雷霆編 優等生は二度、挫折する



弩鐙いしゆみあぶみは弓術を習う為に鏡水次元流に入門した。


剣術は真貫流を目録まで修めていたので、少し嗜む程度で留めるつもりだったのだ。


最年少で目録を修めた天才剣士、周囲はそう評価し、彼女もその気になっていた。


だが、彼女の自信は木っ端微塵に打ち砕かれた。鏡水次元流継承者、壬生時定、通称「達人マスター」トキサダに完敗を喫したのだ。完敗どころではなく、勝負の土俵にすら立てなかった、と言った方が実像に近い。


初めての挫折、敗北の屈辱は、彼女を本気にさせた。その日以来、アブミは次元流を極めるべく、本気の修行を開始したのだ。




達人トキサダには娘がいた。娘の名は壬生シグレ、達人トキサダの娘ではあるが、凡庸としか言えない門人の一人。


アブミのシグレへの感情は、最初は憐憫だった。達人の異名を持ち、高名を馳せる父を持ちながら、才気の欠片も受け継がなかったとは、なんと哀れな。世襲で継承者になれると思っているのだろうか?


しかし達人トキサダは、次期継承者は実力と人格で決めると明言している。才気の欠片もないシグレが継承者になれる見込みはゼロに等しい。アブミはそう考えた。自分よりシグレが上なのは一つ上の年齢だけだと。


既に道場を出た高弟達がどの程度かは知らないが、今、次元流本部道場で自分より才覚のある者などいない。実力と人格で継承者を決めるというトキサダの言葉が本当ならば、自分は有力候補のはずだ。由緒ある鏡水次元流の継承者に選ばれるかもしれないという思いは、アブミをさらなる修行に駆り立てた。




道場内にはライバルはいないと思っていたアブミだったが、強敵は一人いた。強敵とは門人ではなく、たまに出稽古に来る槍術使いなのだが、アブミは豪放磊落な槍裁きを見せるその男に、どうしても勝てなかった。


性格性癖は好きになれない男なのだが、何度も何度も負けるうちにアブミの心に尊敬の念が湧いてきた。


寺の門前に捨てられていた孤児だったそうだが、親を恨むでもなく、強さを渇望するその姿勢。無頼でぶっきらぼうだが、時折見せる優しさ。


上流階級で育ったアブミには、野生児バクラは初めて見る人種だったと言える。


しかしアブミは気付いてしまった。バクラの眼中に自分の姿はない事に。


いったい、彼の目には誰が映っているのだろう。悩んだ挙げ句、アブミは本人に聞いてみる事にした。


自分でも何故だかわからなかったが、そうすべきだと思ったのだ。数年後、アブミは理由を理解する。


自分は単に話しかける理由を探していただけだったのだと。





いつものように出稽古に来たバクラは、門弟達を寄せ付けず、トキサダ直々に稽古をつけてもらっていた。


稽古が終われば井戸で汗を流すはずだ、バクラはいつもそうしている。今日こそ聞いてみよう、誰がその目に映っているのかを。


先回りして身を隠し、アブミの予想通りに井戸で汗を流し始めたバクラの背中に、アブミは意を決して近付いた。


「……アブミ、だっけか? 俺になんか用かい?」


声を掛けようとした瞬間に機先を制され、アブミの足が止まった。少し間を置いて嬉しさがこみ上げてくる。この荒武者はぞんざいで、次元流門人の名前をほとんど覚えていなかったからだ。


少なくともアブミは名前を覚えられていた、という事にはなる。


「はい。弩アブミと申します。ずいぶん前に自己紹介はしたはずですが……」


「そうかい。悪ぃな、俺は人の顔を覚えるのが苦手でよ。武芸者にゃ不要な事だしな。」


「顔と名前を覚えるのは、武芸者にも大事な事だと思いますが?」


「なんでだ? 戦って斃したら、もう死人だろ? 葬式に出るつもりがねえなら顔も名前も必要ねえさな。」


冗談で言っているのだと思ったがそうではない。この男は本気でそう思っている。


無頼すぎる心構えに戦慄したアブミだったが、なんとか当初の目的を思い出した。


「本気で仰ってるようですね。ところでバクラさん、一つ聞いていいですか?」


「あんだ?」


私が話しかけているのだから、こっちを向きなさい!アブミは怒鳴り付けたくなったが、かろうじて堪えた。


「私以外の門弟はバクラさんに歯が立ちません。ですがバクラさんは門弟達にも鬼気迫る戦い振りを見せますね? 師匠相手になら分かりますが、なぜあそこまで?」


「オメエが俺に歯が立ってるかどうかってのはさておきよ、獅子搏兎ってヤツさ。」


「獅子は兎を仕留めるのにも全力を尽くす、ですか。バクラさんがそんな殊勝な人間には見えませんでしたが……」


「当たりだ。そんな立派なモンじゃねえ。急速に追い縋られて焦ってるからさ。」


「私がそこまで腕を上げたとは思えませんが……」


そこで初めて荒武者は振り返り、アブミと顔を合わせた。


「おめでてえ女だな。誰がオメエだなんて言ったんだ? 俺が言ってんのはの話だ。」


「シグレさん!? 才気の欠片も持ち合わせず、毎日毎日、生傷を増やしてるだけの未熟者ではないですか!」


「わかってねえなぁ。そんなだから俺に勝てねえんだ。」


「シグレさんの力は門弟達の中でも下から数えた方が早いのですよ!あんな劣等生とこの私を比べるのは失礼でしょう!」


「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、って言葉を知らねえか?」


バクラの口からそんな言葉が出て来た事に驚いたアブミだったが、反射的に言い返す。


「そのぐらいは存じ上げています!」


「ああそうかい。存じ上げてちゃいるが、わかってねえってこったな。マジでおめでてえねえ。ま、せいぜいお山の天辺でいい気になってなよ。」


「失礼します!」


失礼で無礼な男に背を向けてアブミは立ち去った。こんな分からず屋を一時でも尊敬した自分への恥ずかしさで胸が一杯になる。なんて見る目のない男だろう!


