な言い方で断られ、この一件でも、精神的にダメージを食らった。
続く痛み、原因がわからない不安、そして仕事のストレスが重なり、今思えば、あのときの私のメンタルは完全にヘラっていた。
メンタルがヘラったことのあるひとの多くは、こういった経験があると思うのだが、その時、私は、かなりダメな衝動に駆られた。
「ていうか、メンタル系のお薬、もう飲みたくない」
うつ病や統合失調症の寛解期なんかだと、調子に乗って薬辞めちゃうなんて問題行動はよくあるパターンだが、私は今回、スルピリドのせいで乳腺が痛くなったのではないか? という疑念があったせいで、お薬不信になってしまった。
他のメンタル系の薬も危ないのでは? やめたい! もう飲みたくない!
詳細は後述するが、この展開は、後々のえらいこっちゃな悲劇の伏線となる。読者諸氏は絶対に、絶対に、絶対に、真似しないで欲しい。
私は、メンタルクリニックから処方されていたサインバルタカプセル(一般名:デュロキセチン塩酸塩)の服用量を、勝手に減らし始めてしまった。
絶対に真似しないで!!
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