達人の娘に生まれたからといって達人になるとは限らない。トンビが鷹を産むかもしれないが、鷹が鳶を産む事だってある。シグレさんは鳶なのに、鷹の子だからバクラさんにライバル視されているのだ!


この時からアブミのシグレに対する感情は、憐憫から軽蔑に変わった。




ライバル意識を燃やそうにも、シグレは弱くて話にならない。バクラを見返そうにもバクラには歯が立たない。もどかしくままならぬ現状に苛つく日々。


アブミはそんな鬱屈した感情を整理出来ないまま、修行を続けていた。


そんな彼女にお構いなく月日は流れ、変化の兆しが見えてきた。


軽くあしらっていたはずのシグレに、食い下がられるようになってきたのだ。


さほどの時を経ず、食い下がられるでは済まなくなってきた。アブミは焦った。こんな劣等生に苦戦しているようではバクラを見返すどころではない。


だが、アブミの焦りにもお構いなく、非情な現実が突き付けられる。アブミの16歳の誕生日、本来ならば記念すべきその日に、とうとうアブミはシグレに一本取られてしまったのだ。


その日が分岐点だった。挑めども挑めども、アブミはシグレに勝つ事が出来ない。死に物狂いで特訓を積んだが勝つどころか、その差は開いてゆく。


道場に入門した3年前には天地の差があったというのに、いったいなぜ……アブミは途方に暮れてしまった。




道場を辞める決意を固めたアブミは、掲げられた名札を外す為に、夕日の差し込む道場へと足を運んだ。


失意のアブミは道場内から聞こえる物音に気付いた。


いったい誰だろう? とうに稽古は終わっている時間なのに。


小窓から道場内を覗き込んだアブミの目に映ったのは、一心不乱に雑巾がけに励むシグレの姿だった。


……たかが雑巾がけにあんなに真剣な目をする必要があるのかしら? そもそも掃除なんてドローンにやらせればいい。雑巾がけと剣術にはなんの関係もないのだから。


いや、シグレさんは何をする時にでもをしている。思えば自分が真剣になっていたのは剣を握っていた時だけだった。


雑巾がけを終えたシグレは、道場内で座禅を組み、瞑想を始める。我が剣を極めようとする静謐な佇まい。


その姿はアブミに自分とシグレの差を悟らせた。あの姿は今日だけのものではない。シグレさんはずっとこうして歩んできたのだ。それに引き換え私はどう? シグレさんは敵じゃないとか、バクラさんに勝ちたいとか、誰かと比較してばかりだ。「私」がどこにもいなかった。私は私に向き合えていなかったんだ。


……勝てない訳だ。


「……わかったかい? オメエがシグレに勝てねえ理由がよ。」


アブミの背後にはいつの間にかバクラが立っていた。


「……はい。私は低く、なだらかな山の天辺から、悪戦苦闘するシグレさんを見下ろしていい気になっていました。でも、シグレさんは険しく高い山の山頂に挑んでいた。……私が勝てなくなるのは当然です。シグレさんは三年先の稽古をしていたんですね……」


私が道場に入門してから丁度三年、か。シグレさんの三年先の稽古が実を結ぶ時が来ていたのだ。


アブミはシグレが自分の上を行く理由を、すんなりと納得出来てしまった。


「俺がシグレが怖えと思う理由もあの姿なんだ。アホみてえに愚直に真っ直ぐ、自分の信じた道を歩む。負けようが貶されようが気にも止めねえ。アブミはセンチの見切りで満足していたが、シグレはミリの見切りを追及していた。打ちのめされて傷付こうが、高い高い理想を掲げ、出来ると信じて歩み続ける。並余の武芸者にやれるこっちゃねえ。シグレはメンタルの怪物なんだ。」


結果も出ないのに、腐らず嘆かず歩み続ける。言葉にするのは容易いが、想像を絶する困苦の道。歩み歩んでようやく出た結果が、私への勝利。でもシグレさんは全く勝てなかった私に初めて勝った時も嬉しそうな顔をしなかった。


その理由もわかった。シグレさんにとって、私は通過点に過ぎなかったのだから。


まだ見ぬ山巓を目指し、険しき道を歩み続ける旅人は、中腹にたどり着いても笑ったりしない。


いったいどれだけ高い山に登ろうとしているのだろう。私とは目的意識が違い過ぎる……


「今の結果を知ってもなお、私には出来ない。そんな剣が峰に身を置いて、傷付きながら歩み続ける事など……」


アブミのシグレに抱いていた感情は、軽蔑から尊敬へと変わった。そして弩アブミは決意する。


私も、私もシグレさんの後に続いてみよう。あの背中を追いかけるのだ。道を切り開くのは無理でも後に続くぐらいは出来るはずなんだから!



……そしていつの日か、高い高い山巓から見える景色を共にしてみたい。



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